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私訳【現代語訳】『たけくらべ』第一章【注釈付き】

樋口一葉『たけくらべ』の第1章を現代語訳にして注釈をつけたものを公開します。作品理解の参考になれば幸いです。当時のことがわかるように注釈をいっぱい付けました。

現代語訳と注釈を書くにあたり様々な文献にあたって調査しましたが、解釈を誤っていたり調査不足で誤認したりして、なにかしら間違いがあると思います。間違いを見つけたらコメントをいただけると嬉しいです。

2章以降を訳すかは未定です。

公開後も記事をちょこちょこと書き換えます。新たに調査して判明したことを反映したりするので。

(最終更新日 2023年3月14日 誤字修正)


翻訳方針

・直訳はせず、読みやすさを優先する。そのため、文の分割、文の入れ換え、改行、最小限の言葉の付け足しも行なう。
・原文の持つ簡潔な表現を尊重する。そのため、言葉の意味が分かりやすいように説明をつけたすような訳し方はしない。注釈はつける前提。

作品理解での注意

(1)語り手が顔を出す

ところどころに語り手の意見や感想が出てきます。

(2)間接的な表現が多い

直接的な表現をせず、間接的で遠回しな表現をしていることがあります。一見すると何を言っているのか分からないときは、言葉の裏を探ってください。

(3)時代設定

作品が連載されたのは明治28年~29年ですが、著者が吉原近くに住んでいた明治26年頃を扱っていると考えられます。

また、本作は吉原遊廓を扱っていますが、明治5年に出された娼妓解放令しょうぎかいほうれいの後の時代の吉原遊廓となります。江戸時代の吉原の知識を前提にして読んでいると変に思えるところが出てくると思います。

概要【第一章】

第一章は話の導入部。
舞台となる大音寺前という名の町の様子の描写から始まり、町と吉原遊廓との関わり、吉原に影響を受ける子供たち、学校の子供のたちと描く対象が狭まっていき、最後に物語の主要人物のひとり、信如にいたる。

本文【第一章】

(文中の[*番号]は、注釈があることを示す)

 大門おおもん[*1]の見返り柳[*2]は遊廓ゆうかくをぐるりと回った先にあり、その道のりは柳の枝のように長いとはいえ、お歯黒はぐろどぶ[*3]に灯火ともしびを映している三階[*4]から聞こえる騒ぎは手に取るかのようである。車[*5]の往来は止むことがなく、吉原繁栄の計り知れなさがうかがえて、この町の住人は「大音寺前だいおんじまえと名前はほとけくさくても陽気な町だ」と言っている。

*1【大門】吉原大門よしわらおおもんのこと。吉原遊廓の正面玄関口に立つ門。吉原遊廓の出入口は通常時はここ1つだけ。
*2【見返り柳】吉原大門を出て五十間道ごじゅっけんみちという名の一本道を進んだ先に立つ柳のこと。名前の由来は、帰りの客がその柳のあたりで未練から見返したとされることから。50けんは約91mのこと。
*3【お歯黒どぶ】吉原遊廓を取り囲む堀のことで、吉原大門から延びる五十間道以外は掘となっていて遊廓を他と隔離していた。当初は幅5けん(9m)もあったが江戸末期~明治初期頃は幅2けん(3.6m)に狭まっていた。
*4【三階】遊廓内の三階建ての遊女屋のこと
*5【車】ここでは、遊廓の客を運ぶ人力車のことを指す。人力車は明治時代になってから使用されるようになった乗り物。

