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欲望する不気味な他者(2/2)

時々思うんだ、僕は一生で味わう感情を味わってしまい、新しい感情はもう湧かないかもと。ただ――味わった感情の劣化版だけ


「her/世界でひとつの彼女(2013)」の主人公が中盤でAIを相手に打ち明けるこのセリフは、憂鬱症のある特徴的な性質を言い当てている。憂鬱症にとっての明日は、コピーにコピーを重ねて劣化していく紙資料のように、恐らくは今日よりも「少しだが確実に」悪いものになっているという消極的な確信によって縁取られている。この「積極的な悪意ではなく、むしろこれまでに存在した幸福を再現しようという善意によって」不可逆的に未来が色褪せてゆく、という展望は資本主義リアリズムにとっても同じことである。

男が勤める”ハートフル・レター社”なる企業では、一人ひとりの社員が顧客の要望に応じて”心のこもった手紙”を代筆する。ここでは愛情や感動のような、有機的/主観的な価値が金銭という指標に冷淡に置き換えられてゆく―――この連載で繰り返し扱ってきたモチーフと相違ない。

作品中、男が妻と長期別居中であることが示唆され、男がその過去に固執している様子が見て取れるが、一方でそれが男の憂鬱にとっての直接の犯人ではないことを男も、そして観客も薄々理解している。恋人やペットのような愛情の対象を失ったとき、主体は明らかにそれを得る以前よりひどい状態になるという非対称性を僕たちは知っている。その結果、「次の恋に踏み出せない」だとか、「もうペットを飼いたいとすら思わない」というふうに行動規範が変化することになる。

”憂鬱症者は、失われた対象に固着して、喪の作業ができないでいる主体ではない。彼はむしろ、対象を所有しているが、それに対する欲望を失ってしまった主体である。”ジジェクの言葉を借りれば、憂鬱症にとっての問題とは、欲望の対象ではなく欲望そのものを失うことである。憂鬱症者は恐らく、「失われた対象に類する何かを得ることができる」と考えることもできるが、肝心のそれを得ることの意義じたいを失っている。重要なのは、たとえば「愛は素晴らしい」とか「人生には夢や希望がある」ということではなく―――そこまでは彼らも同意する―――「そうだとして、いったいどうして私がそれを獲得する必要があるのか」という部分での隔たりである。言ってみれば、憂鬱症者にとっての幸福とは、ある一定の条件を満たす方法論を指定されたとおりにトレースする作業的な手順に過ぎない。

ここにあるのは、主体と世界を隔てる薄膜のような存在、一種の離人症感覚である。この違和感はよく「私が存在するにしろしないにしろ(つまり死んでも)、世界は問題なく回転し続ける」という言葉で表現される。資本主義的離人症とは、「私」が存在しなくても世界は客観的に代筆されていくという「不参加」の感覚と言って差し支えない。


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△二元論では観察者(わたし)と対象(世界)が分離されている。デカルトは物質と精神を仲介する器官が松果体にあると考えた



この「私」と「世界」を隔てる「膜」の起源について、多くの見解に倣えば少なくとも17世紀まで遡らなければならない。この時代は世界がいわゆる天動説、天体が地球を中心にぐるぐる回っているというというキリスト教的世界観から地動説、むしろ回転しているのはわれわれの地球であるという機械論的世界観への大きな転換期にあたる。

天動説はこの頃、教会にとっての「自然は神が動かしている」という見解と一体になっていたため、地動説を唱えたガリレイが宗教裁判にかけられたこと、そしてその際に呟いたとされる「それでも地球は回っている」という台詞は後世にとってひとつの象徴になっている。ガリレイが実際にそう発言したかは定かでないとされるが、いかにもこの「それでも地球は回っている」という言葉がよくできているのは、人間の預かり知らぬところで「真理はひた走っている」という感覚を端的に言い表しているからだ。

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