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今は亡き最愛の君へ

はじめに~こんな夢を見た~

昨日遅くまで、というか今日の明け方までパソコンに噛り付いていたせいで、昼過ぎに睡魔に襲われた。

とろとろと眠っていたら、久しぶりに彼が遊びに来てくれた。

ベッドに飛び乗って私の頭の方に向かって歩いてきた時、咄嗟に近所の野良猫が入ってきたのかと考えたが、私の部屋は二階だ。

一体どこから…と思っていると、枕にたどり着いたその猫が私の髪に顔を埋めて匂いを嗅ぎ始めて、その仕草で彼だと分かった。

彼は髪の匂いを嗅ぐのが好きだった。寝ている私の布団に飛び乗り、足や腹の上を容赦なく踏みながら枕まで歩き、髪の匂いをひとしきり嗅いだ後、私の頭にぴったりくっついて眠った。

猫のくせに夜もたっぷり眠る彼に、いつも枕を奪い取られた。

懐かしい、当時のままの彼だった。しばらく私の頭の横で喉を鳴らしたあと、立ち上がった彼は去って行った。

行ってしまう、起きなきゃ…と思ったが起き上がれず、目が覚めた後に慌ててカーテンを開けて確認したが、サッシはぴったりと閉まっていた。

やはり彼が遊びに来てくれたんだと思って、嬉しいのと悲しいのとで少し泣いた。

死んでしまってから二年と少しが経つが、今も変わらず私にとって最愛の生き物である彼とのことについて書いてみようと思う。


出会い

私が小学五年生の時、通学路でのことだった。
半袖を着ていたので夏だったのだと思う。
登校途中の道路で、車に轢かれそうになりながら車道の真ん中をよろよろ歩く子猫を発見した。
急いで駆け寄って抱きかかえたその猫は、小さくてふわふわして柔らかかった。目が青く、身体は真っ白で、顔と耳、手足の先と尻尾がこげ茶色だった。
あまりの可愛さに一瞬で心を奪われた私は、嫌がる子猫を必死に抱きかかえて学校までの道のりを歩いた。
到着する頃には私の腕は引っかき傷でボロボロになっていたが、そんなことはちっとも気にならなかった。
職員室に直行し事情を説明すると、先生がダンボール箱を用意してくれて、教室に連れていくのを許可してくれた。

私がダンボールを抱えて教室に入ると、クラスメートの、主に女子の視線が突き刺さった。
当時の私は、柔らかい表現で言えば仲間外れのターゲットになっていて、教室の中で常に孤立していた。
俯いて窓際の自分の席まで歩いて、机の隣に子猫の箱を下ろした。クラスの中心グループの女子たちが興味を抑えきれない様子でこちらを見ているが、誰も話しかけては来ない。
しかし、空気の読めない男子が一人走ってきて、
「猫だ!これどうしたの?」
などと大声で話しかけてきた。
その声に反応して他の男子も集まってきて、好奇心に負けた女子がその外側を取り巻く形で私の席に人だかりができる異常事態が発生した。
仕方なく箱を机の上に乗せ、道路で拾ったこと、放課後まで一緒に教室にいることを小声で説明した。

最初に話しかけてきた男子は家で猫を飼っているらしく、慣れた手つきで子猫を撫で始めた。
両親が猫を飼うのを許してくれると思えなかった私は、勇気を振り絞って誰か飼える人がいないかと聞いてみた。
最初の空気の読めない男子が、帰ったら親に聞いてみると言ってくれたが、他のみんなは首を横に振った。
私への意地悪ではなく、本当に飼えないのだろうということが見てわかった。男子も女子も残念そうな顔をしていたし、なにしろその子猫の可愛らしさは驚異的だった。
やはり連れて帰り、両親に頼んで駄目だったら自分で飼い主を探すしかないと覚悟を決めた。
その日は一日、休み時間のたびに子猫のところに人だかりができた。

飼い主探し

やっと放課後になり、子猫の箱を抱えて帰宅した私は案の定母にNOを突きつけられたが、飼い主を見つけるまでという条件付で家で面倒をみることになった。

その日から、子猫の箱を抱えて近所の家を訪ねて回る日々が始まった。
子供の突拍子もない考えだが、当時の私は真剣だった。
内気で人見知りな普段の性格からは考えられない行動力と精神力で
アポなしお宅訪問~この猫お宅で飼ってもらえませんか~
を全力で毎日遂行した。

どの家でも門前払いされた。当たり前だ。
突然やってきた知らない子供に猫を飼ってくれと泣き付かれるなんて、私なら出来れば経験したくない。
しかし他に方法が思いつかなかった私はひたすら知らない家のチャイムを押し続けた。
これを止めない両親もどうかと思うが…
そしてついに、徒歩で行ける範囲全ての家に断られた。

