樋口一葉『たけくらべ』の第1章を現代語訳にして注釈をつけたものを公開します。作品理解の参考になれば幸いです。当時のことがわかるように注釈をいっぱい付けました。
現代語訳と注釈を書くにあたり様々な文献にあたって調査しましたが、解釈を誤っていたり調査不足で誤認したりして、なにかしら間違いがあると思います。間違いを見つけたらコメントをいただけると嬉しいです。
2章以降を訳すかは未定です。
公開後も記事をちょこちょこと書き換えます。新たに調査して判明したことを反映したりするので。
(最終更新日 2023年3月14日 誤字修正)
翻訳方針
・直訳はせず、読みやすさを優先する。そのため、文の分割、文の入れ換え、改行、最小限の言葉の付け足しも行なう。
・原文の持つ簡潔な表現を尊重する。そのため、言葉の意味が分かりやすいように説明をつけたすような訳し方はしない。注釈はつける前提。
作品理解での注意
(1)語り手が顔を出す
ところどころに語り手の意見や感想が出てきます。
(2)間接的な表現が多い
直接的な表現をせず、間接的で遠回しな表現をしていることがあります。一見すると何を言っているのか分からないときは、言葉の裏を探ってください。
(3)時代設定
作品が連載されたのは明治28年~29年ですが、著者が吉原近くに住んでいた明治26年頃を扱っていると考えられます。
また、本作は吉原遊廓を扱っていますが、明治5年に出された娼妓解放令の後の時代の吉原遊廓となります。江戸時代の吉原の知識を前提にして読んでいると変に思えるところが出てくると思います。
概要【第一章】
第一章は話の導入部。
舞台となる大音寺前という名の町の様子の描写から始まり、町と吉原遊廓との関わり、吉原に影響を受ける子供たち、学校の子供のたちと描く対象が狭まっていき、最後に物語の主要人物のひとり、信如にいたる。
本文【第一章】
(文中の[*番号]は、注釈があることを示す)
大門[*1]の見返り柳[*2]は遊廓をぐるりと回った先にあり、その道のりは柳の枝のように長いとはいえ、お歯黒どぶ[*3]に灯火を映している三階[*4]から聞こえる騒ぎは手に取るかのようである。車[*5]の往来は止むことがなく、吉原繁栄の計り知れなさが窺えて、この町の住人は「大音寺前と名前は仏臭くても陽気な町だ」と言っている。
三嶋神社の角を曲がると、これといった大きな家はなく、軒が傾いた十軒長屋や二十軒長屋があるだけで、とても商いがうまくいくところではない[*6]。半開きの雨戸の外には、妙な形に切った紙に胡粉[*7]を塗り付けたものがみえる。まるで田楽[*8]に色を付けたかのようで、裏に串を貼り付けてあるのも面白い。朝日が出ると干し、夕日になると取り込む様子はものものしい。一軒二軒どころではなく、その上、家族総出である。これは何かと問えば、「知らねぇのか。霜月の酉の日[*9]に、例の神社[*10]で欲深様がかつぎなさる熊手[*11]の下ごしらえさ」と返ってくる。正月の門松を片付けた日から取りかかり、一年を通してするのは誠の商売人。片手間にするものは、夏から手足に色が付き始め、その稼ぎを新年着の支度のあてにしている。「南無や大鳥大明神[*12]。熊手を買うものに大きな福を与えなさるなら、作り手の我らには万倍のご利益を」と人々は言うものの、思ったようにはいかないもので、このあたりに大長者がいるとは噂でさえ聞いたことがない。
住人の多くは、廓者[*13]。良人は小格子[*14]のなんとかで、束ねた下足札がガランガランと慌ただしく音を立てると[*15]、夕暮れのなかへと慌ただしく羽織を引っかけ家を出る。うしろで切り火を打つ[*16]女房の顔は、これで見納めかもしれない。十人斬り[*17]のとばっちり、無理情死[*18]のしそこない、なにかと恨まれる危うい立場。いざというとき命にかかわる勤めだというのに、気晴らしに遊びに出掛けるように見えてしまうのだから面白い。
