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first kiss


プロローグ

 彼女の顔がすぐそばにある。恥ずかしくて俯いてしまいそうになる葵(あおい)の頬を、彼女の指が咎めるように撫でる。彼女の瞳に自分の顔が映って揺れている。目を閉じなければ、と思うのに、身体が言うことをきいてくれない。感情がこんなふうに制御不能になるなんて信じられなかった。脳みそが心臓になったみたいに耳の中いっぱいに自分の鼓動が響く。頭がふわふわして、少し怖い。

 彼女がゆっくり近づいてくる気配がする。火照って過敏になった身体は、空気のかすかな動きまで刺激として拾ってしまう。身体の中に燻っていた熱が、塊になってせり上がってくる。腰から背中へ、首筋へ、耳へ。じわじわと上る逃せない熱が、ついに唇に到達する。体中の神経の全部が唇に集結して、それが極限まで研ぎ澄まされているとしか思えないくらい、唇が、熱い。ビリビリする。こんな状態で触れ合うなんて無理だ、と思う。逃げ出してしまいたい。でももうどうしようもない。高熱が出ているときみたいに視界が潤む。近づきすぎて、もう彼女の顔が見えない。頭の中が沸騰しそう、瞳が、唇が、震えて、泣きそうに熱い。
 校庭から、野球部の掛け声が聞こえる。放課後の校舎はいつも通りさざめきのような音に満ちていて、ろう下や階段を行きかう生徒たちの足音の反響が遠くに聞こえる。窓の外には気が遠くなるような青空が広がっているのに、教室の中は薄暗い。目の前にある彼女の瞳だけが、光を湛えて静かに揺らいでいる。
 唇があたたかいものに触れた瞬間、周囲の音が消えた。そっと触れている柔らかなそれが彼女の唇だと分かって、全身が発火しそうに熱くなる。唇に集中していたビリビリがさらに上昇して、思考回路がめちゃくちゃになる。柔らかくてあたたかくて少し湿っている、彼女の唇の感触のことしか考えられない。触れたところから二人の熱が混ざり合っていくような感覚に飲み込まれていく。
 触れて、離れて、またすぐに唇を押し付けるキスを繰り返す。永遠にこうしていたい、と葵は思う。もっと彼女に触れたい、ずっと触れていたい。こんなに幸せになれることがこの世にあるなんて知らなかった。
好き、と言いかけた葵の唇は、彼女の唇に柔らかく遮られた。



〈1〉

「アオちゃんさ、もしかして演技してる?」
 一緒に寝ていたはずの中島さんの声が、ずいぶん遠くから聞こえる。浅い眠りから呼び起こされた葵は、目を閉じたまま彼の寝ていたほうへ腕を伸ばした。そこに人の体温はなく、ひんやりと滑らかなシーツの感触がどこまでも続いている。裸の腕を包むすべすべした感触が気持ち良い。
「アオちゃん?」
 シーツを撫でながら再び眠りそうになっていた葵は、二度目の呼びかけで閉じていた瞼を開いた。ベッドのスプリングが軋む音に続いて「寝ちゃったかな……」という中島さんの独り言が聞こえる。身体を起こして声の方を見ると、巨大なベッドの左端の角に腰かけている彼の生白い背中が見えた。
「演技?」 
 どうしてそんなところに座ってるんだろう、眠たくないのかな、と思いながら聞き返す。寝ぼけたままの葵の声に、中島さんが勢いよく振り返った。
「アオちゃん起きてたの?」
「んー、うとうとしてた」
「ごめんね、起こしちゃったね」
「大丈夫ですよ。それで、演技って? なんのことですか?」
「うん、いや、なんか、あまりにも、その……反応が、さ。僕、そんなにうまくないと思うし」 
 ああ、セックスの話か、と思った瞬間、葵はすっかり目が覚めてしまった。
「そんなことないですよ」
 面倒になって「演技」と「うまくない」の両方に取れるような返事をしてしまう。時計を見ると、事が終わってからまだ三十分しか経っていなかった。もう少し寝たかったけれど、目が覚めてしまったものは仕方がない。
「そっか、そうだよね、変なこと言ってごめんね」
 再び葵に背を向けた中島さんが小さく言った。痩せ型で皮膚が少したるんでいて、背骨がごつごつ浮き出て見える中島さんの背中は葵の好みだ。しかし目が覚めてしまった葵は、その背中に対しての興味を失っている。彼自身に対しての関心も急速に薄れていくのを感じながら、葵はそっとため息をついた。
 床に散らばった服を拾い集め、ベッドの端に座ったままの中島さんに声をかける。
「シャワーお借りしますね」
「ああ、気づかなくてごめんね。タオルとか、あるものはなんでも使っていいから」
 つい先刻まで優しいと思っていた中島さんの笑顔が、今はもう単に弱弱しい中年男性のそれにしか見えない。自分でも酷いと思うけれど、これに関してはどうしようもない。
 髪を濡らさないように注意しながら、手早くシャワーを浴びる。芽生えかけた罪悪感は、浴室を出る頃には綺麗さっぱり消えているだろう。
 身支度を整えて寝室へ戻ると、中島さんはベッドの中にいた。おそらく起きているのだろうと思ったけれど、確かめるつもりはなかった。ソファの上に投げ置かれたままのコートとバッグを抱え、玄関に向かう。オートロックというシステムは、こういう時の為に作られたものなのかもしれない、などと考えて葵は苦笑いを浮かべる。
「お邪魔しました」
 さようなら、という気持ちを込めて呟く。冬の残り香を含んだ夜風に素顔の頬を撫でられて、マスクを忘れてきてしまったことに気がついた。通りかかったコンビニで使い捨てマスクを購入し、個包装の袋と一緒に中島さんの名刺を破いて捨てる。もっと捨てられそうなものがないかとバッグの中をかき回してみたけれど、名刺以外に彼の痕跡は見つからなかった。


