ディケンズ『クリスマスキャロル』訳注つき和訳(第2節より婚約者との会話の場面)

和訳の第三弾です。ここも既存訳で混乱がみられる箇所。既存訳に物足りない方の参考になれば幸いです。できるだけ原文に忠実に訳すようにしていますが意味が分かりにくいところは意訳しています。間違いをみつけましたら、ぜひコメントください。

若きスクルージと婚約者が会話する過去を精霊に見せられている場面となります。スクルージがなぜ守銭奴となり、かつ、人を避けるようになってしまったのかを理解する鍵となる重要な場面だと思います。

他の箇所の翻訳も含めて以下のマガジンに、まとめてあります:

(最終更新日2022/7/30)

翻訳原文の冒頭
“It matters little,” she said, softly. “To you, very little.

「たいしたことではありません」彼女は静かに言いました。「あなたには、とても些細なことです。あなたにとっての特別な存在がわたしから他に移ったというだけ。それがあなたを元気づけ、慰め、わたしがしようとしていたことができるなら、何一つわたしが悲しむことはありません」
「何に移ったというんだ?」彼は言い返しました。
「金色のもの」
「この世の公平平等な態度ってやつだな!」と彼は言いました。「貧困ほどつらいものはない。それなのに、富の追求ほど厳しく公然と非難されるものもない!」[*訳注1]

*訳注1 会話がちぐはぐにみえるが、おそらく当時の世相を皮肉った発言。スクルージの意図は「世間のやつらは貧困者だろうが富の追求者だろうがどちらにだって平等に厳しい。貧しさから抜け出すために富を追求したからといってお前まで俺を非難するのか!」ということだと思われる。

「あなたは、世間を恐れ過ぎです」彼女は穏やかに話し始めました。「世間からの卑しい非難を受けないことばかりを望み、ほかの望みを失ってしまわれた。気高い夢がひとつひとつ消えていき、金儲けに支配され熱中していくさまを見てきました。違いますか?」
「だから何だ?」彼は言い返しました。「前よりもずっと賢くなったのだとして、それがどうした?君に対しては、変わっていない」
彼女は頭を振りました。
「変わったというのか?」
「わたしたちが婚約したあの頃は、ふたりとも貧しくて、でもそれを不満に思いはしなかった。十分な蓄えができるまでは辛抱強く地道に生きていこうと誓い合いました。今のあなたは違う。あの頃とは変わってしまった」
「子どもだったんだ」彼は苛立ちながら言いました。
「ご自分でも、以前とは違うと分かっていらっしゃるのね」彼女は返しました。「わたしは以前のまま。わたしたちの心がひとつだったときには幸せを約束していたものが、ふたつに分かれた今では、みじめさで満ちています。どんなに真剣にどんなに繰り返し悩んだかを言うつもりはありません。ただ、もう十分に悩みました。あなたと別れてもよいと思えるくらいに」
「今までに別れたいと、おれに言ったことがあったか?」
「ありません、言葉では。一度だって」
「だったら何で?」
「あなたは、性格が変わり、心が変わり、生活の雰囲気もすっかり変わって、目指すものも変わってしまった。わたしの愛が、あなたの役に立ち、心を支え、価値があったのは昔のこと。もしいま、婚約していなかったとしたら...」彼女はそう言って、落ち着いた様子でしっかりと彼の方を向きました。「教えて、わたしを見つけ出して、結婚したいとすぐに口説こうとなさいますか?えぇ、ありえない!」
 思わず彼女が言うことに納得したかのように見えましたが、抵抗して言いました。「思い違いだ」
「できることなら、喜んで違うと思えればよかった、本当に!」彼女は答えました。「でも、こうした真実に気がついてしまったら、それはとても力強くて、もうどうしようもありません。もしも、あなたが今日、明日も、昨日も、自由な身だとしたら、持参金[*訳注2]も満足に用意できない娘を選ぶとわたしが信じると思いますか?あなたは、その娘にずいぶん心を許していても、金儲けになるか天秤にかける人なんです[*訳注3]。もし、いっときの気の迷いでそうせずに、その娘を選んだとしたら、間違いなく後悔して悔いを残すことになるのがわたしに分からないとお思いですか?わかります。ですから、あなたを自由にしてあげます。わたしが心から愛していたのは、以前のあなたなんです」

*訳注2 当時のイギリスでは結婚の際、女性側が持参金を用意する慣習があった。相続資産の前払いという性質もあった。
*訳注3 当時、男性にとって結婚は自分の出世の手段の側面もあった。法律上、結婚した女性の資産ははぼ全て男性側の所有物とされた。結婚が近づくと女性側ではどれくらいの資産を親から受け継ぐことになるかなどの経済的な見積りをして男性に伝えたという。

 彼が何かを言いかけようとすると、彼女は顔を背け、また話し始めました。
「あなたは...昔を思うとそうであって欲しい...このことで心を痛めるかもしれない。とても、とても短い間。それから、儲けにもならない夢から目が覚めたかのように、うれしそうに思い出も忘れるでしょう。あなたが選んだ人生でお幸せに!」
彼女は彼のもとを去り、ふたりは別れました。