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ポスト・ファクトと躁鬱病

たとえば僕が人生に悲観し、Web検索欄に「人生は空虚だ」と打ち込んだとき、結果画面には人生は空虚であることの根拠や証拠、具体例、証明が網羅的に表示されることになり、僕はますます人生は空虚であるという考えに確信を持つことができる。

いっぽう、何か楽しいとや嬉しいことがあって、それか半ばやけくそになって「人生は素晴らしい」と打ち込んだなら、逆に人生は素晴らしいと考える人たちの書いた文章が、そして人生は素晴らしいと考えるに足る論拠や主張の数々が表示され、ともかく僕は人生を素晴らしいものだと錯覚することができる。

この検索結果の画面で、ばらばらの場所から集められたページ達は、それぞれがある力によって、つまり検索した人間としての僕が仮定した一種の信念とかイデオロギーのような主観によって偏って表示されていることを知らない。見かけだけではこれらのデータは単に羅列されているだけで、互いに何の関係も干渉もしていないように思える。

そしてこのことはなにもネットのようなインタラクティブな環境に限らず、人間の普段の思考からして常に起きている。悲観的な事実を好む人間は、自分が観る映画を選ぶように悲観的な事実に注目しながら生活するし、差別的なイデオロギーを持っている人間はそれを補強する事実に目を光らせて生活し、例外はただ通りすぎていく。ネットの検索画面とただひとつ違うのは、自分がそれを求めたのだと気付かないことだ。無意識の段階で既にこういったフィルターがかかっているということを僕たちはしばしば「それまで知らなかった新しい言葉を知ってから、やたらとその言葉を目にするようになる」といった現象によって自覚できる。つまり僕たちにとって事実の羅列にしか見えないものも、常に主観によって無意識下で制約を受けているわけだ。



そして、常に矛盾なく客観的であることを求められる科学の分野もこの例外に当てはめるわけにはいかない。神が天体を動かしているという教会の信念によって、地動説がしばらく否定され続けた歴史を僕たちは知っている。また、「欲望する不気味な他者」では、アインシュタインが信じた神のあるべき姿(神はサイコロを振らない)によって量子力学が前提にする粒子の不確定で曖昧なふるまいを受け入れられなかった事実に触れている。既存の前提では説明できない矛盾が生まれたとき、科学者はその前提となる哲学を更新することで矛盾のない信念体系を拡大することを迫られる。

結局のところ、科学が事実を矛盾なく羅列できる場はひとつの仮定、一種の信念体系―――言ってみれば主観的な仮置き―――に閉じられており、それはどんな家も地盤に載っている以上は地盤の影響を受けるように、いかなる事実も信念という主観的前提の上に辛うじて成り立っていることを意味する。ニールス・ボーアが物理学を「自然が何であるかではなく、自然について何がいえるかを説明するもの」と考えるのは、そしてハイゼンベルグが「客観的事実など存在しない、あるのは自分の目を通して見た事実だけである」と真実に関してひたすら謙虚な姿勢を取るのは、事実がただ主観の上に鎮座しているという頼りなさを痛感するような激変の場に居合わせてしまったためかもしれない。ハイゼンベルグはこうも言っている、「この世界を主体と客体、内的世界と外的世界に分ける習慣的分類は、もう納得がいかない」と。この主体と客体が断絶され、対立しているという前提は「欲望する不気味な他者(2/2)で説明した17世紀デカルトに地続きの固定観念だ。

ニュートンは「プリンキピア」で地球と月のような離れた物体に「見えない・双方向的な」力が働いていることを唱えた。それはたとえば太陽系のような集まりが、ただの無作為のデータの集合ではなく、ある見えない力によって相互的に引き寄せられている関係者の一味であることを示唆したのだった。



「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。このスローガンは、私の考える資本主義リアリズムの意味を的確に捉えるものだ。つまり、資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態のことだ。
(「資本主義リアリズム」、マーク・フィッシャー)


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