 タクシーで自宅マンションに帰り着いた葵は、エントランスの前に佇む人影に気付いて立ち止まった。葵に気付いて片手を上げる人影が誰なのか、影だけで分かってしまう。悠人(はると)だ。影に向かって歩き出しながら、葵はため息を飲み込んだ。
「おかえり。遅かったね」
「びっくりした、いつから待ってたの?」
「二時間前、くらいかな。葵さんはこんな時間までどこにいたんですか?」
「来る前に連絡してよ。今日は私、疲れてるんだけど」
「なにをして疲れちゃったの?」
「……あんなところで待ってたら、そのうち通報されちゃうよ」
「じゃあ合鍵ちょうだい」
 エントランスの暗証番号を入力し、葵より先に中に入っていく悠人の背中を追いかけてエレベーターに乗る。飲み込み切れずにため息をついた葵は、後ろから抱きしめられてさらに重い息を吐いた。
「ため息だ」
「離れてください」
「やだ」
「私もやだ……」
「葵、酔ってるの?」
「酔ってるのはそっちでしょう」
「もう醒めたよ。葵が全然帰ってこないから」
 エレベーターの扉が開くと、悠人は当然のように葵の手を掴んで歩き出す。その手の冷たさに、悠人を追い返す気力がなくなってしまう。
「あれ、今日は片付いてる」
 慣れた様子で部屋に入っていく悠人の言葉を無視して脱衣所に直行する。服を脱いでいる途中で扉が開く気配がして、抗議しようと振り返ると思いがけず真顔の悠人と目が合った。
「葵、またお風呂入るの?」
 また、の言葉に咎めるような響きを感じて、瞬間、なにもかもが面倒になる。
「シャワーは浴びてきたけど、髪を洗う時間がなかったの」
「ふうん、じゃあ洗ってあげる」
「いらない」
 いらない、と言ったのに、結局押し切られてしまう。何故か楽しそうな様子の悠人にシャンプーされながら、葵は中島さんの背中を思い出していた。 ついさっきまで粘膜で触れ合っていた人が、今はもう過去の存在になっている。そのことについて、不思議だなぁという感想しか抱けない自分が少し寂しい。

 大切にしていたはずの感情の熱が急速に失われていくとき、葵は、どんなにぴったり閉めても隙間ができてしまう扉の内側にいるような心もとない気持ちになる。その隙間からは時々冷たい風が入ってきて、胸の中をすうすう通り過ぎてゆく。切ないのとも寂しいのとも悲しいのとも少しずつ違っていて、全てを少しずつ含んでもいる。風が止めばすぐに忘れてしまう隙間だけれど、風が吹き込むたびに部屋の温度は下がっていく。
 冷たさの先にはなにがあるのだろう、と葵は考える。寒い部屋にいる時の身体みたいに、心が端のほうから冷えていって、痛くなって、そのうちになにも感じなくなるのだろうか。心が麻痺していくというのはどんな気分なんだろう。もしかしたら葵の心は、初めから麻痺しているのかもしれない。
「俺さあ、実家に帰ることにしたんだよね」
 髪に続いて葵の背中を洗い始めた悠人が、唐突に呟いた。
「え?」
「親父が倒れてさ。来月から実家の仕事手伝うことにした」
「そうなんだ。お父さんは大丈夫なの?」
「今は落ち着いてるよ」
「そっか。実家、四国だっけ?」
「そうだよ、愛媛。葵、よく覚えてたね」
「愛媛かあ、行ったことないな」
「じゃあ来る? 俺と一緒に」
「え?」
 振り返ろうとした葵に、悠人がシャワーをかけ始めた。水音と悠人の声が浴室に反響する。
「葵もおいでよ、愛媛」
 シャワーが止まる。悠人の真意が分からず、何と返事をすれば良いのか分からない。俯いている葵の右肩にキスを落とした悠人が、そのまま肩先に噛みついた。
「痛っ」
 思わず悲鳴を上げる。
「痛い?」
 耳の後ろから悠人の低い声が響く。
「痛いよ」
 ふっと笑う気配がして、噛まれたあたりに再び悠人の唇が押し当てられる。また噛まれるのではないか、という葵の警戒をよそに、悠人の体温は離れて行った。
「ごめんごめん。俺、先に出てるね。葵はちゃんと温まってきて」
 浴室に取り残された葵が右肩を鏡に映して見ると、噛まれた部分がまだらに赤くなっていた。上書き、なのだろうか。悠人のことがよく分からない。 葵には、誰のこともよく分からない。