 三嶋神社みしまさまの角を曲がると、これといった大きな家はなく、のきが傾いた十軒長屋や二十軒長屋があるだけで、とても商いがうまくいくところではない[*6]。半開きの雨戸の外には、妙な形に切った紙に胡粉ごふん[*7]を塗り付けたものがみえる。まるで田楽でんがく[*8]に色を付けたかのようで、裏に串を貼り付けてあるのも面白い。朝日が出ると干し、夕日になると取り込む様子はものものしい。一軒二軒どころではなく、その上、家族総出である。これは何かと問えば、「知らねぇのか。霜月しもつきとりの日[*9]に、例の神社[*10]で欲深様よくふかさまがかつぎなさる熊手[*11]の下ごしらえさ」と返ってくる。正月の門松かどまつを片付けた日から取りかかり、一年を通してするのは誠の商売人。片手間にするものは、夏から手足に色が付き始め、その稼ぎを新年着はるぎの支度のあてにしている。「南無なむや大鳥大明神[*12]。熊手を買うものに大きな福を与えなさるなら、作り手の我らには万倍のご利益を」と人々は言うものの、思ったようにはいかないもので、このあたりに大長者がいるとは噂でさえ聞いたことがない。

*6【とても商いが~】十軒長屋や二十軒長屋に住む貧乏人ばかりではろくに客にならず商売がうまくいかない、ということ。
*7【胡粉】貝殻から作られる白色顔料
*8【田楽】ここは豆腐田楽を意図していると思われる。焼いた豆腐に串を刺してミソをつけたもの。
*9【霜月の酉の日】霜月は、旧暦で11月のこと。現在使われている暦である太陽暦は、明治6年から採用され、それまでは太陰太陽暦が使われていた。酉の日は、日付を干支で表したときに酉となる日。11月には酉の日が2回の年と3回の年がある。11月の酉の日には、吉原に近い浅草 おおとり神社でとりいちという祭りが開かれた。この日は遊郭の非常門が開き跳ね橋が下ろされ大門以外からも出入りできたので、酉の市の客も遊廓に入り吉原は大変なにぎわいとなった。
*10【例の神社】浅草 おおとり神社のこと。
*11【欲深様がかつぎなさる熊手】意訳すると「欲が深い方々が、金運や幸福をかきこむとの縁起をかついで買い、かついでいく縁起熊手」ということ。「かつぐ」は「縁起をかつぐ」と「熊手をかつぐ」の2つの意味で使われている。酉の市は、たくさんの縁起熊手が売られていることで有名。
*12【南無や大鳥大明神】大鳥大明神とはわし大明神だいみょうじんのことで浅草 おおとり神社にまつられている神様。「南無」は「南無なむ阿弥陀あみだぶつ」のように仏を敬う言葉だが、ここでは神に対して使っており、神と仏の区別が明確に意識されていない。明治元年に神仏分離令が出される以前の神仏しんぶつ習合しゅうごうが行われていたときの感覚が残っていたと思われる。後述「補足」の「補足5 浅草 鷲神社」を 参照。

 住人の多くは、廓者くるわもの[*13]。良人おっと小格子こごうし[*14]のなんとかで、束ねた下足札げそくふだがガランガランとあわただしく音を立てると[*15]、夕暮れのなかへとあわただしく羽織はおりを引っかけ家を出る。うしろで切り火を打つ[*16]女房の顔は、これで見納めかもしれない。十人斬り[*17]のとばっちり、無理情死しんじゅう[*18]のしそこない、なにかと恨まれる危うい立場。いざというとき命にかかわる勤めだというのに、気晴らしに遊びに出掛けるように見えてしまうのだから面白い。

*13【廓者】遊廓で働く者
*14【小格子】吉原の遊女屋の格を示す言葉で、下級な遊女屋のこと。小見世ともいう。
*15【下足札~】下足札とは客の履き物を店が預かったときに渡す札。 遊女屋では始業の合図として束ねた下足札を使って音を立てた。後述「補足」の「補足6 下足打ち」参照
*16【切り火を打つ】火打ち石を打って火花を起こすこと。出かける相手の無事を祈っておこなう。
*17【十人斬り】ここでは、刃傷沙汰のこと。江戸時代中期に佐野次郎左衛門が起こした「吉原百人斬り」と呼ばれる事件をもとにした歌舞伎の演目『籠釣瓶かごつるべ花街酔醒さとのえいざめ』(明治21年初演)をほのめかしていると思われる。
*18【無理情死】「情死」とかいて「しんじゅう」と読ませているのは、相愛の男女による合意の上での心中の意味を明確にするためと思われる。

