見出し画像

【ケビン・ホッジス】パッとしなかったメジャーの中継ぎ投手はシーズン途中で来日すると強力なリリーフ陣に助けられて最多勝を獲得し一躍リーブトップの先発投手に躍り出たシンデレラストーリー型の助っ人

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回はケビン・ホッジスを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=hfovvDBUwWw

1973年、アメリカ合衆国テキサス州に
生まれたホッジスはクレインオーク高等学校を
卒業した1991年、
カンザスシティ・ロイヤルズから
ドラフト8巡目で指名を受けると
マイナーリーグで6年間プレーしましたが
メジャー登板がないまま
ヒューストン・アストロズを経て
シアトル・マリナーズに移籍しました。

2000年シーズン、中継ぎとして13試合に
登板するなど、ようやくメジャーの
マウンドを踏んだ右腕でしたが
思うような成績は残せずに
夢を諦めかけていた頃、
思いがけない人生が動き出したのです。

翌2001年、開幕直後から
外国人投手の不調が原因となり
先発投手のコマ不足に
頭を抱えていヤクルトスワローズは
急遽、スターターが出来る助っ人を
探し始めると、メジャーの実績は
それほど無いものの、
長身から投げ下ろすストレートや
多彩な変化球を低めに集めて
打者を打ち取るホッジスに目をつけました。

支配下選手登録期限にあと1日と
迫っていた6月29日、年俸3000万円で
契約を結んだ身長193センチ、
体重103キロの助っ人はシーズン途中で
海を渡ってきたのです。

8月から投げ始めた背番号58は
実働わずか2ヵ月ながら
5勝を挙げてリーグ優勝に貢献すると
翌年は先発投手が6枚揃わない
苦しいローテーションの中、
志願して中4日の登板を続けたほか
5月中旬から7月中旬まで
8連勝を飾るなど不敗神話も生まれました。

チームの軸としてマウンドに
立ち続けた助っ人は10月12日の横浜戦、
上原に並ぶリーグトップの17勝目を挙げて
最多勝のタイトルを獲得すると
打者としても本塁打を2本放つなど
投打に活躍を見せたのです。

最多勝に輝いた要因を聞かれた助っ人は
「ドラゴンズの川上さんにヒントを得て
カットボールを習得した事と
対戦相手の試合を全部見て研究した事、
そして何より五十嵐さんや石井さんの
ロケットボーイズに、クローザーの
高津さんといった強力な
リリーフ陣のおかげだよ。
私は6イニング投げるだけで
良かったんだから」と語りました。

2003年は外国人として
テリー・ブロス以来球団2人目となる
開幕投手に抜擢されましたが
年間を通して不安定な投球が続き
防御率5.90と低迷した事から退団が決まると
9月19日の広島戦で「さよなら登板」を
行ったのです。

翌年は弟のトレイ・ホッジスが
阪神タイガースと契約した事から
NPBでの共演も期待されましたが
他に手を上げる球団は無く
主戦場を韓国に移していた助っ人は
サムスンライオンズに入団し9勝を挙げると
2005年、新球団
東北楽天ゴールデンイーグルスの
テストを受けに再来日を果たしました。

最多勝を獲得した実力が期待され
日本球界に復帰した助っ人でしたが
2勝12敗、防御率6.44と思うような
結果は残せずに解雇されると
「いい結果は出せなかったけど
仙台に誕生した新しいチームでプレーできたし
選手やスタッフ、三木谷オーナーからも
よくして貰って楽しい時を過ごせたよ」
と帰国後は独立リーグのプレーを最後に
ユニフォームを脱いだのです。

引退後は不動産業を営みながら
少年野球のコーチなどを務めていましたが
「エリック・シュールストロムや
アンディ・シーツが
駐米スカウトをやっているのを聞いて
自分もやってみたいと
エージェントに相談したんだ」と
2012年、埼玉西武ライオンズの
編成部渉外担当に就任すると
「日本人選手が持っていないものを
持っている選手を探すのが私の仕事さ。
例えばエルネスト・メヒア。
日本人にはない強烈なパワーを持っているでしょ。
あとは日本の環境、生活を受け入れる
ことが大事になるかな」と語りました。

楽天球団創設以来、一軍と二軍の公式試合で
最初の退場者でもある助っ人は
「日本は素晴らしい思い出ばかり。
スワローズで日本一になったのが
一番の思い出だし、ラミレスには
色々と助けられたなあ。
それに古田さんのリード。
サイン通りに投げれば大丈夫だと
100パーセント信用していたよ。
日本人の左打者は外角に落ちるボールを
ヒットゾーンに運ぶのが上手だったから
配球面が一番重要だったんだ。
それにしても阪神タイガースの桧山(ひやま)さんは
別格だったね。だいぶ打たれたんじゃないかな」と
3年間の対戦成績が36打数16安打、
打率4割4分4厘と大の苦手だった天敵の
存在をあげたのです。

ノラリクラリと打たせて取る投球で
6回あたりまで投げるスタイルが
リリーフ陣が充実していたヤクルトに
ピタリとハマり、
まさかの最多勝に輝いた助っ人は
日本で81試合に先発するも
1度も完投しなかったという
究極の分業型スターター、ケビン・ホッジス

いかがでしたでしょうか?
これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました

この記事が参加している募集

すごい選手がいるんです

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!