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考えの話

 大学生の頃、バイト先の同僚に「小野さんって何を考えてるかわかんないですよね」と言われた。私はそれに対して「みんなだよ!」と答えた。「私だけでなく他の誰でも、その人が考えていることなんて本当の意味ではわからないでしょう」ということだったのだが、今思えばだいぶ言葉足らずだった。あいつも急に「みんなだよ!」と言われて、意味がわからなかっただろうな。可哀想に。
 さて、私が思うに自分以外の人間の考えなんて、エスパーでもない限りどうやっても100%把握することなどできない。つまり、「何を考えてるかわからない人」とは一部の人間を指す言葉ではなく、自分以外の全ての人類を指すものなのだ。だから人はコミュニケーションをとって相手のことを知ろうとする。言葉で自分を表現しようとする。言葉を介して「わからない」を「わかる」にしていく。こうして人と人とが繋がり、コミュニティが成り立っていく。
 一方で、結構コミュニケーションをとったにも関わらず、結果として「何を考えてるかわからない人」になってしまうパターンもある。これはもうしょうがない。またそういうパターンの場合、言葉を介す度に「わからない」が増えてしまいがち、というのも定番である。でもまあ、これはこれで面白い。むしろその人の世界を知りたいと、俄然、興味関心がわくということもある。…まあ、その逆もあるので難しいところだが。
 しかし、ここで気を付けたいのが、狙って「わからない人」になろうとする存在である。完全に偏見だが、彼らは「他(普通)と違う=変」に強い憧れをもつ。だから、些細なことでも「独自の角度」で「独自の視点」で物事を捉えようとする。綺麗な花を見ても、「綺麗」とは思えずに、無理して誰も気にしないような花の側にいる小虫やら、葉の裏やらにピントを合わせ、意外な感想を考えようとする。素直に「綺麗」でいいのに。同じ「綺麗」でも細かいところでは絶対に違うところがあるのに。形を綺麗と感じていたり、色を綺麗と感じていたり。「そんな無理しなくても俺たちみんなちょっとずつ違うんだぜ!ちょっとずつ変なんだぜ!自信もっていこうや!」と励ましたくなる。そんな作られた変ではなく、その人がもつ元々の「変」にこそ、その人の魅力があると私は思っている。だから私は、狙った「わからない人」の存在が鬱陶しくて苦手だ。
 さて、前書きが随分長くなったが、なんとなく今日からnoteを用いて思ったことや感じたこと、考えたことをまとめてみることにした。立派なアラサーになり、何かと考えることも増えたのでここらで自分という存在を見つめ直すのも悪くない。こんな駄文でも、自分の「変」に気づけるかもしれないし、文章力の向上にも繋がるかもしれないし。冒頭のバイト先の同僚が読んでくれたら、今更だけど、私が何を考えてるかわかってもらえるかもしれないし。
 週二回を目標に、いや週一回を目標に書いてみよう。

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