 娘たちは、大籬おおまがき[*19]の下新造したしんぞ[*20]やら、七軒[*21]の何屋の客廻きゃくまわし[*22]やらで、提灯かんばん[*23]をさげてちょこちょこ走る修業の身。卒業したら何になるのか。ともかく檜舞台ひのきぶたい[*24]に立つと思うのは面白いではないか。

*19【大籬】吉原の遊女屋の格を示す言葉で、上級な遊女屋のこと。大見世や大格子ともいう。
*20【下新造】遊女屋の雑用係。
*21【七軒】吉原大門近くの七軒の引手茶屋のことで、廓内で最も格の高い引手茶屋。引手茶屋は、遊廓の案内所であり客の相談や世話役をした。上級遊女屋である大見世に行く場合は、この引手茶屋を通す必要があった。
*22【客廻し】客を引手茶屋から遊女屋に連れていくこと
*23【提灯】本来「ちょうちん」と読むが「かんばん」とのルビがついているのは、「看板提灯」だから。店名や屋号が書かれている。
*24【檜舞台】遊郭で遊女になることを檜舞台(晴れの舞台)に立つこと、と見なしている。

 あか抜けた三十過ぎの年増としまが、こざっぱりとした唐桟とうざんぞろい[*25]で、こん足袋たび[*26]を履き、雪駄せった[*27]でちゃらちゃらと音を立て、せわしなく歩いていく。横に抱えた小包が何かは問うまでもない。茶屋の桟橋[*28]でトンと音を立てて合図をし、「回ると遠いから[*29]、ここからあげます」と言う。女はこのあたりで、あつらえ物の仕事やさん[*30]、と呼ばれている。

*25【唐桟ぞろい】着物と羽織を唐桟で揃えていること。唐桟とは、綿織物の一種。縞模様が入っている。
*26【紺足袋】当時は紺足袋が流行った。大川新吉(著)『東京百事流行案内』(明治26年)によると、これまでは職人か田舎者しかはかなかったが今は誰もがはいている、と説明されている。
*27【雪駄】草履の裏面を皮で覆った履き物。草履よりも防水性があり丈夫。かかとに付けた鉄により、チャラチャラと音が出る。当時、女性にも流行した。後述「補足」の補足3 参照。
*28【茶屋の桟橋】お歯黒どぶを背にした茶屋の裏手に、お歯黒どぶを渡れるように設けられたね橋。仕事やさんがトンと音をさせたのは跳ね橋の受け台側だろう。【参考】『刎橋の受け台について』木村荘八(著)に跳ね橋の挿し絵がある→青空文庫へのリンク。『里の今昔』永井荷風(著)には「女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎橋はねばしが見えた」とあり明治頃は非常門の跳ね橋以外もあったことがわかる。
*29【回ると遠いから】通常は吉原大門が遊廓の唯一の出入口。大門を経由して行くとなると、ぐるりと回ることになり、遠回り。
*30【仕事やさん】仕事屋のこと。仕事屋とは、裁縫師や仕立屋を指す言葉。樋口一葉『わかれ道』では着物の仕立てをしている女を「仕事屋」と書いている。

 この一帯の風俗は他とは違う。女子おなごできちんと後帯うしろおび[*31]にするものは少なく、がらを好んで幅広い帯を使い、巻帯まきおび[*32]にしている。年増ならまだいい。十五六のこしゃくな娘がほおずきを口に含んで[*33]そんな格好をしているなんて、と目をふさぐ人もいる。とはいえ、場所柄しかたがない。

*31【後帯】後ろで帯を結ぶ帯の締め方
*32【巻帯】帯を結ばない帯の締め方。帯の端を挟み込む。
*33【ほおずきを口に含んで】ほおずき笛で遊んでいることだと思われる。『東京風俗志 下』(平出鏗二郎 著、明治35年)p.149に「酸漿ほほづきを鳴らすことは少女は素より一般婦女に盛に行はる」の説明がある。