 部屋へ戻ると、葵のベッドで寝ている悠人の頭が見えた。壁の方を向いている悠人の表情は分からない。先ほどのやり取りを思い出して、葵は途方に暮れた。悠人の言葉を、浴室での話の続きを聞くのが怖かった。
 悠人に背を向けて、そっと隣に潜り込む。どうかこのまま眠れますように、という葵の願いは届かず、起きていたらしい悠人に抱きしめられてしまう。
「さっきの話だけど」
 悠人の声が掠れている。
「一緒に愛媛に行こうっていうのは、観光とかじゃないからね。葵、そういう勘違いしそうだからちゃんと言っとく。俺は、葵と一緒にいたい」
 悠人の言葉に衝撃を受けながら、どこかで「ああ、そうか」と思っている自分がいることに、葵は気づいていた。
「本当は、こっちで一緒に住もうって言うつもりだったんだ。まさかこんなに早く実家に戻ることになるとは思わなかった。急な話だから、来月すぐに引っ越してくれとは言わない。でも、できるだけ早めに返事が欲しい」
「返事」
 今まで聞いたことのない悠人の真剣な声に気圧されて、オウム返しに言葉がこぼれる。
「まじめに考えて欲しいし、ちゃんと返事が欲しい。こう言わないと、葵は逃げるでしょ。もう逃げられたくないの、俺」
 悠人はそんなふうに思っていたのか、と意外に思う。どんな表情をしているのか見たくて振り向こうとするけれど、後ろからがっちりホールドされているせいで動けない。
「俺、ちゃんとしたいんだよ、葵と」
「ちゃんと」
「そう、ちゃんと。そろそろちゃんとしよう、俺たち」
 ちゃんと、俺たち、と胸の中で繰り返す。悠人の人生に自分が含まれていることが、葵には不思議に思えた。
「悠人」
「ん?」
「悠人は、私のことが好きなの?」
 小声で問いかけると、背中から盛大なため息が聞こえた。抱きしめられている腕の力が強くなって、少し苦しい。
「好きだよ。俺は、葵のことが、好き」
「そっか……」
 再びため息をついて、悠人が葵の肩に顔を埋めた。
「さっきはごめんね、痛かったでしょ」
「うん、痛かった。でも大丈夫」
「葵は」
 と言いかけて、悠人は黙った。続きを促すことはせず、葵は呟く。
「私、ちゃんと考えるね」
「……うん」
「ちょっとだけ、時間をください」
「わかった」
 腕を解き仰向けになった悠人の横顔を見ながら、キスがしたい、と葵は思った。今、悠人とキスをしたら、いつもと違うかんじがするような気がする。無性に確かめたい気持ちになったけれど、なんとか踏みとどまった。今の流れで、葵から悠人に触れてはいけないような気がしたからだ。たぶんそれは「無神経」とか「思わせぶり」などと呼ばれる行為で、自分に好意を伝えてくれた相手に対してやってはいけないことだ。悠人を傷つけたい気持ちは、葵にはない。
 
 悠人と葵は大学一年生の時に付き合いはじめて、三年生のときに別れた。お互いの意思確認の上で恋人関係を結んでいた期間はその三年弱の間だけだ。
 別れたあとの数年間は疎遠になっていたけれど、二十代半ば頃に再会してからは付かず離れずの関係が続いている。
 復縁した、という認識は、葵にはなかった。言ってしまえばセフレのような関係が、もう何年も続いている。なんとなく一緒にいるけれど、悠人ともう一度恋人として付き合うとか同棲するとか、そういう世間的にちゃんとした関係性になる未来はないと思っていたし、悠人もそのつもりだと思っていた。
 悠人とずるずる一緒にいる間も、葵は他の男性と寝ている。悠人も適当に遊んでいる様子で、お互いにそれを隠すこともしなかった。
 でも、と葵は考える。悠人から他の女性の影を感じることが、最近あっただろうか。最後に悠人からそんな話が出たのがいつだったのか、思い出せない。もしかしたら、ずいぶん前から悠人の気持ちは変わっていたのかもしれなかった。
 悠人の寝息を聞きながら、葵はやはり途方に暮れていた。悠人との関係が終わるときは、悠人に恋人ができたときだと思ってきたのは、葵一人の思い込みだったらしい。同棲、とか、恋人の地元に着いて行く、とかいう事柄が自分に降りかかってきている現実が、どうしてもうまく飲み込めない。
 悠人の言う「好き」と、葵の思う「好き」は、何かが決定的に違っているように思う。はっきりしているのは、葵にとってつい数時間前に肌を合わせていた中島さんのような男性たちの存在と悠人は違うということ。それだけだ。
 葵にとって、セックスはそれほど重要なものではない。欲情する、という状態になることはほとんどないし、恋とかいう心理状態については更によく分からない。だから誰彼構わず寝ているわけではない。セックスをしなくても何年だって平気でいられる、と、自分では思っている。ただ、セックスは他の何にも代替できないものである、とは常々思っていて、その点については興味がある。大体において、性的な行為は閉じた空間の中、一対一で行われる。行為中にしか見せない表情や言動、独特の空気感は、その場にいないと知りようがない。行為中限定で親密な状態を作り出す作業も面白いと思う。
 だから葵は、興味を持った男性とそういう雰囲気になったときにはあまり躊躇せず寝ることが多い。興味本位が動機の大半を占めるけれど、本当は、男性とセックスができれば「普通の女性」でいられる、と、どこかで思っているからなのかもしれない。
 興味を満たすために寝てきた男性たちのことを、葵は好きだった。少なくともその瞬間は好意を持っていた。しかしその好意は刹那的で表面的なものだ。興味から「知りたい」とは思うけれど「理解したい」とは思わない。自分のことについては知ってほしいとも理解してほしいとも思わない。身体の関係がある程度の期間続くと、徐々に会話が苦痛になってくる。相手には無遠慮に興味を向けるくせに自分に対して興味を向けられることに苦痛を感じるのは、葵の人格に欠落があることの証明だと思う。
 しかし、悠人に抱く葵の感情は、他の男性に対するものとは少し違っている。セフレ状態が長く続いているけれど、二人で飲みに行ったり、どちらかの買い物に付き合ったりすることもある。悠人とは、そういう時間も不思議と苦痛に感じない。傍からは恋人同士に見えてもおかしくないとは思う。
 昔、まだ恋人同士だった頃に、自分のどこが好きなのかを悠人に聞いたことがある。悠人の答えはこうだった。
「葵はさ、すごい静かじゃん。全部自分の中で完結してる感じがして、そういうタイプが今まで周りにいなかったから、面白いなぁと思ってたんだよね。人のことすごくよく見てるけど、他人の領域に踏み込んでいったりしないし、分かったふうなことは絶対言わないでしょ。そういうとこ、いいなぁって思いながら見てるうちに、気づいたら好きになってた」
 悠人の言葉は新鮮だった。葵はその時悠人に、人の気持ちが分からない自分を肯定してもらったような気がした。
 今の悠人が葵を好きだという理由も、当時と変わっていないのだろうか。もしそうだとすれば、否、そうでなくても、悠人以外に葵を受け入れてくれる人は存在しないだろうと思う。少なくとも「一緒に暮らしたい」という意味で受け入れてくれる人は、悠人しかいない。
 でも、それで良いのだろうか。悠人の「好き」と釣り合う「好き」を、葵は返せるのだろうか。