飼うための条件

途方に暮れた私は部屋に閉じこもり、子猫の箱を抱きかかえて泣き続けた。
(子猫はいまだに学校でもらったダンボール箱の中にいた)
この子が捨てられてしまったらどうしようと泣きべそをかく私を、休日で家にいた父がリビングへ呼び出した。
私の父は無口で躾に厳しい人で、叱られるたびに心身が凍りつくような恐怖を味わっていたので、私にとって父は恐怖そのものだった。父と話す時は常に緊張で身体が強張った。

父の前で正座をした私は、泣いている理由を問われ、一生懸命探したが飼ってくれる人が見つからないことをなんとか説明した。
すると意外にも、父の口から「家で飼っても良い」という言葉が飛び出した。驚愕して父の顔をまじまじと見る私に、父は続けてこう言った。
「飼っても良いが条件が三つある」
私は固唾を飲んでその条件の提示を待った。
以下がその三つの条件である。

①自分で責任を持って世話をすること
これは当然だと思い、私は勢い良く頷いた。

②名前は「チョモランマ」にすること
父は登山が好きで山を愛していた。チョモランマとは世界最高峰であるエベレストの現地名なのだが、当時の私はそのことを知らなかった。
なんか変な名前だなと思ったけれど、飼えるならなんでもいいと思って頷いた。
私の父は、控えめに言って、かなり変わった人だった。

③この猫に関する作文を三つ書くこと
これには意表を突かれた。正直自信がなかった。しかし背に腹はかえられない。私はゆっくり頷いた。
私の父は、変人な上に教員だった。故に、我が家の日常には教育的要素が散りばめられていた。

こうして我が家の一員になった子猫は、「チョモ」と呼ばれることになった。(チョモランマは長いし、やっぱりちょっと変だった。)

ちなみに作文は二作しか書けなかったが、チョモが追い出されることはなかった。遅くなったが本記事を三作目ということにしようと思う。
…父には見せられないが。

それからの日々

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※写真は幼い頃のチョモと弟/チョモと母と妹

チョモはトラ猫とシャム猫の雑種で、男の子だった。
臆病な性格で気が弱く、ネズミを発見しても動かず見送る猫だった。外に遊びに行って、よその猫との喧嘩に負けてボロボロになって帰ってくることもしばしばだった。
高いところに登っては降りられなくなってニャアニャア騒いだ。
カリカリのキャットフードしか食べず、たまに奮発してお高めの猫用缶詰などを買って来ても見向きもしなかった。
チョモは家族みんなによく懐いた。誰かがソファに座るとすぐに、膝に乗る為に駆け寄ってきた。父だけは最期までチョモが膝に乗ってもすぐに降ろしてしまっていたけれど、それでもチョモは何度でも父の膝によじ登った。
チョモは私にとってかけがえのない存在だった。学校が辛くて(結局「学校」の名のつくものは全て、私にとって苦痛でしかなかった)落ち込んだり泣いたりしている時に、何度も慰めに来てくれた。

高校を卒業して実家を出てからも、帰省のたびに変わらず出迎えてくれた。
随分長い間、チョモに会うことが帰省することの唯一の目的だった。


そして近づく別れの時

チョモが家族になってから、十五年が経っていた。老化は進んでいたが健康だった彼の身に、決定的な変化がやってきた。
母が病院へ連れて行き、自宅で薬を飲ませ、献身的に看病してくれた。
以下、当時の日記の記録からの抜粋。


2017.9.18
昨日、11時30分着のバスで実家に帰り、今日13時30分着のバスで東京に帰ってきた。チョモに会うため。
小さく軽くなって、右半身に力が入らない。
ブルブルッと今までと同じように体を振って、そのたび右側に倒れる。
トイレの場所がわからずよろよろ歩き回る。
餌と水の場所にも真っ直ぐたどり着けない。
目は、たぶんほとんど見えていない。
常に鼻が詰まっていて、時々鼻血が垂れてくる。
右の首のところに大きな膨らみができている。腫瘍かもしれない。
撫でられると気持ちよさそうな顔をして、撫でるのをやめるとキョロキョロと手のゆくえを探す。
薬を飲ませると嫌がって暴れて引っかく。
背中を触ると骨の感触がくっきりとわかって、たまらない気持ちになった。
避けようのないことだけれど、悲しくて仕方がない。
もう会えないかもしれない。
もう声を聞けないかもしれない。
一緒に寝ることは二度とできないし、体を摺り寄せてくることも、撫でて欲しいと手を伸ばしてくることも、私の後ろをとことこついて歩くことももう二度とない。
座っている私の膝に上って、ねぇ撫でてよって、かわいい顔で見上げることも、布団に入りたくて鼻水を垂らしながら私の頬に顔を擦り付けてくることも、夢中で私の頭の匂いを嗅ぐことももうない。
無理やり膝に乗り、胸元や顔に手を伸ばすチョモのせいで何着服をだめにしたかわからない。
いつだってチョモと一緒にいるとみんな毛だらけになっちゃうし、加減なんてしないからしょっちゅう引っかき傷をつけられた。
全部全部可愛くて大好き。愛してる。
瘦せて思うように動けなくなっても、毛並みの感触は全然かわらなくて、やわらかくてあったかくて、抱き上げたときの反応も変わらない。
チョモはチョモのまま、死ぬときまでチョモのままで、あんまり痛い思いや苦しい思いをしないで済むならそれが一番だ。
しょっちゅう注射に連れて行かれて毎日薬を飲まされて、いやだよね。いたいよね。
こんなことが長期間続くのは、チョモを苦しめるだけだよね。