 昨日までどこかの河岸かしみせ[*34]で、なに紫、とのげん氏名じな[*35]だったのが、その名もまだ耳に残る今日、地廻じまわり[*36]の吉と慣れない焼き鳥の夜店[*37]を出している。蓄えを使い果たしてしまえば古巣に戻るしかない内儀かみさま[*38]姿は、どこか素人より良く見えるのか、これに染まらない子供はいない。

*34【河岸店】河岸かし見世みせ。西と東のお歯黒どぶ側に位置する遊女屋のことを指す。下級の遊女屋よりさらに下のランクの格安な遊女屋があった。
*35【源氏名】遊女屋における遊女の名前。
*36【地廻り】遊廓に頻繁にひやかしに来てぶらぶらしていた者、または、その土地のヤクザやならず者。ここでは、後者と思われる。
*37【夜店】吉原ではうまの日が縁日で夜店が出た。吉原周辺の子どもたちは楽しみにしていた。後述「補足」の「補足2 夜店について」を参照
*38【内儀】内儀ないぎとは、他人の妻を敬った言葉。おかみ。ルビの「かみさま」は「かみさん」を丁寧にした呼び方。

 秋の九月、仁和賀にわか[*39]の頃の大通り[*40]を見てみなさい。とても上手に学んだ子供たちが、露八ろはち[*41]の物まねや、栄喜えいき[*42]の所作を披露している。孟子もうしの母も驚くほどに[*43]上達が速い。うまいと褒められると「今宵もひと回り」と生意気なことをいう。

*39【仁和賀】吉原で行われた祭りの1つ。「俄」とも書く。9月中旬頃から1ヶ月行われた。街頭の屋台で、幇間ほうかん(男芸者)や芸者などが演じた。
*40【大通り】町(大音寺前)のどこかの通りと思われる。明治26年に作者の一家が店を出していた商店街通りである茶屋町通りを指しているのかもしれない。
*41【露八】松廼家まつのや露八ろはち。当時、実在した吉原の幇間ほうかん(太鼓持ち、男芸者)。『吉原細見記』(広瀬源之助 著、明治27年発行版)p.75の「幇間之部」に名前が記載されている。
*42【栄喜】清元栄喜太夫。当時、実在した吉原の幇間ほうかん(太鼓持ち、男芸者)。『吉原細見記』(広瀬源之助 著、明治27年発行版)p.75の「幇間之部」に名前が記載されている。
*43【孟子の母~】吉原が子供に与える影響が大きいことを表現していると思われる。孟子は紀元前300年頃の中国の思想家。孟子の母は子のために三回も住居を変えたという故事がある。この故事にちなんだ四字熟語が孟母もうぼ三遷さんせんで、子供の教育には環境が大事という意味。

 生意気さは七つ八つのころから増していく。やがて、肩におき手ぬぐい[*44]をし、鼻歌でそそり節[*45]を歌うようになる。十五の少年のませかたは恐ろしい。学校の唱歌にも、ぎっちょんちょん[*46]と拍子をとり、運動会に木やり音頭[*47]もしかねないというありさま。ただでさえ教育は難しいというのに、教師はとても苦労していることだろう。

*44【置手ぬぐい】手ぬぐいを頭や肩にのせること。ここではファッションとして肩にのせたと考えられる。江戸吉原の時代を舞台にした小説ではあるが、『箕輪心中』(岡本綺堂 著、大正5年)には“手拭を肩にそそり節”との表現がみられる。
*45【そそり節】遊廓をひやかして見て回るときに歌われた流行歌
*46【ぎっちょんちょん】明治二年に流行した歌『ぎっちょんちょん』の囃子詞はやしことばが「ぎっちょんちょん」
*47【木やり音頭】火消しが歌う木り唄と思われる。「木やり」とは大木や岩などを大勢で音頭を取りながら運ぶこと。木やり音頭は、もともとは、木やりの時に歌われた労働歌であった。祭で山車を引くときに歌われたり、江戸の火消しが歌ったり(江戸木遣り唄)、吉原で芸者が歌ったりした。

