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【R.J.レイノルズ】大リーグ屈指の本塁打王バリーボンズと東地区を制した俊足スイッチヒッターは11打席連続安打の大記録だけでなくこれがメジャーリーガーだというダンディズムも教えてくれたオシャレ助っ人


おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、R.J.レイノルズを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=1ETRRKzleMs&t=25s

1959年、アメリカ合衆国カリフォルニア州で生まれた
ロバート・ジェームズ・レイノルズは
サクラメント市立大学を卒業した1980年、
MLBドラフト2巡目でロサンゼルス・ドジャースから
指名を受け入団すると
3年後にはメジャー初昇格を果たします。

1985年のシーズン途中、
ピッツバーグ・パイレーツへの移籍を
キッカケに才能が開花、打率3割8厘、
移籍前の成績と合わせても
シーズン通して打率2割8分2厘と
レギュラーポジションを獲得する
好成績を上げました。

ちょうどこの年、MLBドラフト1巡目で入団してきた
期待の新星バリー・ボンズと
同僚となり、翌年から
パイレーツ外野陣の一角を形成、
高い守備力を有した俊足のスイッチヒッターとして
数年にわたり、レギュラーまたは
スーパーサブ的な役割を果たしていきます。

バリー・ボンズが打率3割、30本塁打、
50盗塁を達成しMVPを獲得した1990年、
ともにナ・リーグ東地区を制したレイノルズも
95試合に出場して打率2割8分8厘、
12盗塁と好調を維持していた事から
シーズンオフに開催された日米野球に
全米オールスターチームの一員として選抜されました。

この年、阪神タイガースからMLBに復帰して
本塁打王と打点王の二冠に輝いた
セシル・フィルダーや
剛腕ランディ・ジョンソン、
MVP男バリー・ボンズにグリフィー親子、
さらにアロマー兄弟など
超がつくスーパースター揃いのチームの
一員として来日し
12打数4安打を放ったメジャー通算109盗塁の
俊足外野手はすぐに
日本の首脳陣の目に留まります。

アメリカに比べて日本は指導者育成の場が
少な過ぎるという想いから、
メジャーの球団経営者を招いて勉強会を開催し
今回の日米野球にも大きく関わっていた
広岡達朗氏(ひろおかたつろうし)は
早稲田大学時代の後輩で横浜大洋ホエールズの
ヘッドコーチをしていた
江尻亮氏(えじりあきらし)にレイノルズ獲得を
提案しました。

すぐに横浜のスカウト牛込氏に相談したところ
須藤監督はマイヤーに代わる長距離砲を
望んでいるからと一度は難色を示しましたが、
レイノルズ自身が
フリーエージェント権を行使したものの
パイレーツと残留交渉がまとまらず、
手を挙げたカブスからの条件提示も
自身の希望とは開きがあり
頭を悩ませている事を知った横浜は
一転、獲得に動き出します。

カブスの金額を上回る
球団史上最高額の1億6900万円を提示すると
電撃入団が決まり身長183センチ、
体重82キロの現役バリバリの大リーガーは
海を渡ってきたのでした。

数か月前にスター軍団として来日していた
MLB選抜の一人がやってくるとあって
マスコミが大騒ぎする中、
31歳と脂が乗りきった
全身バネのようなアスリートは
ロバート・レイノルズの名で選手登録され
1月末に来日します。

到着するやいなや早速キャンプに参加、
守備練習でミスをすれば
自ら特守を志願したり
日本に積極的に馴染もうと箸を使って
うどんや天ぷらにも挑戦したばかりか
大切なのは順応しようとする適応力と
集中力なんだと
仲間と行きつけの寿司屋通いも経験しました。

すっかりチームに溶け込んだ
レイノルズはオープン戦が始まると
西武、潮崎投手のシンカーをとらえて
満塁ホームランをかっ飛ばし、
守備ではパイレーツ時代にチームメイトに
なったこともあるデストラーデを
ライトから矢のような送球で
二回連続で刺す強肩を披露します。

昨シーズン、7年ぶりのAクラスとなる
3位で終えた横浜のファンは
安打製造機パチョレックとの
新生クリーンアップを大いに期待し、
今年こそは31年ぶりの優勝かと
胸を躍らせて迎えた阪神との開幕戦、
3番ライトで先発出場すると
いきなり6打数4安打と鮮烈なデビューを
飾ったのでした。

4月29日の巨人戦では同点で迎えた9回裏、
木田投手からレフトオーバーのサヨナラヒットを
放ち、チームは18年ぶりの4月単独首位を
決めるなどシーズン序盤の立役者となります。

凄いのはその打撃だけに留まりません。
イチローよりもずっと前に日本人に見せてくれた
レーザービームという名の強肩は他球団の脅威となり
いくつのアウトに寄与したかを表し
優秀な外野手を数値化したレンジファクターでは
秋山、飯田、新庄、青木ら一流の外野手がその後に
名を連ねていく中、
1991年のセ・リーグ外野手部門で1位となりました。

さらにちょっとでも
スキを見せると次の塁を狙ってくる
走塁や、ゲッツー防ぎのスライディングなど
今まで見た事のない瞬時に魅せる
スピード感にハマっ子達は歓喜し
これが大リーグの速さなのかと
目を輝かせたのです。

そしてシーズンも後半戦に入ってきた8月、
今も燦然と輝く驚愕の大記録を達成しました。

8月1日の中日戦で左のエース今中投手から
レフト前ヒットを放ったのを皮切りに
6打席連続安打をマークすると
3日の対ヤクルト戦では2回に川崎投手から
左中間ツーベース、3回にはライト前ヒットを
放ち、球団記録だった8打席連続安打に
あっさり並び、6回に回ってきた
打席でもレフト前に打球を
運んでいとも簡単に球団記録を塗り替えます。

