戦国時代と幕末維新 ― 動乱の時代には英雄が輩出するのか

・2010年、ネット上に公開した文章をを転載しました

戦国時代と幕末維新 ― 動乱の時代には英雄が輩出するのか
 
日本史上の動乱の時代といえば、戦国時代と幕末維新の時代がその代表だろう。日本の歴史の中では、この2つの時代が好きだという声をよく聞く。
また、この2つの時代には多くの有名人、あるいは英雄、英傑といわれている人物が輩出している。
というわけで、「動乱の時代には英雄が輩出するのか」というテーマについて考察してみたい。
 
まず、「動乱の時代には英雄が輩出する」という前提に立って、それはなぜなのかを考えてみたい。
  1つめの解釈としては、動乱の時代には神あるいは天のような人智をこえた存在によって英雄的な人物が生み出されるのだ、という考え方がある。 神や天が、混乱の世に苦しむ多くの民を救うため、英雄としての資質、能力をもった人物を世に送り出したとする思想。
逆に平和な時代には多くの民は平穏な暮らしを送っているので、英雄的な人物を生み出す必要がないとも考えられる。
もちろん、神のような超越者の存在を否定する近代的な立場からは、このような考えは非科学的、非合理的だとして批判されるだろう。
だが、近代以前の思想や物語には神や天が混乱の世に英雄あるいは救世主を送りだすという考えがみられるだろう。
また、現代においても小説や映画、漫画の中にこのような思想の痕跡がみいだされるだろう。
 
2つめの解釈として、神や天が英雄を生み出したのではなく、人が動乱の時代に生きる中で英雄的な能力を発揮したのだ、とする考え方がある。
危機的な状況に対処するために、潜在能力を発揮して英雄的な行為をしたのだという考え。
時代が人を英雄へとつくりかえたのだとする現実的、合理的な思想。
英雄といわれた人たちも、平和な時代に生まれていれば無名の平凡な人物として一生を終えていただろう。
逆に、平和な時代に生き無名のまま生涯を終えた多くの人たちも、生まれた時代が動乱の時代であったならば英雄、英傑として後世に名が残っていたかもしれない。
 
続いては、「動乱の時代に英雄が輩出されているわけではない」という前提に立って考えてみたい。
動乱の時代といわれる戦国時代、幕末維新の時代には多くの有名人が存在している。
だが、彼らは名前が後世に残っているだけで、英雄でも何でもないという解釈も成り立つ。
平和な時代というのは歴史に残る事件、出来事があまりおきないので、その時代に生きた人たちは多くが無名のまま生涯を終えてしまう。
一方、動乱の時代には歴史に残る多くの事件、出来事がおこるので、それらに関わった人たちの名前が後世に残される。
人は、有名人イコール英雄、英傑と思い込んで、歴史に名の残った人物を英雄扱いしているが、彼らはただ有名なだけで、資質的、能力的には平凡な人間にすぎなかったかもしれない。
 
最後に、以上の諸点を踏まえた上でまとめとしてみたい。
まず、「動乱の時代には多くの有名人が存在している」というのは間違いないだろう。
そして、それら有名人の中にはただ名前が後世に残っただけの人物もいれば、何らかの評価できる業績を残したことによって英雄、英傑と称えられている人物もいるだろう。
ただ、こうした評価には客観的な基準はないから、ある人物を英雄とみなすかただの有名人とみなすかは、人によって判断がことなるだろう。
多くの人によって肯定的に評価されている人物もいれば、毀誉褒貶のはげしい人物もいる。また、時代の移り変わりとともに評価が反転する人物もいるだろう。
また、英雄とみなされるだけの業績を残した人物の中には、危機的な状況に生きたからこそ潜在能力を発揮しえたのであって、平和な時代に生きていたら無名のまま平凡に生涯を終えた人もいただろう。
一方、平和な時代に生まれても、何らかの業績をあげて後世に名を残した人物もいただろう。
いずれにせよ、「動乱の時代とは、人が英雄的な資質、能力を発揮しやすい時代のことだ」とはいえるだろう。
 
なお、「神や天が英雄的な人物をこの世に生み出す」という考えに対してだが、これは神が実在するかどうかがわからない以上、肯定も否定もできないといった所である。
近代科学至上主義的な立場にたてば、オカルト的な解釈として批判される考えなのだろうが、近代科学的な認識や解釈のみが真理であるかはわからない。
「人智をこえた力によって歴史が動かされている」といった非科学的な考えを実感としてもっている人は多いのではないだろうか。
哲学上の「決定論」と「自由意志論」の問題が人間には答えのだせない問題であるように、この問題にも明確な答えはだせないだろう。

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