 入谷いりや近くの育英舎[*48]は私立ではあるが[*49]生徒の数は千人近い。狭い校舎に目白押しの窮屈さには、教師の人望が良く表れている。このあたりでは、単に「学校」といえば育英舎のことを指す。学校には様々な子供たちが通っている。教えられもせずに「おとっさんは刎橋はねばしの番屋にいるよ[*50]」と知っている賢い火消ひけし鳶人足とびにんそくの子[*51]がいる。その子が梯子はしご乗りの真似をしていると、「アレ、忍び返し[*52]を折りました」と訴えてあれこれと言う子もいる。三百という代言だいげん[*53]の子に違いない。

*48【育英舎】架空の学校
*49【私立ではあるが】明治五年に出された「学制」により各地に小学校が設立された。その多くが、寺子屋や私塾などの庶民向け教育を母体とした私立の小学校であった。どんな子が生徒にいるかについて作品中で記載されている箇所からすると、育英舎は下層階級の庶民向け小学校であると思われる。
*50【刎橋~】遊廓には大門の他に非常門があり、非常門の外にはお歯黒どぶを渡れるね橋があった(普段は、非常門は閉じており、跳ね橋は上がっている)。非常門のそばに番屋がある。「刎橋はねばし」には複数の意味があるが、ここでは上げたり下ろしたりできる「跳ね橋」の意味。
*51【火消鳶人足の子】原文では単に「火消鳶人足」と表記されているが話の流れから「~の子」と見なして訳した。江戸時代の江戸の町火消まちびけしは鳶職を中心とした組織であり火消しと鳶はほぼ同義であったが、明治5年に町火消は消防組として改組されている。ただ、消防の手当金だけでは生活できず依然として建築などの仕事をしていたので「火消鳶人足」のまま認識されていたと思われる。
*52【忍び返し】塀を飛び越えて入られないように、塀の上にとがった鉄や木を並べたもの
*53【三百という代言】三百代言。(1)もぐりの代言人のこと。代言人の資格をもたずに安く他人の訴訟などを扱った。ちなみに、明治26年に弁護士法が制定され、代言人から弁護士と呼び名が変わった。(2)屁理屈を言うこと

 「お前の父さんは馬[*54]だね」と言われ、素性を明かされるのがつらくて子供心に顔を赤らめる、しおらしい子もいる。その父親が出入りする貸座敷かしざしき[*55]の秘蔵息子は、寮[*56]に住み、華族さま気取りで[*57]ふさ付き帽子をかぶり、余裕のある顔つきで、洋服[*58]を着て、華々しく軽やかである。この息子に、しおらしい子が「坊っちゃん、坊っちゃん」といって付き従うのも面白い。

*54【馬】馬屋のこと。遊廓で金を払えなかった客が金策できるまでついてまわることを付け馬または付き馬といった。これを専門に行うのが馬屋。
*55【貸座敷】遊女屋の別称。明治5年に娼妓解放令が出されたが遊女屋が無くなることはなく、遊女に場所を貸しているという建前になった。これにより、遊女屋の公称は、貸座敷となった。
*56【寮】遊女屋が持つ別宅のことをこう呼んだ。遊廓の外にあった。
*57【華族さま気取りで】華族の子のような格好をして、ということ。華族の子ども向けの学校であった学習院では、明治12年に男子の制服を定めており(制帽も含む)、日本で初めて学校で制服を定めた。
*58【洋服】話の流れから学生服のことだと思われる(学生服は洋服である)。まわりの子供たちは和服なので、目立ったはず。

