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物語に「つかまる」とき

小説集「ピュア」が脱稿する。

あれだけ無理無理無理って担当さんに泣きついて、辛い思いをしながら書いたにも関わらず、早川書房でゲラを出し終わって喫茶クリスティー(早川書房1階のカフェ)でインタビューを受け、タクシーに飛び乗った瞬間から早くもロスに陥り
「ああ、もう私はこの物語を書くことは一生ないのだろうな」という思いがこみ上げタクシーの中で号泣してしまった。


物語が生まれてくる瞬間というのは不思議で、自分ではコントロールできない。

無理やり作り出すこともできないし(プロならできるという意見もある)、ただ、相手の方からやってくるのを待つしかない。

私はそれを「物語につかまる」と呼んでいる。

それがなんとなく、好きなテレビ番組のエンディングに流れる曲の一節を聞いてふと思い浮かんだものでも、好きなモデルさんのルックを眺めていてこんな主人公が書きたいなあ、でも、あの作家さんのああいう作品みたいなのが書きたいなあ、というはじめから目標ありきで書いたものでも、自分の中の業とか膿を全部出し切って浄化するつもりで書いたものでも、全部。

向こうから「つかまる」しかない。

津波のように。
厄災のように。

例えば今、コロナ禍で、多くの人が今までと違った生活を余儀なくされている。私は普段から引きこもりのようなものなので、あまり変化を感じずに生活していられるが、お店やさんをやっている知り合いは大変そうだし、いつも満員の美容室がガラガラで、常に朗らかな担当美容師さんが難しそうに眉間にしわを寄せていたりすると大変だなあ、と感じる。
「ピュア」も一応4月16日発売の予定だが、状況によっては延期も余儀無くされる可能性があり、出版社の皆さんは(そこまで大打撃を受けている業界ではないものの)なかなか緊張の中にある様子である。

けど一方で、

「この仕事、これまでだってリモートで十分よかったよね、なんでわざわざ対面でやってたんだろ?」

とか

「こんな密集して同じ時間に出勤しなくてもよかったよね」

とか、多くの人がこれまで感じていたものの、周りはやってるし、一人だけやめたらサボって見えるから・・・という理由で仕方なくやり続けていた「ムダ」をどんどんやめることができているように思う。正直にいうと、不謹慎ながらも、社会の変化にわくわくしている自分がいる。

いや、もちろん医療崩壊の瀬戸際だし、全然楽観視できる状況ではないことは重々承知の上だけど、なんていうか災害時って「本音」と「建前」の「建前」の方が無理やりひっぺがされて、生き残るために本質的な行動しか取れなくなってくるような気がするのだ。

飲み会だって、これまでわざわざ高いお金払って美味しいのかわからないお酒を飲んでいたのが、ちょっとした会話ならオンラインでもできるよね、本当に大切な人との大切なお店での集まり以外は控えようってなったら、どんどん偽物が剥がれ落ちて、本物だけが残るようになってくる。

こういうことって、世間全体が「コロナにつかまる」ことで起きたような気もするし(だからって起きてよかった、とは思わないけど)フラットに見たらプラスでもマイナスでもない、出来事って本当に無数のプラスとマイナスが組み合わさって最終的にはフラットになるようにできている気もする。こちらが好むと、好まざるとにかかわらず。「出来事につかまる」ことで起きることで、わたしたちの人生は動いている。

何か大きなことを個人の力で動かすのは不可能で、私たちは常に、「つかまる」ことで人生が動き、考えが変わり、その出来事を通り抜けた後には全く別の人生が始まってしまう、ことがある。

この1年間、小説の執筆とは別に、本当に辛い出来事に「つかま」っていて、夜中に飛び起きて大声で泣いたり、恋人に八つ当たりして困らせたりして、なんで私がこんな目に、とか、私の何がいけなかったのだろう、とぐるぐる自問自答して、そんなことしたところで事態がよくなるどころかもっと悪くなるだけなんだけど、とにかく濁流のような気持ちに飲まれて本当に苦しい思いをしていた(たぶん将来的に、このことについて書くこともあるだろうと思うけど、それはもっと先の出来事だ)。

このことがあったからこそ、私はもう、私をリスペクトしない編集者とは仕事をしないし、出張帰りに人の体に触っておいて、「小野さんが思うほど深刻に取ることじゃないですよ」なんてヘラヘラ言ってくるような輩とは絶対に関わらない(どころか、すぐに会社に突き出す)し、見た瞬間「こいつはやばい」と思ったら、仕事の利害が、とか、これまでうまく仕事回せてたし、とか思わないで一目散に逃げる、そういうリスクマネジメントを自分でとるべきなのだと(少々遅いけど)気づくことができた。けど、気づくまでには本当に意味のないぐらい途方もない時間がかかり、それは悩みの渦中にいるときには気づくことができなかったのである。

厄災や物語と同じで、悩みも、「その中につかまる」形で起きてくる。

なぜ自分がこんなに辛い目にあうんだろう、苦しい、他の人は楽しそうにしているのに、もういやだ、と足掻いている、誰もが幸せそうに見えて、こんな悩みに捕まっているちっぽけな自分は如何、と自分を責めたくなってしまう。抜け出したいと思えば思うほど抜け出せない。しいたけ先生が何かで書いていたけど、「悩まないためには、”そんな簡単に解決しないっしょ””しばらくこの辛い状況が続くっしょ”と諦めてしまうことなのだ」と、わかっちゃいるけど私は堪え性がないのでどうしたって解決策を欲してジタバタ、あがいてしまう。この状態って小説を書いているときと同じで、どうにか頭の中にあるぼんやりとした物語のイメージを、形にするために四苦八苦、奮闘している状態、頭の中に一つの「解決策」という型があって、それを現実化するためにジタバタ足掻いている状態なのである。それが実現可能か不可能かに関わらず(小説家というのは妄想力の塊なので、ときに実現不可能な、とっぴな解決策ですら実現可能と見誤って実現しようと奮闘してしまう、厄介な人種である)。


しかも、もっと面倒くさいことに、悩みも、物語も、形になって抜け出せたところで、どうということはないのである。

現実的にはやっと抜け出せた、という実感があるだけで、数日後にはまた、別のものに捕まっている。

今、私の頭の中には新たな物語があって、それを人の目に触れる形にすることを思うとわくわくする。一方で、これをいつまで繰り返すのだろうという若干のうんざり感もあるが、生きている限り細胞は生まれ直しているのだし、やがて命を芯から使い切って「つかまら」なくなる時まで、ただただ繰り返すより他にないのだ、という諦めがある。




ありがとうございます。