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【ジーン・バッキー】結婚式の2日後に解雇され 野球が出来るならとハワイから日本にやって来た右腕は木造アパートからサンドイッチ弁当を抱えて甲子園のマウンドに立つと外国人初の沢村賞に輝いた虎の優良助っ人

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回はジーン・バッキーを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=KhTXfKMRlB4

1937年、アメリカ合衆国ルイジアナ州で
フランス系移民の家庭に生まれた
バッキーは、
サウスウエスタン・ルイジアナ大学を
卒業したのち、エンゼルス傘下の
3Aハワイ・アイランダーズで
プレーしていましたが、1962年、
結婚式をあげた2日後に解雇されました。

エンゼルスの傘下とはいえ、当時はまだ
アマチュアチームだったハワイの
マイナー球団には多くの日系人が在籍しており
行き場を失った右腕(うわん)は、
チームメイトからハワイ朝日軍の代表、
エンゼル・マエハラ氏を紹介されたのです。

映画「バンクーバーの朝日」に
描かれたようにアメリカやカナダに
存在していた日系人による
アマチュアチームで投げる事になった
バッキーでしたが、バッテリーを組んだ
藤重登(ふじしげのぼる)が
前年まで阪神タイガースに在籍していた事から
紹介状を書いてもらうと、1962年、
藤本監督が見守る中で入団テストを受けました。

球速は平均点、コントロールはアバウトでしたが
長い腕をしならせながら、スリークォーター気味に
投げ込んでくるクセ球は出所が見づらく、
シュートやナックルも投げられた事から
「リリーフなら使えそうだ」と合格を
勝ち取ると
身長191センチ、体重91キロの助っ人は契約金無し、
月給9万円で海を渡ってきたのです。

正式な発音「バッケェ」では化け物のようだからと
バッキーで登録された背番号4は
「大好きな野球を続けたいから
迷わず日本行きを決めたよ。新婚だったし
ハネムーンみたいなものさ」
と、夫人とともに西宮市内にある家賃1万3000円の
木造アパートで日本生活をスタートさせると
サンドイッチ弁当を抱えて甲子園まで自転車通勤し、
通訳もいない環境下で必死に日本語を覚えては
チームに溶け込んでいきました。

「最初は言葉に苦労したけど銭湯に行ったり
焼き肉、ギョウザ、しゃぶしゃぶに
チャレンジしたり楽しんでいるうちにすぐ馴染めたよ」と
遠征先では浴衣に身を包み
旅館でナインと雑魚寝するほど
順応した探求心の強い投手は
1年目こそ、0勝3敗に終わりましたが
翌1963年は8勝をマークしてチームの
力となったのです。

針の穴を通すと言われたエース、
小山正明(こやままさあき)の
投球を食い入るように見つめて研究し
「これだけコントロールのいい
ピッチャーはアメリカにもいない」と
フォームやボールの握り方、
リリースのタイミングなど様々な技術を
教えてもらうと制球力が格段にアップしました。

コントロールを身につけて
飛躍の年となった1964年、29勝9敗、
防御率1.89で最多勝利と最優秀防御率に輝き、
外国人選手として初めて沢村賞も受賞した
助っ人は、村山実とともに二枚看板の
エースとして2年ぶりのリーグ優勝に貢献、
「ダブルヘッダーで先発勝利したあと、
2試合目にもリリーフ登板して勝ったんだ。
1日で2勝したんだよ」と、354イニングを
投げ抜くほどタフな投手だったのです。

4年目となる1965年も
ジャイアンツ戦でノーヒットノーランを
達成するなど18勝14敗と変わらぬ活躍を見せると
その後は5年連続で2桁勝利と安定した成績を
残しましたが、1968年9月18日、
その後の選手生命に重大な影響を
及ぼす事件が起きました。

甲子園球場でのジャイアンツ戦、3番、
王に対して2球続けて
ブラッシュボールを投げると両軍ベンチから
選手が飛び出して来て大乱闘に発展し
荒川コーチを殴った際に右手親指を
骨折した事から残りシーズンを
棒に振ると、警察から事情聴取を受けるほど
大事件に発展した怪我の影響で
10月29日に退団したのです。

骨折も完治した翌1969年は
近鉄バファローズで再起を誓いましたが
好投するも勝てない不運も重なり7連敗を喫すると、
8月に椎間板ヘルニアの手術を行った事から
シーズン通して0勝7敗で終戦、
ジョー・スタンカと並んでいた通算100勝から
抜け出す事は出来ないまま
11月25日に現役引退となりました。

マイナーリーグ時代からシーズンオフには
大学に通って教育学を学んでいた真面目な
助っ人は引退後、
故郷ルイジアナ州ラファイエットに戻ると
学校の教師に転身、15年間つとめあげたのです。

「阪神タイガースで稼いだお金で
牧場も経営しているよ、吉田さんや小山さん、
ほんと皆に会いたいね。
王さんも荒川さんも今では友達だよ」と語り
日本プロ野球外国人OB選手会の
名誉会長に就任するなど
助っ人たちのリーダー的存在でもありました。

2011年、最愛の妻を腎臓の病気でなくしてからは
牧場を息子に任せて隠居生活に入ると、
「2012年頃からランディ・メッセンジャーと
連絡を取り合っているよ。
彼が40勝した頃、オレの100勝を抜いてくれって
SNSでメッセージを送ったんだ。
そうしたら2軍の寮に飾ってある歴代選手の中に
私の写真もあったって返信をくれてね。
彼にも是非、沢村賞を獲得してほしいよ」と
新旧助っ人の不思議な縁を感じていた2014年、
日本時代に受けた椎間板ヘルニアの手術箇所が痛み出し、
長い距離の歩行が難しくなったのです。

さらに高血圧にも悩まされ始めていた2019年9月、
胃の不調で手術を受けましたが合併症を併発し
5人の子供に孫6人、曾孫2人など多くの親族に
囲まれながらルイジアナ州の病院で静かに息を引き取りました、
82歳の生涯でした。

引退した直後に訃報を受けたメッセンジャーは葬儀に
花を贈呈、
バッキーの長女から「もし父が生きていれば、彼の引退を
どれほど悲しんだでしょう。阪神で自身の記録を破ってくれる事を
本当に楽しみにしていましたから」とメッセージが寄せられると
ソフトバンクの王球団会長は
「ジャイアンツの前に立ちはだかった阪神の強力な
エース。コントロールもよく変化球も多彩で
打ちにくい投手でした」と語っています。

威圧するような剛速球やキレキレの変化球も
ありませんでしたが長身から伸びた長い腕を
蛸のようにくねらせながら、上から横からと
変幻自在に投法を変え、
シュートやスライダーで打者の胸元を突くと、
決め球ナックルボールで対戦相手を手玉に取りました。

普段は陽気で真面目な性格でしたが、
ひとたびマウンドに上がると豹変し
「日本ではエラーしても三振しても
何もなかったようにベンチに戻って来るけど
私には理解できないね」と
闘志むき出しで打者に向かっていき、
打たれた時にはグラブを叩きつけて怒りを爆発させたほか、
巨人戦ではいつも以上に勝利への執念を燃やしていて
絶対に打たせたくないからと
マウンドのプレートを土で隠して
前から投げた事もあったそうです。

年俸100万円にも届かないテスト生が
独特の投法で最多勝と沢村賞に輝き、
バッキースマイルと呼ばれた親しみやすい笑顔で
誰彼となく抱きついては、口癖だった日本語
「しかたないね」と両手を広げて笑っていた
ジャパニーズドリームの体現者、ジーン・バッキー。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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