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劇団不労社『悪態Q』感想

幼稚園教諭のお遊戯の練習、サッカーの試合のハーフタイム、架空の生き物の家族、ネットスラングを話すマスコミと政治家。オムニバスで繰り広げられるシーンの連続は、全く別の作品を通して観ているような、それでいて通底する何かがある。

世界にはそれにあった文法と言い回し、つまり言葉がある。僕らも、家族との言葉、職場での言葉、友人との言葉、ネットでの言葉、フィクションでの言葉を使い分けるように、言葉は無数に存在し、故に世界も無数に存在する。目の前の世界、テレビの中の外国、ネットの中や宇宙。見たこともない世界を「ある」と僕らは思っているが、果たして本当に存在しているんだろうか。

僕らは世界の区別を無意識に行なっているわけだが、もしもその区別がなくなったら? フィクションと現実が地続きになり、見えている世界と見えていない世界の境目がなくなったら、人間はどうなるんだろう。
僕の答えは、人間と物との境界が無くなるだと思う。
見えている世界は感じたり匂ったりすることができる。見えていない世界は知覚できないが、見えている世界と繋がっている。その繋がりとは因果とか相関とかといった、いわゆる関係性であり、無数の世界は論理や意味といった目に見えない糸で繋がっている。この糸を認識と呼ぶこともできる。認識の糸は、人と人の区別や物と物の区別、そして人と物の区別にも使われているため、その糸を切れば人と物の区別もつかなくなるだろう。ボールが人になり、11人のチームが1人になったりするように。

恩田陸は『良い小説に出会った時、人はその向こうに自分が書くべきもうひとつの小説が見えてくる』という言葉をある作品内で書いている。その言葉どおり、舞台を見ながら、その向こう側に何か別の物語が見えてきそうだった。世界の見え方や意味や存在といった、普段無意識の部分をぶん殴られると、違った景色が見える気がする。これは映画でも小説でも漫画でも起こりうる現象だが、演劇はひときわこの衝撃が強い。

世界を縫い合わせていた糸がほどけ、その隙間から何かが悪態をついている。そんな姿が見えた気がした。

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