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治外法権の存在

海外の映画でもドラマでもそうなのだけれども。
近所のおじちゃんおばちゃんってなんでこんなに似るのだろう。
噂好きなおばちゃんとかが出るともうまったく同じという。
国、人種、言語、宗教、思想、あらゆる違いを乗り越えるキャラクター。
不思議な感じもするし、そんなもんかという感じもする。

年齢とか見た目とか性別とか、そこで差別しちゃいかん。
でもそういう全ての治外法権にあるような感じがある。
おじちゃん、おばちゃん。
まぁ、本人たちが自虐的に口にするからかもだけれど。
本人たちが言うのと、他者が言うのは違うんだけどね、実際。
ここまで多様性とかコンプライアンスとかの時代になっても、他者から言われたり、表現の中でステレオタイプに表現されるっていうのがなんともいえず面白いというか、でもモヤモヤもするというか。

ガキどもとかはたぶんダメでしょ?
でもジジイどもとか、気持ち悪いおっさんとかはありでしょ。
まぁ、その、、、。
殆どのおじさん、おばさんたちは、自分たちも若い頃におじさん、おばさんってさあと思った経験があるから余裕をもって受け止められるって言うのはあるんだろうなあって思う。
通ってきた道は理解できてしまうっていうやつでさ。
理解できてしまう時点でもう差別のようなものからは距離があるのかもしれない。
そういう意味ではステレオタイプなキャラクターとして許されている大事な要素なのかなぁ。
かつてはもっと色々なステレオタイプがあったわけで、でもそれは許されない時代だから貴重なのかもなぁ。
まぁ、僕の知る限りそんなステレオタイプなおじちゃんおばちゃんって実はそんなに存在してねぇぞって思っているのだけれども。

かと言って映画やドラマからいなくなってもらっちゃ困る。
とっても大好きなキャラクターだったりもするから。
愚かな、噂好きのおばちゃんたちや、抜けているおじちゃん。
見るのも、演じるのも、全部好き。楽しい。

別に差別意識だとかがあって生まれたキャラクターではないと思うの。
ぼけぼけのおじいちゃんとかさ。
やけにスケベな看護師さんとかさ。
物凄くマッチョなおかまちゃんとかさ。
この3つなんか絶対にダメだよな。今は。
それが型にはめてしまうことになって誰かを苦しめるってわかったのだから。
そんなやつはいねぇわ!っていう前提だったと思うんだよ。
だって、あれはディフォルメだったわけだからさ。
リアルで見ていけば、そんなわけはないっていうのはわかってた。
でももうそういう判断にはならない。
今まで定番だったキャラクターも出せなくなっていく。
ジャイアンも暴力を振るわなくなっているって聞いたよ。
社会が成熟してきたのだってことで良いのだと思う。

そんな隙間をするりと抜けちゃうのがおじちゃんおばちゃん。
いや、ジジィとババァ。
すごくない?なんか神聖さすら感じる。
ディフォルメして笑っているようで、どこかリスペクトがあるのかな。

僕は高校生ぐらいから二十代半ばぐらいまで。
ああ、こんなジジィになりたいという理想がありましたよ。
あんなジジィに早くなりたいなぁとか思ったり。
そう考えれば実は奥底で少し尊敬があったのかな?
尊敬まで行かなくても畏怖であったり憧憬であったり。
理想のジジイ像っていうのは確かにあった。
いや、クソジジィ像だったかもしれん。

あの頃の僕からみればジジィである年齢になった今。
改めて見回してみると、ステレオタイプなおじさんおばさんはどこにも存在していない。
要素としてはなくはないかな?って程度。
それを強調したりディフォルメしたりすれば、なぜだか自分たちも笑っちゃう。
ああ、僕は憧れのかっくいいクソジジィに近づけているのだろうか。
まだまだ志半ばであるよ。

そんです。
あだすがへんなおじさんです。
ってな。
一緒になって笑える強さよの。

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