 そうした様々な子供たちのひとりが龍華寺りゅうげじ[*59]の信如しんにょである。髪の毛を生やして黒髪でいられるのは、あと何年だろう。やがては袖の色を黒染め[*60]にしなければならない。発心ほっしん[*61]は本心からなのか、寺の跡取りで、勉強家。おとなしい性格のため友達から色々といたずらを仕掛けられた。「お役目ですから、引導いんどう[*62]を頼みます」と言われて縄でくくった猫の死骸を投げつけられたこともある。だがそれは昔の話。今では校内一[*63]の人となり、仮にもあなどられて何かされることはない。歳は十五、背は人並み、頭髪はいがぐり頭、と普通だが世俗な子とは何か違う。名は藤本ふじもと信如のぶゆき[*64]と訓読みにしていても[*65]、振る舞いはどこかしゃくと言いたげなのである[*66]。

*59【龍華寺】架空の寺
*60【袖の色~】修行僧が着る黒い衣を着るようになることを指していると考えられる。
*61【発心】仏教用語で、悟りを得ようと決意すること。また、仏門に入ること。
*62【引導】葬る前に、死者が悟りを得られるように僧が唱えること。
*63【校内一】何が一番なのかが抜けているが、後の章に書かれていることからすると「学校で一番頭が良い」の意味と思われる。
*64【藤本信如のぶゆき】この箇所を除くと地の文では「信如」に「しんにょ」と音読みのルビが付けられている。一方で、あとの章における登場人物のセリフでは「のぶさん」などと訓読みのルビ。俗世間である学校生活では訓読みですごしていたと考えられる。
*65【訓読み~】僧侶の名前には音読みが使われることから、「仏門に入っていない一般人のようにしていても」という意味。
*66【釈と~】すでに仏門に入っているようだ、という意味。「釈」は仏の弟子のこと。浄土真宗で与える「法名ほうみょう」を意識した表現なのかもしれないので、ほぼ原文通りの訳文にした。法名は戒名かいみょうと異なり生前に与えるもので、必ず「釈」という文字が入る。

補足

補足1 龍華寺の住職に子である信如がいること、世襲であることについて
龍華寺が浄土真宗の可能性が考えられる。浄土真宗では、僧侶の妻帯を許していて、寺の世襲も行われていた。
もう1つの可能性もある。明治5年に太政官布告133号「自今、僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事」が明治政府から出されており、これで宗派関係なく公に僧侶も妻帯し肉食もできるようになった。
第一章を読んだだけではどちらか定まらないが、第九章を見るとわかる。冒頭に寺の様子が書かれていて、それに対して「ご宗旨によりて構ひなき事」と述べていることから、わかる人には浄土真宗だとわかる。

補足2 夜店について
『たけくらべ』よりもかなり後のことではあるが小林清(明治48年生まれ)の随筆『桜林さくらばやし』(青空文庫の図書カードへのリンク)には以下のように書かれており、子どもたちが吉原の夜店へ行っていたことが書かれている。

“吉原の縁日はうまの日で土地柄賑やかな夜店が出た。その日には界隈の町の人たちも、大門口から五丁目の非常門から裏門からそれぞれ詰めかけてきて、素見客ひやかしの仲間も常よりは多くその賑いは格別であった。”

“ 子供の私たちが、午の日を楽しみにして待つ気持と云ったら、なかった。そのまえの日から明日の天気を気にして、翌朝起きてみて雨が降っていればがっかりして、それでも夕方までには晴れてくれないかしらと未練がましく思ったりしたものだ。”

補足3 雪駄
『東京風俗志 中』(平出鏗二郎 著、明治34年)p.140 には以下の説明がある

二十五年の頃より雪踏せった、男女共に大いに行はれ、藝人洒落者しゃれものなどはこれを穿くことなりしに

ちなみに、映画『男はつらいよ』シリーズの主人公である寅次郎は雪駄をはいている。

補足4 当時の吉原周辺の様子
明治44年に吉原が火事で全焼する前の全景が撮影された写真が見つかったという記事が以下のリンク先にある。
朝日新聞デジタルの記事へリンク
このリンク先の写真を見ると、吉原のまわりが田圃たんぼやぶばかりだったというのが良く分かる。

