アンロジカルシンキング
サッカーのアジアカップで森保監督が能登震災の皆様に良いゲームを届けたいというコメントを出したというのを読んだ。
スポーツ、文化は、それ自体が発信なのだ。
思いというのは想像を超えるような何かを生み出す。
そう思ったら中東各国の成績が良いというのを目にする。
その記事はホームアドバンテージのように書かれていたけれどそれだけじゃないだろう。
口にしなくとも、中東各国の選手たちの思いはいかばかりか。
パレスチナはもちろん、イランでもイラクでもシリアでもヨルダンでも。
国に一つでも良いニュースを届けたいと願う気持ちはどこにも負けていないのではないだろうかと思う。
思いと思いがぶつかるのだから勝ち負けではないのかもしれない。
スポーツニュースを読んだ後に、ニュースアプリで国際ニュースを開けば、中東各国の名前がずらりと並んでいる。
彼らはそれを国内ニュースとして目にしながらスポーツをしている。
気持ちのことを書いたりするとすぐに根性論だ精神論だになりがちの今時。
でもほんとうにそうかな?って思う。
いや確かに技術の向上だとか、クローズアップするべきところはそこではないという意見はある意味で正しいのだろうと思う。
思いの強さみたいなことを言い始めると、じゃあそれはどうやって向上させるんだよ?という話になるし、根性だとか言い出すとハラスメント的な方向性に行ってしまいそうだし、現代ではとても扱いにくくなっている。
実際、思いや気持ちが強くたって、どうにもならないこともある。
でもほんとうにそうなのかな?
そんな事はないんじゃないかなぁ。
昔はね、すぐにハングリー精神がうんたら的な。
そういう言葉って結構、あちこちで耳にした。
高度経済成長期以降のバブル世代は豊かでハングリー精神が足りないってよく揶揄されたりしたのだよ。
まぁ、それはそうなのかもなぁと思っていた。
それが次の世代ぐらいから、なにそれ関係なくね?みたいな雰囲気が出てきた。
わあ、強いなあ、すげえなぁって思ってた。
それ以降、何か話をしていると、精神論とか根性論って言葉はネガティブな言葉になっていた。
精神論で話すのはやめましょうよ。みたいな。
だがしかしだ。
思いの強さというのはやっぱりあるんだよなぁって今は感じている。
というか、思いのないような空っぽなものって、結局通用しない。
だって中身がスカスカなんだから。
中身がスカスカにみせかけて、そのスカスカに意味があるものは面白いけれど、ほんとうにスカスカなものってやっぱり無理だなぁって思う。
文化というのはスポーツも含めて。
神への祈りから生まれたというのはとても納得がいく。
僕は中身がないようなものは嫌だ。
僕は思いを感じ取れる人間でありたいし、想いを届けられる人間でありたい。
投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。