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ロビンソン・チェコという男

割引あり

1971年、ドミニカ共和国サンティアゴ州で
9人兄弟の6番目として生まれたチェコは
15歳で野球を始めると、すぐに頭角を現して
高校を卒業した1989年、
カリフォルニア・エンゼルスの
アカデミー入りを果たしましたが
2年で解雇となりました。

ちょうどその頃、成功するかしないか
未知数の外国人選手を
高い年俸で獲得するよりも自前で日本向きの
選手を育てた方がいいと考えた広島は
野球熱が高く、多くのメジャーリーガーを
輩出しているドミニカ共和国に広大な土地を購入、
総工費6億円をかけて球場や宿舎を
備えた選手育成アカデミーを作ったのです。

中南米の中でも比較的治安がいいとされた
ドミニカの首都サント・ドミンゴ市から
車で1時間ほど走った
サンペドロ・デ・マコリスの町に
広島市民球場の10倍にあたる
4面のグラウンドと屋内練習場を有した
カープアカデミーには
後にMLBで4度のシルバースラッガー賞
に輝くアルフォンソ・ソリアーノら
明日のスターを夢見るダイヤの原石が
多く集まってきました。

当時、ドミニカには既にMLB各球団のアカデミーが
26個あり、ドジャースなど成果を挙げている
チームもありましたが、契約を結んでも、
活躍できなければすぐに解雇される現実に
唯一日本行きを目的としたカープアカデミーは
ラストチャンスにかけるドミニカンの
受け皿的な役割も担ったのです。

類に漏れず一度挫折を味わった右腕は
60ヤードを6.5秒で走れた選手だけが
練習を見せる機会を与えられ、
素質ありと判断されれば合格となる
単純なテストをクリアすると
カープアカデミーに入校しました。

広島は5年計画を明言して焦らず育てようという
方針を掲げていましたが
最盛期には40人いたという
ポテンシャルの高いドミニカンが成長するのに
時間はかからず
1992年の春季キャンプで140キロ台後半の速球を
軸にシート打撃や紅白戦で好投したチェコは
すぐに契約第1号選手となったのです。

背番号は三桁の106に決まり、年俸は最低保証の
480万円で契約した身長185センチ、
体重83キロの助っ人は
「日本野球の知識は全く無いけど
広島のユニフォームは
ドミニカの英雄ホセ・リーホがいるレッズに
似ていて好きです。
ただ鯉は釣るとすぐ死んじゃうのに
何でチーム名にしたんですかね。
まあ、とにかく日本で早く金を稼いで家族に家を
建てたいです」とハングリー精神むき出しで
海を渡ってきたのでした。

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