死期が近づいているのは明らかだった。
その頃、木曜日と日曜日が休みのクリニックに勤めていた私は、水曜日と土曜日の勤務後に夜行バスで実家へ向かい、翌日またバスで自宅のある東京に戻る生活を数ヶ月続けた。東京から実家まではバスで五時間。限界への挑戦だった。


ついにやってきた死別の日

いまだに思い出すと涙が出てきて、何も手につかなくなる。
これも当時の日記から引用。

2017.11.7
今朝、チョモが死にました。
昨日の夜、突然痙攣を始めて、苦しんで、ぐったりして、時々痙攣を繰り返しながら衰弱して、そして、死にました。
ちょうど妹が帰省していて、昨日の夜と今朝、LINEの動画で通話してくれた。
両胸の中心の辺り、奥のほうが冷たくすうすうしているかんじ。
画面越しに硬直したチョモを眺め続けて。
昨日、何度か危なくなって母と妹と何度もチョモの名前を呼んだ。

愛してる、大好き。
本当は、全然よくわからない
チョモが死ぬってなに?
本当にもう動かないの?
にゃあって、もう言ってくれないの?
そんなことがある?
柔らかくて暖かくて鼻先は冷たくて。
爪切りを嫌がって、伸びたままの爪がいつもどこかに引っかかって動けなくなる。
早く取ってよって、見上げて、にゃあって、もう言わないの?
チョモが死ぬってなに?
どういうこと?
全然わからない。
もう目が合うことはないの?
ゆっくり瞬きをし合っていつまででも繰り返せたのに。
大好きだよって気持ちでじっと目をみて、ゆっくり瞬きをする。
私の瞬きをチョモはもう見てくれないの?
大好きだよって、返してくれないの?
嘘でしょう。
あんなに柔らかだった身体が硬直してもう目も口も閉じられない。
丸くなって自分の尻尾を抱えて、撫でてよって見つめるチョモが、私のチョモなのに。
もういない。硬くなった、身体だけになった。
チョモが死んじゃった。

遺体に会う為に帰省して、本当に冷たく硬くなったチョモを前に、大声で数時間泣き続けた。
涙は枯れなかった。凄まじい喪失感と悲しみに、毎日泣いた。


今も変わらず

チョモが死んでから二年半の月日が経った。時折、思い出して涙が出ることはあるけれど、少しずつ悲しみも思い出に変わりつつある。
時々夢に見て、私に会いに来てくれているんだなぁと嬉しくなる。
「本当は死んでいなくて、死んだことの方が夢でほっとする」という夢を見て、目が覚めて打ちのめされることもあるけれど。

チョモは、今も変わらず私の心を支えてくれる、私の最愛の生き物です。


おわりに~父とのこと~

私がチョモの遺体とお別れを済ませ帰宅した後に、父が庭にチョモのお墓を作ってくれた。

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日当たりも眺めも良い、チョモが日向ぼっこをしていた場所の近く。
写真は直後のもので、現在は両親が植えた花に囲まれている。
父が探して選んできたという墓石が山のような形で、なんだか笑ってしまった。
分かりにくいけれど、父なりに、チョモに愛情を持っていたんだなぁとしみじみ思った。

さらっと書くはずだったのに、気づけば今までで一番長い記事になってしまった。また夜更かしだ…
でも、自分の為に、書いて良かったと思う。
今は帰省できないけれど、帰れるようになったら、母に読んでもらおうと思う。もし勇気が出せれば、父にも。

そんな個人的な文章をここまで読んでくださった方、ありがとうございました。あなたとあなたの愛するなにかが、幸福でありますように。

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※まだ元気だった頃のチョモ。大人になるにつれて背中にトラ猫の遺伝の模様が出てきて真っ白ではなくなったけれど、やはり圧倒的に可愛い。大好きだ。

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