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欲望する不気味な他者(1/2)

3.たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること(カート・ヴォネガット)


ヴォネガットが「バゴンボの嗅ぎタバコ入れ」の中で提示した《創作講座初級篇》から3つ目の言葉を借りてみよう。ここでコップ一杯の水への欲望は、あるシナリオが点在する状態の羅列の説明ではなく、複数の要素が絡み合う「物語」として成立するための動力として機能している。

たとえば、僕がコップ一杯の水を欲望し、蛇口をひねってコップに水を満たし、それを飲むのだとしたら、ここではそれぞればらばらに存在していた蛇口、コップ、水、そして僕の欲望はひとつの系として捉えることができる―――つまり、関係している。

もしも僕がコップ一杯の水への欲望から解脱し、それを願わないとき、水や蛇口やコップはその本来の閉じられた自己性の中に点在し続け、ひとつの物語という関係性が生じることはない。このシナリオの中での「欲望」の作用はそのまま現実の関係性にも当てはまる、つまり欲望を失えば他者との関係性は薄れ、「人生」というドラマが解体され、ひとつの唯物論的生命というパラメータだけが残る。

ここで、「コップ一杯の水」を欲しがるキャラクターの欲望は自己を動かすエネルギーとして動作しているが、逆の視点から見れば、つまりコップ一杯の水からすれば、自己を欲するキャラクターという他者の存在によってシナリオの力学が発生しているといえる。ヴォネガット作品でいうところ、「タイタンの妖女」では神のような力を持った他者の欲望、それこそコップ一杯の水を取ってこさせる程度の「用事」によって、人間の生命は翻弄される。しかしその「用事」だけがその人間の生命を物語たらしめる。



欲望、つまり自己の願いへの自由について、ふたつの側面を挙げるなら、まずそれは自己の欲望を達成する自由であり、次には他者が欲望する対象としての自己の独立を守る自由がある。

リベラル・ポリティカルコレクトネス時代において欲望への自由は、専ら後者の自由、つまり他者の欲望の干渉から自己を断絶する権利に対して働くといえる。リベラルは一方で、私の同性愛傾向のような欲望達成を支持するが、これは同時に他者が私に異性愛を強要するという干渉を絶つものとして捉えることもできる。最終系としてのリベラルは私に対して、いっさいの欲望を捨て、いっさいのものからの干渉を断ち切る自由を与えなければならない。

欲望への自由における、欲望を捨て、他者からの干渉を拒否するという側面について、最も適切な例として仏教が挙げられるだろう。釈迦は王家の待望の男子として生まれたが、幼くしてこの世を憂え、早くも出家の気配を見せていたために、王はこれを阻止しようとしてあらゆる快楽漬けにして繋ぎ止めようと試みた。しかし、こうした快楽への疲弊はますます釈迦に対して欲望の意義を薄れさせ、この世は苦しみばかりであると確信させるものとなった。仏教における僧は、欲望を捨て、あらゆる関係性から断たれることによって”輪廻転生”の理から逃れようと試みる。苦しみばかりのこの世にもう生まれ変わりたくないのだ。”あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。”

仏教にとって子供を産むとは、快楽への欲望によってある関係性を生じさせ、再び苦しみの渦である輪廻転生へと対象を、そして自己をも帰結する苦痛延長の儀式である。したがって仏教は根本的に反出生主義的であるといえる。

仏教経典を調べるほど、それが現代のリベラル・ポリティカルコレクトネスと矛盾しないものになっていることに気付く。それは”私”をまなざし、対象化し、道具のように支配しようと試みる他者の欲望を、そもそも仏教は棄てようと試みているという利害の一致によって起こっている。リベラル・ポリティカルコレクトネスが継続的に人口を減少させ、社会を破綻させたとして、政治家たちは慌てるかもしれないが、仏教徒はその限りではない―――むしろそれを目的にしているのだから。

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