小野ほりでい

ライター/イラストレーター小野ほりでいのブログです。

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平気で生きるということ(β)のお知らせ(有料マガジン)

愛情に関して育ちの良い人は、基礎体力がちがう。 (「傘をひらいて、空を」 2013/8/20, 槙野さやか) いわゆる精神的に健全に育って、健全に生きている人を、そうでない側から見たときの感情としてこの言葉ほど適切なものはないと思う。体力が違う。 愛されて育った人は、適度に自分を愛し、余裕があって、そのぶん他人に自然に気をまわして、自然に愛されて暮らすことができる。自分の好きなことを自分の意志でして、そのことに満足しているので、他人に多くを求めないし、むやみに怒ったり嘆い

    • 「永井哲学と私 - ネルケ無方(2019-9-19)」について

       表題のとおり、禅僧であるネルケ無方さんの2019年9月19日の日記「永井哲学と私」について、かなりインパクトがあったので感想というか思ったことをだらだら書いていこうと思います。前提として、永井哲学や仏教に多少の興味や知識が必要な話なので、Twitter に書いたらまたフォロワーが減ると思いとりあえずnoteに書き残しておきます(感想なので上述の記事を読んでいる前提で話を進めます)。  まず、発端となる永井先生のツイートはこちら。  はじめ、承認欲求といっても一般的な承認欲

      • 賛同できない反出生主義が好きな理由について

        ネット上の宿命として、あらゆる思想について言及するとその思想の代弁者だと判定を受けてしまう例の仕組みによって、この私も何度か反出生主義に言及したがために「反出生主義者」であると思われているようなのですが(同じように、現在日本で代表的な反出生主義の反論者である森岡正博先生のもとに反出生主義に対するクレームが殺到しているようなのですが、やめてあげてほしい)、実際にはそうではありません。他の思想と同じように、この思想について扱うときも意識的にその「正当性」について触れたわけですが、

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        • 「花はきれい」という感情について

          以前、特に深い意味はなくこのようなことを書いたのだが、禅話にこのような話があった。 陸亘(りっこう)大夫、南泉と語話する次(とき)、陸云く、「肇(じょう )法師道いわく『天地と我れと同根、万物と我れと一体』と。也また甚だ奇怪なり」。南泉、庭前の花を指して、大夫を召して云く、「時の人、此の一株の花を見ること夢の如くに相似たり」(「碧眼録」四十則) 南泉和尚に師事していた陸亘という人が、肇法師の「天地と我と同根、万物我と一体」という一句をさして「何を言っているのかさっぱりだ」

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        平気で生きるということ(β)のお知らせ(有料マガジン)

          書くことがなくなった話

          こんにちは、小野ほりでいです!この2年間ほど、毎週にわたってnoteというプラットフォームを利用して文章を書いてきたのですが、今になって区切りを入れようとしている理由を(興味を持たれるか分かりませんが)書いておこうと思います。ことわっておきますが、どうでもいい文章になるので読み飛ばしていただいて大丈夫です。 さて、以前からものすごくいい加減にライターという役割をこなしてきた私にとって、ここ数年での大きな変化はものごとの見方について多少なりとも勉強するようになったことなのです

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          「平気で生きるということ」で書いてきたこと

          「平気で生きるということ」及び「平気で生きるということ(β)」は、2019年の4月から中断を挟んで2年にわたって書いてきた、精神に対する理解を深めるための文章です。そのほとんどの関心は、「平気で生きる」ことを不可能にする無為症や無感動といった抑鬱的な状態に向けられています。 長い過程の中で、扱うテーマや分野も右往左往しているのですが、偶然か必然か、最終的には初めに出発した地点に一周して着地しました。それは「自己と世界の分裂」と言ってよいかもしれませんし、あるいは「論理(言葉

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          「平気で生きるということ」で書いてきたこと

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          平気で生きるということ(β)マガジン退会のお願い

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          問題がないという問題(終)

          あらゆる動物と比較して人間ばかりが、その生に動機や意味づけを必要とし、ただ生きていることを良しとすることができない。この動機や意味づけのことをこれまで、欲望と呼んできた。 欲望を喪失した私たちは、「生きていても意味がない」という観念に苦しめられる。「生には意味がない」とする観念は、一般に虚無主義<ニヒリズム>と解釈される。 しかし、この言葉には注意すべき二重性がある。たとえば、動物は自らの生に意味づけを必要としない。したがって、動物の生には意味がないと結論づけることができ