娘たちは、大籬[*19]の下新造[*20]やら、七軒[*21]の何屋の客廻し[*22]やらで、提灯[*23]をさげてちょこちょこ走る修業の身。卒業したら何になるのか。ともかく檜舞台[*24]に立つと思うのは面白いではないか。
あか抜けた三十過ぎの年増が、こざっぱりとした唐桟ぞろい[*25]で、紺足袋[*26]を履き、雪駄[*27]でちゃらちゃらと音を立て、せわしなく歩いていく。横に抱えた小包が何かは問うまでもない。茶屋の桟橋[*28]でトンと音を立てて合図をし、「回ると遠いから[*29]、ここからあげます」と言う。女はこのあたりで、誂え物の仕事やさん[*30]、と呼ばれている。
この一帯の風俗は他とは違う。女子できちんと後帯[*31]にするものは少なく、柄を好んで幅広い帯を使い、巻帯[*32]にしている。年増ならまだいい。十五六のこしゃくな娘がほおずきを口に含んで[*33]そんな格好をしているなんて、と目をふさぐ人もいる。とはいえ、場所柄しかたがない。
昨日までどこかの河岸店[*34]で、なに紫、との源氏名[*35]だったのが、その名もまだ耳に残る今日、地廻り[*36]の吉と慣れない焼き鳥の夜店[*37]を出している。蓄えを使い果たしてしまえば古巣に戻るしかない内儀[*38]姿は、どこか素人より良く見えるのか、これに染まらない子供はいない。
秋の九月、仁和賀[*39]の頃の大通り[*40]を見てみなさい。とても上手に学んだ子供たちが、露八[*41]の物まねや、栄喜[*42]の所作を披露している。孟子の母も驚くほどに[*43]上達が速い。うまいと褒められると「今宵もひと回り」と生意気なことをいう。
生意気さは七つ八つのころから増していく。やがて、肩に置手ぬぐい[*44]をし、鼻歌でそそり節[*45]を歌うようになる。十五の少年のませかたは恐ろしい。学校の唱歌にも、ぎっちょんちょん[*46]と拍子をとり、運動会に木やり音頭[*47]もしかねないというありさま。ただでさえ教育は難しいというのに、教師はとても苦労していることだろう。
入谷近くの育英舎[*48]は私立ではあるが[*49]生徒の数は千人近い。狭い校舎に目白押しの窮屈さには、教師の人望が良く表れている。このあたりでは、単に「学校」といえば育英舎のことを指す。学校には様々な子供たちが通っている。教えられもせずに「おとっさんは刎橋の番屋にいるよ[*50]」と知っている賢い火消鳶人足の子[*51]がいる。その子が梯子乗りの真似をしていると、「アレ、忍び返し[*52]を折りました」と訴えてあれこれと言う子もいる。三百という代言[*53]の子に違いない。
「お前の父さんは馬[*54]だね」と言われ、素性を明かされるのがつらくて子供心に顔を赤らめる、しおらしい子もいる。その父親が出入りする貸座敷[*55]の秘蔵息子は、寮[*56]に住み、華族さま気取りで[*57]ふさ付き帽子をかぶり、余裕のある顔つきで、洋服[*58]を着て、華々しく軽やかである。この息子に、しおらしい子が「坊っちゃん、坊っちゃん」といって付き従うのも面白い。
そうした様々な子供たちのひとりが龍華寺[*59]の信如である。髪の毛を生やして黒髪でいられるのは、あと何年だろう。やがては袖の色を黒染め[*60]にしなければならない。発心[*61]は本心からなのか、寺の跡取りで、勉強家。おとなしい性格のため友達から色々といたずらを仕掛けられた。「お役目ですから、引導[*62]を頼みます」と言われて縄でくくった猫の死骸を投げつけられたこともある。だがそれは昔の話。今では校内一[*63]の人となり、仮にもあなどられて何かされることはない。歳は十五、背は人並み、頭髪はいがぐり頭、と普通だが世俗な子とは何か違う。名は藤本信如[*64]と訓読みにしていても[*65]、振る舞いはどこか釈と言いたげなのである[*66]。
補足
補足1 龍華寺の住職に子である信如がいること、世襲であることについて
龍華寺が浄土真宗の可能性が考えられる。浄土真宗では、僧侶の妻帯を許していて、寺の世襲も行われていた。