 悠人のiPhoneのアラームが鳴ったとき、葵は咄嗟に眠ったふりをした。考えているうちに朝が来てしまって、まだ答えは出ていない。身体を起こした悠人に頭を撫でられているのを感じながら、自分が世界の外側にいるような錯覚に陥る。久しぶりの感覚だった。
 身支度を済ませたらしい悠人の足音が遠ざかっていく。玄関の扉を閉める音に続いて郵便受けに鍵が落ちる固い音が鳴り響いても、世界の内側に戻れないまま葵は眠ったふりを続けた。



〈2〉


「それはプロポーズでしょ、完全に。葵、大丈夫? しっかりしなよ」
 祥子(しょうこ)のよくとおる声が、店内の喧騒の中に響いた。
「そうなの? 結婚なんて言われなかったよ」
 待ち合わせたファミリーレストランはかなり混雑している。コロナ禍とはいえ、日曜日のランチタイムだ。終わりの見えない感染症との戦いに、みんな疲弊しているのだろう。客層は子連れの若い夫婦や学生風の若者が多く、店内は人の声や食器の立てる音で満ちている。
「あのさぁ、長年付き合った三十過ぎの彼女に、『俺の地元に一緒に来てほしい、一緒に暮らそう』って言うのは、そういうことなの、普通は!」
「普通……」
「葵がそんな感じなのを分かってるから、あえて『結婚』って言葉を使わなかっただけだと思うよ」
「そんな感じ」
「だって葵、結婚とか言われたらフリーズするでしょ、絶対」
「それはそうかもしれない……」
「ていうか、なに? 葵はなにを迷ってるの? 着いて行ったらいいじゃん、愛媛。そんで毎年私に蜜柑送ってよ」
「迷ってるっていうか、分からないっていうか……」
「なにが?」
「自分が悠人を好きなのかどうか……?」
「うわー、でたよ。葵って本当に変わらないよねえ。大学の頃からなんにも変わってないじゃん」
 大げさに顔をしかめて見せながら、祥子の口元は笑っている。葵にとって唯一の友人である祥子は、人付き合いの苦手な葵の挙動を面白がってくれる貴重な存在だ。頻繁に会うわけではないけれど、定期的に連絡を取り合う仲が学生時代から続いている。世間から見れば決して褒められたものではない悠人との関係も、祥子にだけは話していた。
「大好き! とか、愛してる! みたいなのがなくてもさ、何年も一緒にいてそれなりに居心地が良い相手なら、同棲ぐらいしてみてもいいと思うけど」
「そうかなぁ」
「葵はさ、この先一生、ずーっと今のかんじでいくの? このまま死ぬまで一人でいる予定?」
「あんまり考えてないけど、たぶんそうなるんだろうなって思ってる」
「ふーん。まぁ、葵が一人でいたいなら、好きにすればいいと思うけど。でもさ、明確に嫌な理由がないなら、愛媛に行くのもありだと思うよ。これはまじで」
「明確に嫌な理由」
「うん。でもまぁ、知らない土地に引っ越すってかなりエネルギーいるし、いきなり相手の地元に来てくれって言われたら色々考えちゃうのはわかるけど」
「うん……」
「でもさぁ、葵は悠人君みたいな人と一緒にいるほうがいいと思うけどなぁ」
「え、なんで」
「葵、危なっかしいんだもん。誰か決まった人と一緒にいられるなら、そのほうが安定するんじゃない?」
「安定」
「精神的なところの話だからね、生活の安定とかじゃないからね」
「あ、そっちか」
「葵のそういうとこ、私は面白いと思うけどさ。悠人君は大変だね」
 笑ってそう言った祥子が、急に真顔になる。
「……葵さ、好きなのかどうか分からない、とか、恋愛感情が分からない、とか、前から言ってたよね?」
「うん、今もよく分からない」
「それって、昔からそうなの? 過去になにかあったんじゃなくて?」
「なにか」
「ごめん、話したくなければ言わなくていいし、なにも無いならそれで良いんだけど」
「うん」
「葵の話聞いてると、昔なにかあったのかなぁと思うことが多いんだよね。昔って、子どもの頃とかの話ね。だから、そういうのが引っかかってて気持ちの整理がつかないとか、悠人君のことを決められないとかだったら、無理はしないほうが良いんじゃないかと思ってさ」
「うん」
「学生の頃は、葵は女の子が好きなのかと思ってたけど、そういうことではないっぽいし」
「え、そういうふうに見えてたの? はじめて聞いた」
「なんとなく思ってただけだよ。わざわざ確認することじゃないし」
「そっか」
「ま、悠人君のことはゆっくり考えなよ。あと一ヶ月あるんでしょ?」
「うん……」
「ちなみに、毎年蜜柑を送ってほしいってのは本気だから。そこも考慮してね」
 ニヤリと笑った祥子につられて、葵も一緒に笑う。なんでもはっきり言葉にしてくれる祥子のことが、葵は好きだ。