日本記録更新も射程圏内に捉え、
周囲が騒がしくなってきた試合終了後、
メディアに囲まれたレイノルズは
「最初から記録は知ってたよ、あと1つだけど
チームの勝利が第一さ。仮に打てなくても
その後でタイムリーが出れば、それで
いいんだよ」と気にする事もなく
冷静に答えたのでした。

そして迎えた翌8月4日、
本拠地、横浜スタジアムでの
ヤクルト戦の第一打席、
右のアンダースロー宮本投手から
レフト前ヒットを放って
10打数連続安打の日本記録に並ぶと
3回の第2打席では、なんとライトスタンドに
ホームランをかっ飛ばし、淡々とベースを一周。
持ち受けるパチョレックと派手な
ハイタッチを交わし
四死球を挟まない純粋な連続打席で
日本新記録を塗り替えたスイッチヒッターに
メジャーリーガーの凄みを見たのです。

アメリカ時代は右打席が評価され
左投手の時に出場していたのとは
対照的に、日本時代は右打席が弱点で
あったために左投手であっても左打席に
立つ場面が多く、実際に日本記録となった
11本もうち9本が左打席から放った
ものでした。

最終的にシーズン通して打率3割1分6厘、80打点に
チーム最多の15本塁打と好成績を残し
ベストナインに選出されただけでなく
どこでも守れる外野手としてゴールデングラブ賞
も獲得します。

しかしチームは借金2つ、チーム本塁打66本と
一発不足が露呈して5位に終わった事から
打率3割、最多勝利打点にも輝いていた
超優良助っ人パチョレックを解雇、
レイノルズ自身も日本の人工芝でヒザの怪我を
悪化させ、万全ではなかったために
危機感を抱きました。

迎えた1992年、他球団の徹底したマークに加え、
一発を欲しがる
打撃スタイルが裏目となって
ホームランは19本と増えたものの
打率を2割4分8厘と落とし自由契約となりますが
3番ブライアント、4番石井のあとを打つ
5番打者を探していた近鉄バファローズが
契約に乗り出します。

翌年、いてまえ打線の一角となった
レイノルズは打率2割9分8厘、18本塁打の
成績を残しましたが、
スイッチヒッターとしては右打席での
成績が芳しくなく再び自由契約となり
そのまま現役を引退、日本球界3年で
通算打率2割8分8厘、
52本塁打、196打点と
素晴らしい成績を球史に刻んで
静かにユニフォームを脱いだのでした。

そして何と言っても
R.J(あーるじぇい)のニックネームで
愛された男が成績以上に我々に教えて
くれたものは本物のメジャーリーガーが持つ
ダンディズム!

「服は金を出せば買えるが、靴は手入れが重要。
だから靴を見れば人格がわかるのさ」と
メジャー時代にMr.シューズと呼ばれたほど
無類の靴好きは
ロス郊外ダイアモンドバレーの自宅にある
170足の靴の中から
50足をチョイスして日本に持参、
同じスーツを二度着ているのを
見たことがないと言われたオシャレ番長は靴に合わせた
グリーンや茶の派手なスーツに
ポケットチーフを胸にさし、
左耳のダイヤのピアスをチラつかせて
球場入りするのです。

ロッカールームに入るとアメリカ時代は
靴磨きのスタッフがいたため、
一度も自分でスパイクを磨いた事は
なかったそうですが、日本のやり方に素直に従い
喜んで自らスパイクの手入れをし
ユニフォームに着替えると、
これがまた圧倒的にセクシーでした。

ズボンの丈を他の選手よりも長くし
くるぶしまで隠すメジャーで流行していた
最先端の着こなしに
パイレーツ時代の親友ボビー・ボニーヤが
最初に採り入れたという、
これまた珍しいハイカットのスパイクを着用して
グランドに現れると、
日本ではまだズボンの丈が短く
アンダーストッキングを出した
オールドスタイルのユニフォーム姿しか
見た事のなかったハマっ子は整えられた口ヒゲと長い足が
さらに長く見えるそのフォルムに完全にヤラれたのです。

翌年、横浜に入団してきたラリー・シーツも、
「ズボンの丈を彼のようにもっと長くできないか」と
頼んだと噂されるほど日本に初めてメジャーの
ニュースタイルを教えてくれた背番号23は
「見栄えだけじゃなくて、ケガの予防や走りやすいという
機能的な狙いもあるんだよ」とスマートに語り
球場の中でも外でもビシッとキマっていて
「これがメジャーリーガーなんだ」と思わせてくれました。

試合中に突然グラウンドに乱入したファンに
サインをねだられても慌てることなく
冷静に対応し、遠征先にユニフォームが
届いていなかった時には同僚の吉井理人に借りて
出場するユニークな一面を見せ、
プライベートでは趣味でドラムを叩き、
日本の新居に専用の練習部屋まで作ったほどの腕前で
引退後はプロの歌手だった妻、ヨランダ夫人のバックで
ドラムを叩きたいと夢を語るオシャレ助っ人、

その横浜退団と入れ替わるようにして入団してきたのは
新生横浜ベイスターズの最強助っ人ロバート・ローズ、
そして優勝した年にエースナンバーを背負った三浦監督から
手本となる選手と評されたタイラー・オースティンへと
続いていく横浜の背番号23は最強助っ人の証として
その系譜の上流に位置するハマのダンディズム、
ロバート・ジェームズ・レイノルズ。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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