もう1つの可能性もある。明治5年に太政官布告133号「自今、僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事」が明治政府から出されており、これで宗派関係なく公に僧侶も妻帯し肉食もできるようになった。
第一章を読んだだけではどちらか定まらないが、第九章を見るとわかる。冒頭に寺の様子が書かれていて、それに対して「ご宗旨によりて構ひなき事」と述べていることから、わかる人には浄土真宗だとわかる。
補足2 夜店について
『たけくらべ』よりもかなり後のことではあるが小林清(明治48年生まれ)の随筆『桜林』(青空文庫の図書カードへのリンク)には以下のように書かれており、子どもたちが吉原の夜店へ行っていたことが書かれている。
補足3 雪駄
『東京風俗志 中』(平出鏗二郎 著、明治34年)p.140 には以下の説明がある
ちなみに、映画『男はつらいよ』シリーズの主人公である寅次郎は雪駄をはいている。
補足4 当時の吉原周辺の様子
明治44年に吉原が火事で全焼する前の全景が撮影された写真が見つかったという記事が以下のリンク先にある。
→朝日新聞デジタルの記事へリンク
このリンク先の写真を見ると、吉原のまわりが田圃と藪ばかりだったというのが良く分かる。
補足5 浅草 鷲神社
かつて日本では神も仏も本来は同じであるとされて神社と寺が一体となっていることがあった(神仏習合)。だが、明治政府は明治元年に神仏分離令を出し、神社から仏教を排除する政策をとった。
この神仏分離令により浅草 長國寺から分離して独立したのが浅草 鷲神社。それまでは、鷲妙見大菩薩=鷲大明神とされていたが、鷲妙見大菩薩は長國寺へ、鷲大明神は鷲神社へと別れた。
補足6 下足打ち
『吉原はこんな所でございました─廓の女たちの昭和史』福田利子(著)、ちくま文庫、P.88~P.89 には、昭和の吉原ではあるが下足打ちについて詳細に書かれている。以下に引用する。
主要参考文献・参考資料
『たけくらべ』樋口一葉(著)、青空文庫 →青空文庫の図書カードへのリンク
『樋口一葉 小説集』ちくま文庫
『樋口一葉集』新日本古典文学大系 明治編 24、岩波書店
『全集 樋口一葉 第二巻 小説編 二 〈復刻版〉』小学館
『たけくらべ通釈』大野茂男(著)、國文社
『江戸吉原図聚』三谷一馬(著)、中公文庫
『吉原はこんな所でございました─廓の女たちの昭和史』福田利子(著)、ちくま文庫
『吉原今昔図現勢譜』よし原 鳶福 荒井一鬼 製作、平成5年 刊行、葭之葉会 発行
『東京百事流行案内』大川新吉(著) →国立国会図書館デジタルコレクションへのリンク
『東京風俗志 上』平出鏗二郎(著) →国立国会図書館デジタルコレクションへのリンク
『東京風俗志 下』平出鏗二郎(著) →国立国会図書館デジタルコレクションへのリンク
『吉原細見記』広瀬源之助(著)、明治27年発行版 →国立国会図書館デジタルコレクションへのリンク
随筆など
『吉原ハネ橋考』木村荘八(著)→青空文庫へのリンク
『刎橋の受け台について』木村荘八(著)→青空文庫へのリンク
『里の今昔』永井荷風(著)→青空文庫へのリンク
明治の吉原遊廓を扱った小説
『今戸心中』広津柳浪(著)→青空文庫の図書カードへのリンク
『註文帳』泉 鏡花(著)→青空文庫の図書カードへのリンク
論文
『明治初期の吉原 ‐「吉原細見」の分析を通して‐』宮本由紀子(著) →リンク
『町鳶をめぐる政策と民俗-東京・千住の鳶頭と地域社会の近現代』内山大介(著) →リンク
Webサイト(ホームページ)
浅草 鷲神社
URL: https://otorisama.or.jp
浅草 酉の寺 鷲在山 長國寺
URL: http://otorisama.jp
学校法人 学習院 | 学習院の概要 | 小事典
URL: https://www.gakushuin.ac.jp/ad/kikaku/jiten/