
【黒田博樹】日本球界のエースはアメリカ西海岸の名門チームでもエースに君臨すると若手有望株の左腕と固い絆で結ばれ共に成長 移籍や帰国を止められるほどチームメイトからも愛された男気全開のサムライ
おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、
黒田博樹(くろだひろき)さんを取り上げていきます。
https://www.youtube.com/watch?v=10gmQN-W7FM
1975年、大阪府に生まれた黒田は、
南海ホークス6番センターとして
リーグ優勝3連覇に貢献した
父親が監督を務めるボーイズリーグに所属して
野球を始めると、高校時代は3番手の
控え投手に甘んじていましたが、
専修大学のセレクションに合格して進学します。
1996年、スピードガン表示が始まった
神宮球場において、150キロを計測するなど
1学年上の小林幹英と2本柱を形成、
3年時にはエースとして
東都大学1部リーグ昇格に貢献しました。
気持ちのこもった投球を目にしていた
広島カープは早くから、このダイヤの原石に
接触、黒田自身も自分の可能性を見出してくれた
広島に恩義を感じて1996年、
ドラフト会議でカープを逆指名したのです。
「指名の挨拶時に持参した契約書の金額が
間違っていたにも関わらず、気にせずに
その場でサインしてくれた。金より
ハートを大事にする男を獲得出来たと思って
嬉しかったね」とスカウトは語りました。
4月25日のジャイアンツ戦、初登板初先発を
完投で飾ると、
そのまま先発ローテーション入りを果たして
徐々にエースへ成長、
2001年には12勝をマークして
チームの勝ち頭となります。
2005年にはセ・リーグ最多勝、
2006年は最優秀防御率を獲得するなど
球界を代表する投手となった黒田を
中日の落合監督は
「今日の黒田は俺が現役の時でも打てない」と
絶賛するほどでしたが、この年のオフに
FA移籍が取りだたされました。
エース流出を阻止すべく広島ファンは
「我々は共に闘って来た、今までもこれからも。
未来へ輝くその日まで、君が涙を流すなら
君の涙になってやる」と記した巨大フラッグを
掲げると、その声に心を動かされた黒田は、
国内なら生涯広島を宣言して
メジャー移籍も可能な4年12億円の条件で
残留を決めたのです。
広島に残った2007年も5年連続の開幕投手を
務めあげ、球界のエースと呼ばれるまでに
成長した黒田でしたが、チームはBクラスから
抜け出せない現状に
「このままでは成長できない。
挑戦こそが己を高めるんだ」と
メジャー移籍を決意、球団オーナーに相談すると
「背番号15は空けておく、いつでも帰ってこい。
アメリカで欲しいものがあったら
すぐに送ってやるから。
お好み焼きのソースでもいいぞ」と
背中を押されました。
その恩に報いるために「必ず帰る」と
約束してメジャー挑戦を表明すると
以前から黒田に目を付けていた
ロサンゼルス・ドジャースが
3年総額3530万ドルを提示、
身長185センチ、体重86キロのサムライは
海を渡ったのです。
当初、ドジャースの提示は4年契約でしたが
「いつも、その試合で選手生命が終わっても
いい覚悟と決意を持ってマウンドに上がっている。
だから長い契約は何のモチベーションにも
ならない」と自ら契約期間を短くした黒田は
開幕直後にマイナーから昇格してきた超有望株
クレイトン・カーショウと練習パートナーを
組むようになりました。
日々の入念な体の手入れや、対戦相手の
攻め方をチャートに書き、頭に叩き込む
姿勢に感銘を受けていたハニカット投手コーチが
10年に一度の才能と評価していたカーショウに
「黒田と行動を共にしろ」と指示していたのです。
練習パートナーとなった10歳以上離れた2人は
国籍や生活習慣も違いましたが、
投球について話し合い、食事も共にするように
なると、固い絆で結ばれていきました。
3年間でチームの信頼を勝ち取った黒田は
1年1200万ドルでドジャースと再契約、
2011年シーズンも200イニング超えに2年連続の
2桁勝利を挙げるなど活躍していたところ
ニューヨーク・ヤンキースから声がかかった
シーズン終盤9月26日のミーティングで
ヤンキース行きか広島復帰の噂があった
右腕に対して、カーショウが
「来年も一緒にやりたい」と懇願、
他のチームメイトからも次々と残留希望の声が
届くと、クラブハウスに戻った黒田は
ロッカーの前で涙したそうです。
心が傾くもヤンキース入りを決断し
ドジャース最後の登板となった試合前、
この年233イニングを投げて
肩の使用を禁じられていたカーショウは
キャッチボールの相手をして
コーチに注意を受けると
「ヒロが先発するんだ、僕が受けるのは
当然だろう?」
と意に介しませんでした。
ヤンキースに移った黒田は
練習中に選手が好きな言葉をそれぞれ
紹介する事になった際、西郷隆盛が詠んだ漢詩、
耐雪梅花麗(ゆきにたえてばいかうるわし)
梅の花は雪に耐える事で綺麗な花が咲く、
を紹介すると、
感銘を受けたヤンキースナインの間で
この言葉が浸透、
一節が書かれたトレーニングシャツを
クライボーン投手やセルベリ捕手が着用したり
ジラルディ監督は梅の花の写真を探して
パソコンのデスクトップにしていたそうです。
すぐにチームに受け入れられた黒田は