補足5 浅草 鷲神社
かつて日本では神も仏も本来は同じであるとされて神社と寺が一体となっていることがあった(神仏しんぶつ習合しゅうごう)。だが、明治政府は明治元年に神仏分離令を出し、神社から仏教を排除する政策をとった。
この神仏分離令により浅草 長國寺から分離して独立したのが浅草 おおとり神社。それまでは、おおとり妙見みょうけんだい菩薩ぼさつわし大明神だいみょうじんとされていたが、鷲妙見大菩薩は長國寺へ、鷲大明神は鷲神社へと別れた。

補足6 下足打ち
『吉原はこんな所でございました─廓の女たちの昭和史』福田利子(著)、ちくま文庫、P.88~P.89 には、昭和の吉原ではあるが下足打ちについて詳細に書かれている。以下に引用する。

貸座敷の仕事始めには、昔のしきたりがそのころも引き継がれていまして、それはなかなか威勢のいいものでした。
(略)
そして玄関での“下足打ち”なのですが、番頭はあらかじめ下駄箱のそばに揃えてある下足札を取り出し、まず、下足札についている麻縄を持ってそれを振るんです。下足札はちょうど将棋の駒の形をした、縦二十センチ横十センチぐらいのもので、それに長い縄がついてるんですけど、その縄を揃えて手に持ち、左から右のほうへびゅーん、びゅーんと振るんですね。そのあと、“下足打ち”をするのですが、下足札を柱に打つのが、ダーン、ダダダダンダーン、と七五三の拍子でなんとも威勢がよく、いよいよ今日の幕開けだな、って感じなんですね。

主要参考文献・参考資料

『たけくらべ』樋口一葉(著)、青空文庫 →青空文庫の図書カードへのリンク
『樋口一葉 小説集』ちくま文庫
『樋口一葉集』新日本古典文学大系 明治編 24、岩波書店
『全集 樋口一葉 第二巻 小説編 二 〈復刻版〉』小学館
『たけくらべ通釈』大野茂男(著)、國文社
『江戸吉原図聚』三谷一馬(著)、中公文庫
『吉原はこんな所でございました─廓の女たちの昭和史』福田利子(著)、ちくま文庫
『吉原今昔図現勢譜』よし原 鳶福 荒井一鬼 製作、平成5年 刊行、葭之葉会 発行
『東京百事流行案内』大川新吉(著) →国立国会図書館デジタルコレクションへのリンク
『東京風俗志 上』平出鏗二郎(著) →国立国会図書館デジタルコレクションへのリンク
『東京風俗志 下』平出鏗二郎(著) →国立国会図書館デジタルコレクションへのリンク 
『吉原細見記』広瀬源之助(著)、明治27年発行版 →国立国会図書館デジタルコレクションへのリンク

随筆など
『吉原ハネ橋考』木村荘八(著)→青空文庫へのリンク
『刎橋の受け台について』木村荘八(著)→青空文庫へのリンク

『里の今昔』永井荷風(著)→青空文庫へのリンク

明治の吉原遊廓を扱った小説
『今戸心中』広津柳浪(著)→青空文庫の図書カードへのリンク
『註文帳』泉 鏡花(著)→青空文庫の図書カードへのリンク

論文
『明治初期の吉原 ‐「吉原細見」の分析を通して‐』宮本由紀子(著) →リンク 
『町鳶をめぐる政策と民俗-東京・千住の鳶頭と地域社会の近現代』内山大介(著) →リンク 

Webサイト(ホームページ)
浅草 鷲神社
URL: https://otorisama.or.jp
浅草 酉の寺 鷲在山 長國寺
URL: http://otorisama.jp
学校法人 学習院 | 学習院の概要 | 小事典
URL: https://www.gakushuin.ac.jp/ad/kikaku/jiten/