 祥子と別れて帰宅する途中で、彼女の言葉が何度も頭の中を駆け巡る。
『昔からそうなの? 過去になにかあったんじゃなくて?』
『葵は女の子が好きなのかと思ってた』
 祥子は鋭い。葵自身が蓋をして見ないようにしていた過去の気配をとっくに察知していた。そして、今までそれに触れずにいてくれた彼女はたぶん、人一倍優しいのだろう。


 自宅にたどり着いた葵はクローゼットに直行し、扉を開いた。背伸びをして上棚の奥に手を伸ばし、蓋のついた小箱を引っ張り出す。経年劣化で変色した箱を抱えて深呼吸し、ゆっくり蓋を開く。久しぶりに目にした記憶通りのチョコレート菓子の缶と、記憶よりもくすんだ赤いリボンが入っているその箱を抱えて、葵はその場に座り込む。
 リボンは葵の通っていた高校の制服だけれど、葵の使っていたものではない。葵が所有することを許されているものですらない。このリボンは、葵が盗んだものだ。
 しばらくリボンを眺めてから、チョコレート菓子の缶に手を伸ばす。さび付いたようになっている蓋を苦労して開けた缶の中には、数枚のノートの切れ端が入っている。やはり変色した紙片の一枚をつまんで広げた葵の両目から、涙がこぼれ落ちた。


アオイちゃんへ

明日も部室くるよね?
たぶん寝てると思うから、ちゃんと起こしにきてね。
待ってるよー

アオイちゃんの特別な先輩より


 とっくに忘れたはずの小さな丸い文字が、息が詰まるほど懐かしかった。震える指先で紙片の折り目をなぞる。リボンやメモ紙を目にするのも、彼女を思って泣くことも、この箱の蓋を閉じたとき以来のことだった。
 堰を切ったように涙と記憶があふれ出す。紙片を缶に戻した葵はリボンに手を伸ばす。両手でそれを握りしめて、葵は目を閉じた。


〈3〉


 あの日、彼女があの教室にいたのは、偶然だったのだろうか。
 中間試験を終えて帰宅するクラスメイトの波に取り残された格好で、葵は窓際の自分の席にぼうっと座っていた。
 嘘みたいな快晴の青空だった。目に染みる眩しい青に点在する混じりけのない白い雲が、誰かが配置を決めたみたいにバランスよく浮かんでいる。半分ずつ開けられた窓から入る風は乾いていて、ほんの少し夏の匂いを含んでいる。理想的な初夏のプロモーション映像を見せられているような現実感のない光景をじっと眺めているうちに、何かの手違いで別の世界に入り込んでしまったような感覚に飲み込まれていく。
 小さい頃から、葵のそばにはいつも自分が世界の外側にいるようなかんじがあった。目の前で起きていることや光景が、葵には画面の向こう側の出来事のようにしか感じられないのだ。四六時中感じているわけではないけれど、ふと気付くとこの感覚に支配されている。そうなるともう、葵は葵自身の状況も含めた何もかもを他人事のようにしか感じられなくなってしまう。現実世界の全てが「向こう側」になり、「こちら側」にあるのは葵の意識だけだ。
 常に傍観しているだけの葵は、周囲からは現実に参加することを放棄しているように見えるのだろう。高校二年生になっても、葵には一度も友達が出来たことがなかった。

 不意に静寂が耳につく。いつの間にか両隣の教室や廊下からも人の気配が消えている。そろそろ帰らないと、学校に閉じ込められるかもしれない。そう思った葵が立ち上がった瞬間、窓の向こうから物音がした。
ベランダへ出入りできるサッシの方へ回って外側を覗き込むと、制服姿の人が横向きに倒れているのが見えた。
「あの……大丈夫ですか?」
 恐る恐る近づいて声をかけると、倒れている制服の腕がわずかに動いた。艶々した長い髪に隠れて表情は見えないけれど、小さく呻いてから再開された呼吸音を聞く限り、倒れているのではなく眠っているらしい。放っておこうかとも思ったけれど、ベランダに人がいるのを知っていて鍵をかけるわけにはいかない、と思い直した。
「起きてください、鍵閉めますよ」
 隣に屈みこんで軽く肩をゆすると、顔を覆っていた髪が滑り落ちた。隙間から覗いた横顔の長い睫毛が微かに揺れ、眉間に皺が寄っているのが見える。眺めていると、その人は眩しそうに瞬きを繰り返しながら身体を起こした。
「……あれ、久しぶりだね」
 目が合った瞬間、彼女は葵に微笑みかけてそう言った。
「あの、ベランダの鍵を閉めたいので、中に戻ってもらえますか」
 寝ぼけているのだろうと思ってそう返すと、彼女は不服そうに首をかしげる。
「アオイちゃん、私のこと忘れてるでしょ」
 名前を呼ばれた葵は彼女の顔をまじまじと眺めた。
改めて観察した彼女は、理想的な女子高生とでも言うべき容姿の持ち主だった。身長はそんなに高くないけれど、華奢で顔が小さいのでスタイルが良く見える。そこそこある胸とふっくらした唇は、思わずなぞってみたくなるような柔らかな曲線を描いている。髪も肌も瞳も色素が薄く、特に肌の白さが目を引く。短めのスカートの裾から覗く両足は真っ白で、紺色の学校指定のソックスとのコントラストが残像を残しそうなほどくっきりしている。やや垂れ気味の大きな瞳を縁どる、瞬きのたびにパチパチ音がしそうなほど長い睫毛と、艶々したロングヘア。
 どんなに眺めまわしても、やはり彼女に見覚えはなかった。
「……すみません、どこかでお会いしましたか?」
「やっぱり。まぁいいんだけど、たまには部活に顔出してね」
 そう言って、彼女は立ち上がった。
 教室を出て行く彼女の背中を眺めながら、葵は入部初日以来一度も参加していない茶道部の存在を思い出した。自分が部員であることを忘れていたのだから、他の部員のことを覚えているはずもない。
 結局、彼女が何故あんなところで寝ていたのかは分からなかった。

