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ジャック・ハウエルという男

割引あり

1961年、アメリカ合衆国アリゾナ州で
生まれたハウエルは
アリゾナ大学を卒業した1983年、エンゼルスから
指名を受け入団すると
サードのレギュラーだった
ダグ・デシンセイの衰えもあり
1985年のメジャー昇格をきっかけに
2年後にはレギュラーを奪取、
バッティングのほうでも23本塁打を放ちました。

特に全米中継があった9月5日のヤンキース戦では
「折れたバットの行方を見てから
ボールに目を移したら
右中間スタンドに入っていたんだ、
あんな事もう絶対にできないね」
と語る、バットを折りながら
スタンドに叩き込んだ
パワー全開のブロークン・バット・ホーマー
として一躍有名になります。

しかし1990年から出場機会が減りはじめ、
翌年はパドレスへ移籍するも
結果を残せずに悩んでいたところ
関根監督時代の1988年にヤクルトに入団し
東京ドーム第1号ホームランを放った
ダグ・デシンセイがやってきました。

ドジャースタジアムでの試合前、
過去に三塁のポジション争いをした
元チームメイトは引退したのち、
代理人になっていた事もあり
「日本球界に興味はあるかい?
ヤクルトというチームを知っているかい?」と
日本行きを誘われます。

NPBについて何も知らなかった
ハウエルでしたが
その言葉をきっかけに日本について調べるようになると
デシンセイが仲介役となりヤクルト入りが
とんとん拍子に進んでいきました。

エンゼルス時代に一緒にプレーしていた
ジョニー・レイが
1年前にヤクルトに入団していた事も
後押しとなり
野村監督3年目の1992年、
身長183センチ、体重91キロの助っ人は
海を渡ってきます。

本職は三塁でしたが、マスコミが期待する
サード長嶋一茂を実現させるために3月6日、
日本ハムとのオープン戦では
ライトで起用されると矢のような返球で
タッチアップのランナーを本塁で刺したばかりか
打撃の方でも
ライトスタンドへ来日初アーチを
放り込む活躍に野村監督は
「10人の監督がいたら9人は
使いやすい選手と言うだろう」と絶賛し
開幕は本職のサードで起用されるも
前半戦は両足の故障も影響してか
パッとしない成績に終わりました。

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