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【クリート・ボイヤー】名門ヤンキースでシングルナンバーを背負い史上最高の三塁手と謳われた大リーガーは日本で評判通りの守備を見せると引退後は日米で多くの名選手を育て上げて先生と呼ばれた助っ人

割引あり

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、クリート・ボイヤーを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=hYYsoOzZn5Y

1937年、アメリカ合衆国ミズーリ州で
フランス人の父親とドイツ人の母親の間に
生まれた本名クリーティス・リロイ・ボイヤーは
男6人、女7人の13人兄弟の四男として
電気も下水道もない貧しい家庭で育ちました。

父親のヴァーンが大の野球好きだった事もあり
地元の野球チームに入って
毎日欠かさず練習を繰り返すと
一時はレギュラーに5人のボイヤーがいたほど
男兄弟6人全員がプロ野球選手となり
そのうち、3人はメジャーまで昇格したのです。

長男のクロイドはヤンキースで26勝をあげ
次男のケンは2000安打を達成した
一流選手の血筋そのままに
四男のクリート・ボイヤーも
アルパミズーリ高等学校を卒業した
1955年、ジャッキー・ロビンソンや
ミッキー・マントルを見出だした
伝説のスカウトマン、グリーンウェイドに
見出されるとアスレチックスに入団しました。

とてつもない才能を有していた18歳の
若者は、5日前に高校を卒業したばかりの
6月5日、レッドソックス戦に代走として
出場、マイナーリーグを経験せずに
メジャーデビューを果たすと1957年、
名門ニューヨーク・ヤンキースに移籍します。

するとその才能に気付いた
MLB史上最高のスイッチヒッター、
ミッキーマントルから
「君は3番ベーブルース、4番ルーゲーリック、
5番ジョーディマジオらと肩を並べる
シングルナンバーを背負うべきだ」と
助言を受けて背番号6に決まりました。

1年間マイナーリーグで過ごしたのち
メジャーに昇格すると
5年連続ワールドシリーズ出場という
最強軍団のレギュラーサードとして5つの
ワールドリングを手に入れたのです。

特に1961年の頂上決戦では再三にわたって
試合の流れを変えるファインプレーを連発したほか
1964年は対戦相手のカージナルスで
同じくサードを守っていた兄とともに
史上初のシリーズ兄弟本塁打も達成、
ファンを狂喜させました。

「1年目は自分の分、2年目は女房の分、
その次は子供の分と指輪もらってあげられるのが
ヤンキースの凄いところだね」と語っていましたが
アトランタ・ブレーブスに移籍すると
ハンク・アーロンから
「メジャーでNo.1のサード」と評された
掃除機と呼ばれる守備で
ゴールドグラブ賞を獲得したのです。

しかし1971年、起用法や年俸をめぐって
フロントと対立、
「ブレーブスには満足なコーチが一人もいない」と
発言した事からトラブルメーカーと見られた
ボイヤーは自由契約になると
1396安打放った巧打者にライバルチームから
オファーが殺到したものの
ブレーブスのフロントは圧力をかけて
他チームとの契約を阻止、MLBから締め出しました。

行くあても無く、
独立リーグのハワイ・アイランダースと
3カ月契約で入団し、
ジョン・シピンやジーン・マーチンらと
一緒にプレーしていたボイヤーに対して
大洋ホエールズのスカウト牛込氏が声をかけると
「俺は力が落ちてハワイに来たわけではない。
まだやれる事をアメリカの連中に
見せてやりたいんだ。金は二の次」と
メジャー時代の年俸2100万円から
半分以下の900万円に下がったものの、
身長182センチ、体重83キロの助っ人は
海を渡って来たのです。

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