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【アレッサンドロ・マエストリ】それほど野球が盛んではない国イタリアからやって来たハンサムな右腕は最低年棒以下の境遇もお構いなしに大好きな野球に取り組み日本プロ野球史上初の選手となった助っ人

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、アレッサンドロ・マエストリを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=QZzRdoDnouQ

1985年、イタリアは北部の街
チェゼーナで生まれたマエストリは
アドリア海に面したリミニで
幼少期を過ごすと
5歳までサッカーを楽しんでいましたが
6歳の時、インテルの大ファンだった
兄とともに学校で開催された野球教室に
参加した事が人生の転機となりました。

その魅力に取り憑かれた
少年はA.(ア)セルピエリ科学高校で
野球に打ち込むと2004年、
19歳で生物学を学ぶために通っていた
大学をやめ、イタリアの中にある
世界最古の共和国サンマリノで
プロ野球選手としてのキャリアをスタート
させたのです。

ユースチームで実績をあげ
トップチームに昇格したものの手にする報酬は
月300ユーロ程度だった2006年3月、
第1回ワールド・ベースボール・クラシックの
イタリア代表に選出されると
クローザーとして150キロを超える
速球を見せた事から
メジャーのスカウトから声がかかりました。

「テレビやベースボールカードで見た顔が
並んでいてすごく興奮したよ。
ビデオゲームをしているようだったね」と
語った右腕はシカゴ・カブス傘下の
1Aボイジー・ホークスに入団、
アレックス・マエストリと名乗ったのです。

2008年は先発投手として
デイトナ・カブスで5勝3敗、
防御率3.69の成績を残すと
フロリダ・ステートリーグの
オールスター戦に出場、
純粋なイタリア生まれ、イタリア育ちの
イタリア人として史上初めて2Aに昇格しました。

2009年、WBCイタリア代表に
選出され、のちにオリックスで
チームメイトになるヴィニー・ロッティーノと
バッテリーを組むなど母国を代表して
戦いましたが2011年のシーズン直前に
チームを解雇された事から
イタリア人初のメジャーリーガーの座は
シアトル・マリナーズ三塁手、
アレックス・リディに譲ったのです。

独立リーグのアメリカン・アソシエーション、
リンカーン・ソルトドッグスに
闘いの場を移した右腕は
先発投手として8勝を挙げると
イタリア人選手として初めて
オーストラリアのウィンターリーグでマウンドに立ち、
ブリスベン・バンディッツの先発投手として
4勝4敗、防御率3.25という成績を残しました。

報酬は月1200ドル、移動費はすべて自腹という
待遇に
「MLB傘下のマイナーリーガーは
ギャラなしでプレーしていたから
報酬が出ただけラッキーだよ」と語っていた矢先、
運命の歯車が動き出したのです。

2012年、母国イタリアで発足していた
プロリーグやアメリカの独立リーグから
オファーがありましたがウインターリーグの関係者から
日本の独立リーグ、香川オリーブガイナーズを
勧められると
「新しい経験がしたい」と身長180センチ、
体重79キロの助っ人は海を渡ってきたのでした。

150キロの速球と大きく曲がるスライダーで
クローザーを任されると
2勝0敗12セーブ、防御率1.32の成績を
残した事からオリックス・バファローズが
調査を開始、
2軍との交流戦でマエストリの先発登板を
香川オリーブガイナーズに要求して
テストした結果、十分な戦力になると判断した
オリックスは2012年7月4日、史上初めて
イタリア生まれ、イタリア育ちの
プロ野球選手誕生を発表したのです。

7月から今季終了までの契約により
1軍の最低保証を下回る年俸220万円で
移籍してきた助っ人は
ウエスタン・リーグで5試合に登板、
14イニングで自責点2と好投した事から
8月12日、千葉ロッテマリーンズ戦の
先発投手として1軍デビューを果たしました。

イタリア代表として台湾遠征時に
購入した5000円の練習用グラブには
漢字で「一生懸命」の刺繍が施され、
スタンドにはイタリア語で頑張れを
意味するForza(フォルツァ)と
書かれたボードが躍る中、マウンドに立った
背番号91は
最速148キロの直球と
チェンジアップやスライダーなど
多彩な変化球を武器に快投を演じます。

4回は3番井口を144キロの直球で三振に
仕留めると、4番ホワイトセルには
146キロの直球で連続三振を奪うなど
6回1/3を投げて4安打1失点にまとめた
助っ人は、球史に新たな1ページを刻んだ
お立ち台でイタリアの国旗を掲げました。

「こんな形でデビュー戦を飾ることが
できるなんて本当に嬉しいよ。
香川でもいい環境で野球をやらせてもらっていたが
ここは施設も待遇もすべてが違う。本当に驚いたね」
と観戦に来ていた兄フランチェスコさんに
白星をプレゼントしたのです。

エース金子に西を欠いた手薄な投手陣の中で
岡田オリックスの救世主となった右腕に
指揮官も「フォアボールで崩れる事が無いね」と評価、
最終的に8試合の先発で、4勝3敗、防御率2.17という
好成績を残すと、契約を更新した
2013年は開幕前に3大会連続3度目のWBCに
イタリア代表として出場しました。

シーズンの方ではロングリリーフでの起用が
増えて7勝を挙げると翌2014年は
36試合の登板で、3勝1敗1ホールド、防御率1.97を記録、
チームの優勝争いを支えた助っ人は
シチリアスライダーなるドリンクを監修し
売れ行きも好評だったのです。

オリックス最終年となった2015年も28試合の登板で
防御率3.19、1セーブ、1ホールドを記録しましたが
入団後初めて未勝利に終わった助っ人はこの年限りで
退団すると2016年、群馬ダイヤモンドペガサスに入団、
チームの優勝に貢献しました。

その後はメキシコやイタリア、
オーストラリアのプロリーグを
転々としながら2021年5月、
36歳になるシーズンを前にして引退を
発表したマエストリは
日本時代に神戸市で知り合ったアルゼンチン出身の
妻とともに
故郷でスポーツショップを開業、
イタリアでは手に入りにくい
野球道具を販売するなど経営者として
第二の人生を送っています。

強いインステップからスリークオーター気味に
投げ込んでくる最速153キロのストレートに加えて
決め球としていた縦のスライダーはもちろん
チェンジアップやフォークといった多彩な変化球を
操ったイタリア人は、英語やスペイン語も堪能で
空いた時間に勉強していた日本語も話しました。

4年間で96試合に登板し、14勝11敗、防御率3.44の
成績を残したハンサムなナイスガイは
「私の野球キャリアは旅そのもの。アメリカや日本、
韓国やメキシコにオーストラリアなど、
様々な文化を知ることができたし
素晴らしい人々に出会えた、本当に幸せな
野球人生だったよ、先のゴールや目標というのは
あえて立てないようにしているから
一日一日、一歩一歩、少しずつ前へ進んでいきたいね」
と語っています。

NHKの番組「テレビでイタリア語」にも登場した
生粋のイタリア人は野球不毛の地と言われた
ヨーロッパから世界を転戦し
ジャパニーズ・ドリームを掴むべく日本にやって来ると
NPB史上初の選手となったカルチョの国で生まれた剛腕
アレッサンドロ・マエストリ

いかがでしたでしょうか?
これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました

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