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          満たすものは満たさないものに劣る

          前回、前々回の文章では「絶対否定」「相対否定」の視点から、自己愛といわゆる自己肯定の違いを論じた。 自己愛は基本的に、「私は〇〇である(持っている)」「私は〇〇ではない(持っていない)」という条件を取って「良い自分」と「悪い自分」の二元論的直線上に自己を置き、その条件を満たすことと満たさないことにおいて自己を評価する種の愛情である。そして、自己否定は「〇〇でない自分」という否定的要素をとって自己を定義し、そのじつ「相対否定」という範囲内で「自己を愛し」ているというものだった

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          <男対女>はなぜ終わらないか? 「逆エコーチェンバー」現象の仕組み

          皆さんは「エコーチェンバー」とか「サイバーカスケード(集団極性化)」とかいったワードをご存知でしょうか?どちらも、主にネット上で「同じような思想を持った集団が形成されて歯止めが効かなくなり、思想が過激化する」ような現象をさす概念ですね。 しかし、今回はこの「エコーチェンバー」や「サイバーカスケード」のように、「外部から見た集団」が極性化するという見方自体が認知バイアスであり得るという暴論を打ち立てたいと思います。 以前、この問題を「ごはん派」と「パン派」の対話になぞらえて

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          <男対女>はなぜ終わらないか? 「逆エコーチェンバー」現象の仕組み

          自己否定の反対は自己肯定ではない

          ある人の精神の安定性をさして「自己肯定感」などと呼ぶ言葉は、不可避的にひとつの誤謬を生む構造を持っている。もしもその誤謬があらかじめ想定されていたならば、この言葉は「自己同定性」とか「自己受容性」、あるいはまったく反対に「自己否定性」とさえ名付けられたかもしれない。 この言葉の持つ逆説的な性質の原因は、精神の不安定なものの視点からそうでない者を捉え、精神的に安定した者の中に実在する「何か」がこの安定をもたらし、対して不安定な者はその実在を欠いているという前提を立てたことであ

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          「わかりやすい言説」はなぜウケるのか?

          デマや陰謀論、疑似科学、メディアが報じないニュースの「裏側」、巨大組織に隠蔽された不都合な真実・・・現在、かくも多様な「真実」が並行する世界をしてポスト・ファクトなどと呼んだりしますね。各々の信じる現実が自由市場経済的にその存在を許されているとき、ひとつの必然的帰結として「わかりやすい言説」が支持され、比較的複雑で、一筋縄ではいかないような現実認識のほうが淘汰されるということが起こり得ます。 「わかりやすい言説」の数々を生む欲望のひとつには、あるひとつの言説が、全世界中の不

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          「わかりやすい言説」はなぜウケるのか?

          自己否定とは自己愛である

          自己否定に陥っている人とは、少なくとも本人の認識では「自分が自分を嫌悪」しており、その「存在を否定」しようと試みていることになっている人である。しかし、もしも自分自身ではなく、自己否定的な他人を客観的に観察したことのある人であれば、その人がある面で「自己否定的な自分」に拘泥し、変形した愛情を注いでいるということが言外に直感されることだろう。 では、自己を「否定」しておきながら「愛する」というこの矛盾した論理はどこからどのように起こっているのか、今回は「否定」という概念の二重

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          もし人間の寿命が∞だったら?

          今日はちょっと、人間の寿命が無限だったらどうなるのかについて考えてみたいと思う。当面はその心配はないので、考えなくてもいいことだが。 さて、技術の進歩というのは基本的にはそれまで不可能だった選択肢を増やすものなので、必然的にそれまで必要なかった“判断”を要求するということでもある。そして、判断をするということには、必ず善悪や倫理といった問題がついてくるのである。 たとえば、あなたが私の主治医(あるいは家族)だと仮定して、私が非常に老い衰えて病気で苦しんでいるとする。医療の

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          存在不安と死の不安

          人が死を希うのは、漠然たる不安感に包まれたときだけである。明確な不安に襲われたとき、人は死から逃げる。(シオラン) 人間は言語の動物であり、言語の動物としてひとつの欠陥を抱えている。それは、生のすべての局面に言語が欠いている「意味」を必要とすることであり、意味づけなしには生きてゆけないということである。人間は、苦痛にも増して無意味に耐えられず、生に対する意味づけを失うことはほとんど死に匹敵する、あるいはそれを凌駕する危機ということができる。 生に対する意味づけの欠如ないし

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          存在不安と死の不安

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          「性善説の人」はなぜ争うのか

          相反する立場で争っている人間たちが互いに極度に似通っているということはあまり珍しくないが、ネット上では特にその傾向は強いように思われる。 特に、加害者と被害者、強者と弱者といった二元論的対立は、最終的には互いが相手のほうこそ加害者であり、真の被害者は我々のほうであるといったふうな堂々巡りに帰着することが多いが、こういった議論では立場Xと立場Yがそれぞれの加害性の否認にリソースを割いてしまい、その加害性を必然たらしめている構造Zにまで及ぶことが少ない。 そして、二元論的

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