寡黙さの中に饒舌が存在し、饒舌さの中に寡黙が存在する
最近僕は、時間を呼び込むために空間的に単純であることが必要条件ではない、と感じ始めている。
一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。
自然を寡黙ととるか饒舌ととるか。空間の寡黙さの中に饒舌が存在し、饒舌さの中に寡黙が存在するのだ。
先日、家族で大分まで行き、とあるイベントに参加してきたのだけど、饒舌的寡黙を貫いている時に、またもや息子が「やっぱりボッチじゃん」とツッコんできた。ボッチではなく饒舌的寡黙だと何度言えば。やりにくいではないか。
いや、いいかげん話しベタなのどうにかしないとなー・・・
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