 葵の通う高校には原則として全ての生徒が部活動に所属しなければならないという規則があり、ほとんどの生徒が何かの部に参加していた。どの部活にも入りたくなかったけれど悪目立ちするのも避けたかった葵は、一番活動的でない部活である茶道部を選んだ。
 週に二回のみの活動は参加自由で、どんなに休もうが誰にも咎められない。それがこの高校の茶道部だった。
 入部届を提出するために出席した初日から一年以上経って、葵が茶道部の部室に向かったのは、ほんの気まぐれだった。ベランダで寝ていた彼女に興味を引かれたことは否めないが、一度くらいは部活に参加してみても良いかという気持ちもあった。
 茶道部の部室は校舎の最上階である三階の端にあった。部室と言っても折り畳み式の畳があるだけで、造りは他の教室と変わらない。扉の前で立ち止まり、一応ノックをしてみるが返答はない。思い切って扉を開くと、教室の隅に積まれた畳の上に横たわっている女子生徒の姿が見えた。
「こんにちは」
 声に出してから、この挨拶はおかしかったかな、と思う。恐る恐る近づいて見ると、横たわっている女子生徒は先日ベランダにいた彼女だった。
よく眠る人だな、と思う。他の部員が来るまで待とうと畳みの端に腰かけると、眠っていた彼女が身じろぎした。
「あれ、アオイちゃんだ」
 横になったまま、彼女が呟いた。
「どうも」
 曖昧に会釈した葵を見上げて、彼女は可笑しそうに言った。
「来てくれたんだね。でも、今日は部活ないよ」
「え、そうなんですか?」
「うん。昨年は火曜日と木曜日だったけど、今年から水曜日と金曜日になったの。アオイちゃん、知らなかったでしょ」
「そうなんですね」
「せっかく来てくれたのに残念だね」
 少しも残念そうな様子を見せずに彼女は言った。
「あの、名前」
「ん? 私? 私の名前はカエデだよ。アオイちゃんの先輩です」
 身体を起こした彼女が、葵の隣に腰かけて笑顔を見せる。理由は分からないけれど、彼女が口にする名前は全てカタカナに聞こえた。
「あ、そうなんですね……いや、そうじゃなくて、私の名前、なんで知ってるんですか」
「なんでって、アオイちゃんは茶道部の部員でしょ」
「はい、でも私、一度も部活に来てないです。名前を覚えてても、顔と一致できるのが不思議だなと思って」
「入部の挨拶はしてたじゃない。あのときアオイちゃん『一番活動的じゃない部活だと聞いて入部しました』って言ったの、覚えてない? あんなことはっきり言う子、他にいないもん。そりゃ覚えるよ」
「そんなこと言いましたっけ」
「言ったよー! アオイちゃん、あの後しばらく茶道部の話題の人だったんだよ」
 そう言って彼女、カエデ先輩は、本当に可笑しそうに笑った。つられて少し笑って、自分が笑ったことに驚く。普段の葵は、自然に笑うことなどほとんどなかった。
「あ、笑ったー! アオイちゃん、笑った顔も可愛いね」
 先輩の言葉に困惑する。笑わないことを指摘されたり、非難された経験は無数にあるが、「可愛い」などと言われたのは初めてだった。
 葵の困惑をよそに、カエデ先輩は再び畳に横になる。
「だめだ、眠い。アオイちゃん、六時半になったら起こしてね」
「えっ」
 部活がないなら帰ろうと思っていた葵は、既に寝息を立てている先輩の隣で途方に暮れた。六時半まで、あと二時間もある。仕方なく授業の課題ノートを開いた葵は、次からは本を持って来ることを決意した。

 部活が無い日も放課後は部室にいるというカエデ先輩の目覚まし係りに任命された葵は、部活が無い日だけ部室に顔を出すようになった。畳の上で眠っているカエデ先輩の隣で本を読んで過ごす時間を、葵は割と気に入っていた。先輩が起きているときには、二人で畳の角に腰かけてとりとめのない話をした。といっても話すのは主に先輩で、葵はいつも聞き役だった。

 首元にリボンがある感覚が苦手で、制服のリボンはいつも部室のロッカーに置きっぱなしになっていること(風紀指導の先生にしょっちゅう説教されるけれど、どうしても付けたくないのだという。でもリボンは可愛いから見るのは好き、と言って、先輩は葵のリボンをつついて笑った)。茶道部に入った理由は、畳の上で眠れると思ったからだということ。決まった時間に起きられなくて遅刻を繰り返すせいで、生徒指導の先生に目をつけられていること。甘いものが苦手で、唯一食べられるお菓子はチョコレートだということ(カカオがたくさん入ってる苦いチョコが好き、と笑った顔が可愛かった)。
 雑談の延長で先輩から「どこでもすぐに眠り込んでしまうことに悩んでいる」と告げられたとき、葵はベランダで寝ていた先輩の姿を思い出してはっとした。
「先輩、あの時、どうしてベランダにいたんですか」
「あの時?」
「ベランダで寝てる先輩を、私が起こしたことがあったじゃないですか」
「そんなことあったっけ?」
 本気で思い出せない、という先輩の表情を見て、葵は胸が苦しくなるのを感じた。はじめての感覚に戸惑いながら先輩の表情を伺う。記憶をたどるように遠くを見つめる先輩の目を見れば見るほど、葵の胸の苦しさは増していく。
「たぶんだけど……なにかしてる途中でも、急に電池が切れたみたいに寝ちゃうことがあるから、その発作みたいなのが起きてたんじゃないかなぁ。なにをしようとしてたのかは、ちょっと思い出せないんだけど」
 困ったように笑う先輩に、胸の苦しさは頂点に達した。
「アオイちゃん、ごめんね、大丈夫だからそんな顔しないで」
 自分がどんな顔をしているのかは分からないまま、気づけば葵は先輩を抱きしめていた。
「謝らないでください。あと、笑わなくていいです」
 先輩の両腕が背中に回されたのを感じて、葵は更に両腕に力を込めた。
「発作みたいなのは、本当に時々しか起きないの。だから大丈夫だよ。……でも、ありがとう」
 そう言って葵の肩に顔をうずめたまま、先輩は眠りに落ちていった。

