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認定されない弱者

今日は花粉が多い日だったらしいがくしゃみなし。
ううむ。やはり風邪的なものだったのか。
それともなんか別のアレルギーか。
やっぱり誰かが噂していたということなのか。
毎年のように花粉症疑いの日が数日やってくる。

弱者という言葉を目にすることが最近多い。
大昔は弱者とはいわゆる女子供だとかお年寄りだった。
文字通り腕力的な弱者だ。
それが社会的弱者という言葉が生まれた。
社会制度の中で立場が弱い人々のこと。
制度だけではなくて今ではマイノリティも含まれているように思う。
多数決でものごとが決定していく社会における少数派だ。
当たり前と言えば当たり前なんだけれど、社会の変容と共に弱者の定義も変化し続けている。

それ自体に何か文句があるわけではないのだけれど。
僕が気になっている弱者とは少し意味合いが違う。
僕が気になっているのは認定されない弱者だ。
常に零れ落ちてしまう弱者がいるだろうなぁって思ったのだ。

例えば大昔、腕力的な弱者。
女子供年寄ってのは弱者だから守るべきだと言われていた中で。
実際に腕力が弱い男性はとてもつらかったんじゃないだろうか。
お前は男だろ?って弱者とは認定されない人がいたはずだ。
社会的弱者には認定されない人の中にもそういう人たちがいる。
そしてマジョリティの中にも弱者が存在していると思う。
僕が今、気になっている弱者はいわゆる現在の社会問題で言われている弱者ではなくて、そんな認定されない弱者たちだ。

弱いお前が悪い。
そう直接言われてしまうような場所にいる人たち。
そこでくじけずふんばれと応援されてしまう人たち。
もっと期待していましたなんて言われてしまう人たち。
そういう弱者と理解されないまま、弱さを見つけられてしまうこと。
そのこと自体に怯えて弱さを必死に隠して生きること。
今、そういうことがずっと目の前に流れているような気がする。

僕はそのことがずっと気になっている。
だから映画の中でもそんなセリフをいくつか繰り返した。
あいつは強い、お前ほど強くない、俺は弱いんだ。
まったく基準なんかないまま、そういう言葉を口にする。

誰だって弱さを持っているとも言えるのかもしれない。
そうなってしまえば弱者なんて全員だってことになる。
あるいは、そいつのバイオリズムでしかないのかもしれない。
それでも弱っている心が急に見えてしまうことってある。
あ、こいつ、今、弱ってるなって感じることがある。
例えば責任ある立場の人でも、ふと顔色に感じることがある。

社会的弱者や少数派はテーマになる。
人間の弱さみたいなものは物語のエッセンスにされてしまう。
大抵の物語ではラストに強くなるんだよ、人間として。
でも現実はどうかな?ほんとうにそうかなって思ったりしている。
心の傷がフラッシュバックを呼ぶというけれど。
ただ後悔しただけの一瞬がフラッシュバックすることなんて多くの人が経験していることだと思う。
心の傷まで行かないし、障害が出るわけでもないのに。
それでもフラッシュバックして恥ずかしくなったり悔しくなったりする。
それを簡単に、人間味みたいな言葉で消化してしまう。

誰にも認定されない弱者。
普通の中に埋没した弱者。
それはすぐそこにいる。
どこにでもいる。
そのことがとても気になっている。

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