7月に野茂、大家(おおか)に次いで
日本人史上3人目となるメジャー通算50勝を達成、
最終的にプロ入り後キャリアハイとなる
16勝にヤンキース先発陣トップの防御率3.32で
チームの地区優勝に貢献しました。
契約を更新した2013年7月31日のドジャース戦では
カーショウとの対戦が実現、
黒田が7回5安打無失点に
カーショウが8回5安打無失点とそれぞれ好投し
「カーショウが相手なら0点に抑え続ける
しかないと思ってました」と語ると
カーショウも「彼はアメリカン・リーグで
最も良い投手だから点が取れないのは
仕方がないよ」と称え合ったのです。
さらに1年契約を更新した2014年は
開幕から先発ローテーションを守る
唯一の投手となり、39歳で199イニングを
投げる鉄人ぶりを発揮、
日本人では野茂以来の5年連続規定投球回に
到達しました。
シーズン終了後、土砂災害で多大な被害にあった
広島市北部をプライベートで訪問し、
黙々と土砂を運んでいた黒田に対して
メジャー市場は来季に向けて争奪戦を展開、
パドレスの年俸21億円を筆頭にレンジャースや
古巣ドジャースも興味を示したほか、
ヤンキースは年俸15億円程度の複数年契約で
残留のオファーを出したのです。
その去就が注目される中、
「自分が戦力になるうちにファンとの約束を
果たしたいし、野球人生最後の1球が
カープのユニフォームなら後悔が無い」と年俸4億円で
広島と契約、日本に戻る事を決断すると
年俸イコール選手の評価という価値観が強い
アメリカでは驚きをもって報じられました。
「本人からサイン済みの契約書がFAXで送られてきた時は
身体の震えが止まらなかった」と広島カープの担当者が
口にするほど、その衝撃は計り知れないものでしたが
8年ぶりに日本球界に復帰した2015年シーズン、
11勝8敗、防御率2.55の好成績を残すと翌2016年は
25年ぶり7度目のリーグ優勝に貢献、有終の美を飾って
現役引退を表明したのです。
アメリカのYESネットワークは
「ヤンキースで最も頑丈な投手だった」と称え、
黒田に心酔していたカーショウは
「ヒロに多くの事を教えて貰ったし
今でも心はつながっているよ。
ヒロがいなかったら今のボクはないんだ。
出会えて本当に幸運だったし
最高のヒーローさ」
と感謝のメッセージを添えたグラブを贈りました。
スリークォーターから最速157キロの速球と
多彩な変化球を投げ分ける本格派右腕は
打者をのけ反らせるフロントドアやバックドアを
駆使して力感あふれる投球スタイルを披露、
特にスライダーとフォークはメジャーでも
高い評価を獲得し、
現役最高のスプリッターと評されたのです。
またミスター完投と呼ばれたタフさから
日本人投手では史上初めて日米の先発勝利数のみで
200勝を超えたばかりか
大卒でプロ入りした選手としても初めての快挙でした。
チームメイトだったロドリゲスは
「若い投手に彼を手本にしなさい」と伝え、
ともに先発ローテーションを支えたサバシアは
「調子が良くない時でも好結果を残す
最高のプロフェッショナルさ。
素晴らしい能力はもちろんだが
それよりも誉められるべきは彼の人間性だよ。
あれだけの実績を残しているのに
気取ったところが全くなく常に謙虚で冷静な
ジェントルマンなんだ。
地位や名声を得てスーパースターになると
高慢になってしまう者も大勢いる。
もしヒロと出会わなければ、
俺もその1人にカウントされたままだったかも
しれないな」とコメントしています。
黒田をリアル・マン、正真正銘の男であり、
サムライだと評していたブライアン・キャッシュマンGMは
「こちらが複数年契約を提示しても、
1年1年勝負したいと、あえて単年契約を
希望し続けたんだ。そんなプレーヤーいないよ」
と口にしました。
西のドジャース、東のヤンキースという名門球団に籍を置き、
ナショナルリーグだろうがアメリカンリーグだろうが
関係なく安定した成績を残した右腕をアメリカのメディアは
「2つのリーグ、違う言い方をすれば3つの時代や
環境で成功した並外れた先発投手は
カネよりも大切なものは何か。それを知っている男だった」と
評したのです。
年俸21億円を捨て、広島に戻る決断をした球界きっての
B’zファン黒田に対して、同バンドのギタリスト松本氏は
「楽はしない、偉ぶらない、誰のせいにもしない」
という歌詞の一節ともに「RED」という曲を送りました。
両親をガンで亡くした事から癌の研究や啓発活動に
多額の寄付を行い、年俸1億9500万円を提示された際には
資金面で困窮していた広島球団を気遣って
「自分で500万円出すので会見でチームの顔として
2億円の大台に乗ったと言わせてください」と詰め寄るなど
男気全開のタフな右腕は
親交のあったメジャーリーガー長谷川氏の言葉を借りれば
「真面目で律儀で、不器用なええヤツ」黒田博樹
https://www.youtube.com/watch?v=j6hnfOWmmks
いかがでしたでしょうか?
これからも海を渡り、世界で戦った
偉大なサムライたちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました
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