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弱いというより悪いと思うの【掌編小説】


 華恵は今日、三年間勤めた会社を退職した。
 最後の勤務を終え、貰った花束を抱えて地下鉄の階段を下りる。
 様々な種類の花をふんだんに使ったカラフルで可愛くて大きな花束は、抱えていると足元が見えづらく非常に歩きにくい。かと言って片手で持つには重いし幅を取って周囲の人にぶつかってしまいそうなので、抱える他に運びようがない。階段を下るときに最も適さない持ち物は、華恵が今抱えている花束だと思う。

 タイミングよくホームに滑り込んできた電車に乗り込み、ドア脇のスペースに立って壁にもたれる。花束と一緒に渡された紙袋を覗くと、寄せ書きの色紙とピンク色の箱が入っているのが見えた。
 なんだろう、と思って紙袋を持ち上げてみる。どうやらリラクゼーショングッズらしきその箱に「心地良い眠りをサポート」と書かれているのを見て、思わず鼻で笑ってしまった。誰がどんな気持ちでこれを選んだのかは全然わからないけど、きっとバカなんだろうなあと思う。華恵がうまく眠れなくなったのは、仕事のせいだ。
 ついでに色紙を取り出していくつかのメッセージを読んでみる。「お元気で」とか「新天地での活躍を祈っています」とか一言しか書いてない人が何人かいて、その人たちの名前を見ても顔が思い出せない。そんな薄い関わりの人が内心めんどうだなと思いながら義務的に書いたであろう文字を眺めて、これほど無駄な紙の使い方が他にあるかしら? とうっとりしてしまう。
 顔が思い出せる人たちによるメッセージは、心の中で返事をしながら読む。

「寂しいです」
わたしは寂しくないです。

「いつも癒されてました」
でしょうね。

「これからはプライベートも充実させてね♡」
うるさい、ほっとけ。

 すぐに飽きて、色紙を紙袋に戻す。
 換気のために窓が開けられた地下鉄の走行音に包まれて、腕の中の花束を眺める。「ハナエちゃんに花束を」と言いながら笑っていた上司の顔を思い出してイラっとして、リラクゼーショングッズはメルカリで売ろうと決めた。


 
 自宅の最寄り駅で電車を降りる。歩いているうちに、花束を持って帰るのが嫌になってきた。大きすぎて邪魔だし、そもそも華恵の家には花瓶の類が無い。あったとしても枯れるまで毎日水を変えるのが面倒だし、見るたびに上司の顔を思い出しそうでウザい。
 駅のゴミ箱に捨てれば良かったと後悔する。考えれば考えるほど持ち帰りたくない。どこかで捨てようと決意して、歩きながらラッピングを外していく。
 リボンを解いてポケットに突っ込み、透明のビニールの包装紙とピンクの包装紙をはぎ取ってくしゃくしゃにして紙袋に押し込む。切り口を覆っていた銀紙に水を含んだ紙を包んで丸めて、これも紙袋に詰め込んだ。

 包装を解かれた花束は、途端に生々しい切り花になる。切り花の放つ生の植物感、もっと言えば生き物感が、華恵はあまり得意ではない。心なしか匂いも濃くなった気がして、できるだけ顔から遠ざけて掲げ持つ。

 いつも通る橋の上に差し掛かった時、ここだ、と思う。浅い川だけど、こんな花束くらいは容易に連れ去ってくれるだろう。
 欄干から川面を覗き込んでから右手で花束を握り、思い切り振りかぶって投げ込んだ。
 空中でバラバラになってもう束じゃなくなった元花束の花たちが落ちていく。着水したそれらがゆっくり流されていくのを眺めて、花葬、と思う。華葬でもいいな、華恵の華には今日でいったんさようならだ。
 回転しながらばらけて広がっていく花の一本一本の行方を見届けようと目で追っていたけれど、すぐに諦める。急速に花束自体への興味が薄れていくのを感じて、川に背を向けて欄干に寄りかかった。
 「ハナエちゃんに花束を」と言っていた上司を思い出すことはもう無いだろう。
 ふふん、という笑い声が鼻から抜けていく。紙袋も投げ込みたくなったけど我慢して、華恵は橋を後にした。


 コンビニで買ったカップ麺にお湯を注いでベランダに向かう。隅に置いている小さなイスに腰かけて、カップ麺を室外機の上に置いて煙草に火をつけた。
 華恵が煙草を吸うことを、今日まで一緒に働いていた人たちは誰も知らない。喫煙するのは自宅ベランダだけ、勤務前には吸わないというのが華恵のポリシーだからだ。若い女が煙草を吸っていると、喫煙者にも非喫煙者にも絡まれる。喫煙所に居合わせただけの知らないおっさんに説教されることもあるし、喫煙者同士というだけで妙な連帯感を抱かれて馴れ馴れしい態度をとられることもある。本当に若かった頃に散々そういう経験をしたおかげで、華恵は喫煙者であることを隠すようになった。
 不思議なもので、ベランダでの喫煙が当たり前になってしまえば外出先で吸いたくなることは滅多にない。こういうことが性に合っているのだと思う。華恵には、自然体の自分を見せたい相手などいない。
 
 一本目を吸い終えてカップ麺の蓋を開いた瞬間、吹き付けた北風が瞬時に湯気を連れ去っていった。
 真っ白の湯気が直線状に真横に流れていくのを見て、急に楽しくなる。
 ふうふうと息を吹きかけるたびに横っ飛びに走り去っていく湯気に笑い、啜っては笑い、また息を吹きかけて笑う。
 花を投げ捨てることよりも、すごい速さで飛んでいく湯気を眺めているほうが、ずっとずっと楽しかった。
 

 食べ終えて、もう一度煙草に火をつける。やっぱり真横に流れていく煙を見送りながら、こんなふうに生きていきたいな、と思った。
 華恵の理想を体現した煙が、どこまでもまっすぐに飛んでいく。
 ふふん、と鼻から抜けた白い笑い声も、あっという間に北風に乗って飛んでいった。


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