 この一件以降、先輩は躊躇なく葵に触れるようになった。葵の肩や膝を枕にして眠ることが当たり前になり、起きているときでも抱き着いてきたり腕を絡ませてくる先輩を、混乱しながらも葵は受け入れた。他人とこんなふうに触れ合うことははじめてで、それが嫌じゃないことが不思議だった。葵にとってカエデ先輩が特別な存在であることは明白で、先輩にとってもおそらくそうだということを、本人に確認しなくても葵には感じ取れた。他人の感情をくみとり、それに確信を持てるという未知の感覚を手に入れたことを嬉しいと思う自分が一番不思議だった。
 先輩の存在によって自分の内側が少しずつ変わっていくことが不思議で、少しくすぐったい。この感情にもっと先があるのなら、知りたいと思った。

 その日は珍しく、部室に着くのが先輩よりも早かった。いつものように積まれた畳に腰かけ、そのまま仰向けに寝転がる。普段は校庭を見下ろしている窓から、今は青空しか見えない。先輩はいつもこの角度で窓を見ているのかな、と考える。
 扉が開く音がしたので起き上がると、先輩が入ってくるのが見えた。心なしか表情が沈んでいるように見える。
「先輩」
「アオイちゃん、疲れたよー」
 そう言って駆け寄ってきた先輩に抱き着かれた勢いで、二人とも畳に倒れ込む。押し倒された格好のまま、葵は先輩の頭を撫でた。
「お疲れ様です」
 葵の顔の両脇に手をついて、先輩が身体を起こす。長い髪がさらさらと流れ落ちてくるのが綺麗で見惚れている間に、先輩の身体が離れていく。
「なにかあったんですか?」
 先輩と並んで座る形で横顔を覗き込む。思いがけず強い視線で見つめ返された葵は、先輩の瞳から目が離せなくなった。
「アオイちゃん、私に触られるの、嫌じゃない?」
「……嫌じゃ、ないです」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ、もっと触りたいって言ったら?」
「もっと、って、どういう意味ですか?」
「例えば、キスとか」
 キス、という響きに、身体が強張る。
「やっぱり、嫌だよね。ごめん、忘れて」
「嫌じゃないです」
 取り繕うような先輩の声を聞いて、反射的に口走る。この話をなかったことにしたら、先輩が遠くへ行ってしまうような気がした。
「……本気で言ってる? 本当に嫌じゃない?」
「嫌じゃないです。びっくりしただけで」
 そう言って顔を上げると、先輩の顔が思ったよりも近くにあって、葵は息を呑んだ。いつもより強く輝いて見える先輩の瞳がすぐそばにある。
 恥ずかしくて俯いてしまいそうになる葵の頬を、先輩の指が咎めるように撫でた。目を閉じなければ、と思うのに、身体が言うことをきいてくれない。脳みそが心臓になったみたいに耳の中いっぱいに自分の鼓動が響く。頭がふわふわして、少し怖い。
 先輩がゆっくり近づいてくる。身体の中に燻っていた熱が、塊になってせり上がる。腰から背中へ、首筋へ、耳へ。じわじわと上る逃せない熱が、ついに唇に到達してしまう。体中の神経の全部が唇に集結して、それが極限まで研ぎ澄まされているとしか思えないくらい、唇が、熱い。ビリビリする。こんな状態で触れ合うなんて無理だ、と思う。逃げ出してしまいたい。でももうどうしようもない。高熱が出ているときみたいに視界が潤む。近づきすぎて、もう先輩の顔が見えない。
 校庭から、野球部の掛け声が聞こえる。放課後の校舎はいつも通りさざめきのような音に満ちていて、ろう下や階段を行きかう生徒たちの足音の反響が遠くに聞こえる。窓の外には気が遠くなるような青空が広がっている。
 唇にあたたかいものに触れた瞬間、周囲の音が消えた。そっと触れている柔らかなそれが先輩の唇だと分かって、全身が発火しそうに熱くなる。唇に集中していたビリビリがさらに上昇して、思考回路がめちゃくちゃになる。柔らかくてあたたかくて少し湿っている、先輩の唇の感触のことしか考えられない。触れたところから二人の熱が混ざり合っていくような感覚に飲み込まれる。
 触れて、離れて、またすぐに唇を押し付けるキスを繰り返す。永遠にこうしていたい、と思う。もっと先輩に触れたい、ずっと触れていたい。
 葵は今、先輩と繋がっている。世界の内側で、先輩と触れ合っている。こんなに幸せになれることがこの世にあるなんて、知らなかった。
 好き、と言いかけた葵の唇は、先輩の唇に柔らかく遮られた。


 翌日、急遽開かれた全校集会で、カエデ先輩が誤って川に転落し、溺れて亡くなったことが校長から告げられた。クラスメイトや友人たちのものと思われるすすり泣きが響く中で一分間の黙とうが行われ、壇上に立った校長がマイクで何かを話していた。何を言っていたのかは、覚えていない。

