日常を文章にして読み歩く

私は外をふらついている時に何気なく自己を小説中の人物に見立て、その状況を脳内で文章に起こし続けていることがある。単にやることがないからやっている暇つぶしでもあるけれども、これが意外に面白い。

文章として意図的に切り抜く情景や感情を選ぶわけであるから、独り言の延長線上でも、街の実況中継の脳内再構成.verでもない。そして、自分もその脳内においては街を歩く1人の人間に過ぎないから、視点が固定化されているわけでもない。まぁ、自分と同じく街を歩く人はすぐさま脇を通り過ぎて行ってしまうわけだからそいつが主人公になることは無いわけだが、気分によって一人称視点のときもあれば、三人称客観視点もあるし、三人称一元視点のときもある。ともかく自分の気分ではあるが、それは街を歩く自分の脳内で起こっているのではなく、一つ上のメタ的存在において自分を含めた街を描写する書き手の気分である。

このことがどことなく痛快なのである。向かいを通り過ぎるカップルや当てもなく話しかけてくるキャッチ、自分の行手を阻む自家用車も全て自分の思うがままに表現できるのだ。かといって、アベンジャーズさながら車をぶっ飛ばしたりしたらそれはもう妄想であるから、現実に則さなければいけないけれども、ある程度憶測でものは語っても良いこととしている。例えば、キャッチの兄ちゃんは自分をどんな人間と思って自分に声をかけたのか、あそこで屯している3人組はこれから何をするか。

勿論、文章化するのはいつもの街であるから、小説のようなストーリーの起伏があるのは珍しく、構成された側から消えて行ってしまう儚いものではある。しかしながら、今までバラバラに動いていた街が自分の脳内で紐付けされ、一本の線になっていく、そしてそれは街を歩く度に異なったプロットを描くので、見慣れた街に再発見をもたらしてくれるものである。

ここまで、街をどう表現するかという事に注視してきたが、逆に考えれば、街の何を表現しないかという事をしてきたわけでもある。よく見る看板や雑踏の声といった本筋と関係のない街のバリと見做した部分は記憶のゴミ箱へと捨てるわけである。そして、私が街を文章へと変えて歩く理由はむしろこちら側にあるのかもしれない。私の特性として、情報に一つ一つを細かく見て取得しないと気がすまないたちがある。なので、情報量の多い街を歩くと、脳内でオーバーフローが発生し、疲れてしまうことが多々ある。しかしながら、街を文章化しながら脳内に取り入れる事で、いらない情報は自然に捨象され、街の気になる部分や自分を含む人の機微を効率的に感じ取れるようになるのだ。それは主観における一次的な感情や情報ではなく、文章という形式化された二次的出力物によって達成され得ると考えている。少なくとも自分にとっては。

この癖は別に街を歩いている時だけでなく、知らない土地に旅行した時や駅構内を歩いている時なんかにもやってたりしています。こいつ、傍から見たら歩きながらニチャついてるやべぇ奴だなと思ったそこの貴方、正解です。でも意外にやってる人は多いと思いますよ。少なくとも私はやっているわけですから、、、。


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