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【マット・キーオ】子供の頃に日本で生活していた右腕はアスレチックス5人のエースの1人として輝くと運命に導かれるように来日 暗黒時代の阪神タイガースで孤軍奮闘の活躍を見せて虎ファンから愛された助っ人

割引あり

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、マット・キーオを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=V5oaGFuR1IM

1955年、アメリカ合衆国カリフォルニア州に生まれた
本名マシュー・ロン・キーオは、
ボストン・レッドソックスや
シンシナティ・レッズでプレーしていた
父、リチャード・マーティン・キーオの影響で
野球を始めると、1968年には
南海ホークスの助っ人として来日した父とともに
日本の地を踏みました。

帰国後はカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校に
進学しましたが中退した1973年、
内野手としてMLBドラフト7巡目で
オークランド・アスレチックスから
指名されると、1975年に1Aで123試合に出場し
打率3割3厘、13本塁打、
81打点の成績を残したのです。

しかし翌1976年は2Aで2割程度の打率に
終わった事から
本格的に投手転向を決意、
フリーエージェント制度導入を契機に
レジー・ジャクソンらチームのスターが
軒並み移籍した影響で
戦力が低下していた状況下で
頭ひとつ抜け出すと、1977年の
メジャー昇格を皮切りに
翌年にはアスレチックスから唯一人、
オールスター出場を成し遂げました。

防御率3.24と好投しながらも打線の援護がなく
8勝15敗に終わった右腕は
翌1979年も開幕から14連敗を喫すると
前年から続く
28先発連続勝利なしというMLB記録を
作ったのです。

打てないチームの中で、もがき苦しんでいた
右腕でしたが、1980年、3球団を地区優勝に導いた
闘将ビリー・マーティンが新監督に
就任すると風向きが変わり始めました。

「ブルペンなんか見ても誰もいないからな、
右だろうが左だろうが、今投げている奴より
良いピッチャーはいないんだ」と
完投哲学を持つマーティンのもと、
キーオを含めて全員が20代だった
アスレチックスの先発投手5人は
投げて投げて投げまくったのです。

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