 火曜日だった。火曜日は、茶道部の活動は休みだから、放課後の部室にはカエデ先輩しかいないはずだ。いつも通り授業を受けた葵は、放課後になると真っ直ぐ部室へ向かった。
 扉を開く。先輩はいない。まだ来ていない。積み上げられた畳に腰かける。本を開く。先輩を待っているとき、先輩が眠っているとき、いつもそうしていたように、本を開く。活字を追いかける。目が滑って一文字も頭に入ってこない。おかしい。本を読まなければならない。いつも通りに、先輩が来るまで、本を読まなければ。
 視界がぼやけて、文字が判別できない。目をこすった指が濡れる。おかしい。私に泣く理由なんかない。悲しいことなんてなにもない。私はもう、世界の内側にいるのだ。先輩と一緒に、世界の内側に。
 ぱたっ、ぱたっ、と、変な音がする。紙に水滴が落ちているみたいな音。先輩はまだこない。本を閉じる。見えないのに開いていたって仕方ないから閉じる。それだけだ。
 立ち上がる。先輩がいつもリボンを置いているロッカーを開ける。そこにはちゃんとリボンがあった。先輩のリボンが、先輩の痕跡が。
 リボンを握りしめて床に崩れ落ちた葵は、物心ついてからはじめて、声を上げて泣き叫んだ。

 葬儀にも告別式にも、葵は参列しなかった。溺死体になった先輩を見る勇気が出なかった。遺影に収められた先輩も見たくなかった。それなのに、先輩のリボンを手放すことは出来なかった。
葵の鞄や下駄箱に時々入っていた先輩からのメッセージと一緒にリボンを封印してから、葵は世界を外側から眺める生活に戻った。


〈4〉


 リボンを握りしめたまま泣き続けた葵は、空っぽになった心がしんと静まり返っているのを感じた。
 先輩とキスをした瞬間、自分が世界に受け入れられたような気がしたあの瞬間の幸福を、何度も反芻する。

 世界の内側に連れて行ってくれた先輩を失った葵は、自ら外側に戻った。先輩がいなくなったせいではなく、葵自身の心がそれを望んだのだということが、今になってようやく腑に落ちた。
 自分の選んだ道だという自覚を持てないまま、葵は再び内側に連れて行ってくれる触れ合いを求めていた。悠人をはじめとする、他者の存在にすがってきたのは葵の弱さだ。先輩とのキスが忘れられなくて、他人と肌を重ねることに固執していたのかもしれない。

 世界と繋がった実感を得たのは、確かにカエデ先輩とのキスの瞬間だった。でも先輩とのことは、彼女との関係は、それだけじゃない。あの瞬間に至るまでの全ての時間、先輩は葵を受け入れてくれていた。そして葵も、先輩を受け入れていた。葵が心を開いて先輩を求めていなければ、あの幸福な受容の瞬間は存在しなかったはずだ。
 何年も何年も、たくさんの人を傷つけながら長い時間をかけて、葵は自分の心の内側にたどりついた。葵が世界だと思っていたものの内側に、ようやくたどり着いた。


エピローグ


 悠人の背中を追いかけて、東京駅の新幹線ホームを歩く。
 軽い気持ちで「飛行機の方が楽だったんじゃない?」と聞いてみたら、悠人は歯切れの悪い口調で「飛行機は苦手」と答えた。長いこと一緒にいたつもりの相手でも、知らないことばかりだ。
 指定席の車両の列に着いて立ち止まった悠人が、葵を振り返る。
「今から六時間も座席に閉じ込められると思うとぞっとするんだけど」
「やっぱり、飛行機を克服したほうがいいんじゃない?」
「いや、簡単に言うけどさ、ほんとに無理なんだよね。一人で飛行機とか恐怖しかない。まじで」
 悠人の言葉に、胸の中がぎゅっと痛む。返す言葉を探しているうちに、岡山行きの新幹線がホームに滑り込んでくる。
「あ、きた」
 悠人の髪がなびく。
「葵、見送りありがとう。もういいよ、これ以上別れを惜しまれたら泣いちゃいそう、俺が」
 目を細めてそう言った悠人に頷いて、声をふりしぼる。
「悠人、今まで、ほんとにありがとう。元気でね」
「うん。葵もね」
 葵の頭をぽんぽんと撫でた悠人の顔が近づいてきた、と思った次の瞬間、マスク越しにキスをされる。唇に、微かに悠人の体温を感じた。
 葵が何か言うよりも先に乗客の列が動き出し、背中を向けたままひらりと手を振った悠人の後ろ姿が遠ざかって行く。
 今のはたぶん、人生で二番目に印象深いキスになる、そんな気がする。
 これ以上別れを惜しんだら、泣いちゃいそう、私も。
 既に潤んだ視界を振り払おうと瞬きを繰り返して、悠人の乗った新幹線に背を向ける。

 葵の右手には、綺麗にアイロンをかけたリボンが入った紙袋が握られている。今からカエデ先輩の家に行き、ご家族にこのリボンを返すつもりだ。勝手に持ち帰ったことをきちんと謝罪して、もし許してもらえれば先輩の遺影を見せてもらいたい。先輩に手を合わせて、今までのいろいろを報告したいし、出来ればご家族とも、先輩のことを話したい。


 今更なにをしても、なにも変わらないかもしれない。それでもいい。私は私の世界の内側で、ずっと先輩と一緒にいる。私の世界が終わるまで、ずっと。それは私にとって永遠と同じことだ。


 鳴り響く発車ベルの音にも、もう感傷はない。強い風が吹いて、リボンの入った紙袋がゆれる。
 右手をしっかり握り直して、葵は歩き出した。


〈了〉

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