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【ゲーリー・レーシッチ】メッツの永久欠番という大きな壁に立ちはだかれ芽が出なかった左打者は異国の地で日本が誇る大打者と出会い弟子入り 神主打法をマスターして名古屋のファンに優勝旗をもたらせた助っ人

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回はゲーリー・レーシッチを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=eDIbuD5MviI&t=8s

1954年、アメリカ合衆国オハイオ州に生まれた
ゲーリーはアリゾナ州立大学を卒業した
1976年、MLBドラフト11巡目で
ヒューストン・アストロズから指名されて
入団すると、1981年に移籍した
ニューヨーク・メッツでメジャーデビューを
飾りました。

しかしながら当時のメッツには
のちに永久欠番となるキース・ヘルナンデスが
いた事から、デービー・ジョンソン監督は
「キースがいるから出番はないが優秀だ」と
実力は評価していたものの、
レギュラー定着とはならずに
1984年にセントルイス・カージナルスに移ります。

カージナルス傘下の3Aルイビルで
29本塁打を放つ活躍をみせた
翌1985年、サンフランシスコ・ジャイアンツに
トレードされると少しづつ
運命の歯車が動き出しました。

この年、名古屋のファンに愛されながらも
年齢的な衰えもあり引退を表明していた
ケン・モッカ退団に伴って、代わりとなる助っ人を
探していた中日ドラゴンズは
身長184センチ、体重95キロの左打者に
声をかけたのです。

ゲーリー自身、31歳となり、大リーグで
わずか3本塁打と行き詰まりを感じていた事から
野球で稼ぐなら日本で活躍するしかないと
年俸3500万円で契約、
最後のチャンスを求めて海を渡ってきたのでした。

超優等生ケン・モッカの後釜とあって
少しでも打てない日が続くと
ポンコツ外人呼ばわりされるキツイ環境の中、
5月に入り、日本の野球に慣れてくると本領発揮、
2日連続の1試合2ホーマーや
「彼の速球は大リーグでもトップに入るね」と評していた
広島の守護神、津田やヤクルトの尾花から
サヨナラアーチを放つなど派手な活躍を見せたのです。

左打席から引っぱり専門の典型的なプルヒッターは
8試合で7発の固め打ちを見せるなど4番に座ると
ホームランか三振かの荒い打撃で
打率2割5分1厘ながら、36本塁打、82打点に
リーグワーストの105三振と極端なバッティングを披露しました。

「日本で私が長打を期待されているのは知っているよ。
アメリカではフェンスが高くてライン・ドライブがかかる
私の打球は二塁打にしかならなかったけど
日本の球場は狭いし、フェンスが高いのは
横浜スタジアムくらいだからスタンドイン出来るんだ。
谷沢(ヤザワ)さんに日本の投手は左打者の内角に
スライダー投げてくると教えてもらったのも良かったね」
と、大砲に生まれ変わったのです。

9月のプラザ合意により、急速な円高が進んだ影響で
ドル建てで給料をもらっていたゲーリーは
好景気に浮かれていた日本の中で
節約生活を強いられながらも翌1987年、
さらなる進化を遂げました。

中日は親交のあったドジャース、ラソーダ監督の許可を得て、
ユニフォームをドジャース風に一新し、監督に闘将、
星野氏を迎えると補強の目玉として三冠王、落合を
引っ張ってきたのです。

メジャーリーガーらしく口ひげを蓄えるように
なった背番号4は三冠王の神主(かんぬし)打法を見た瞬間、
「これだ」と、落合に弟子入りを志願、
先生と呼びながら打撃フォーム改造に着手しました。

落合に比べてややバットの位置を下に構える
下落合(しもおちあい)打法と言われたバッティングスタイルを
身につけた助っ人はホームランは減ったものの
三振数を半減させると打率は6分(ぶ)以上も上げて
出場を辞退したボブ・ホーナーに代わりオールスターにも
選出されたのです。

4番落合、5番宇野と組んだクリーンナップの破壊力は
強竜打線と恐れられると
腹痛を抱えながらも出場した試合では
「下痢でもゲーリー、ホームラン」とメディアで
品のない記事に取り上げられるほど注目され
最終的に打率3割1分7厘、24本塁打、54打点の活躍を見せました。

3年目となる1988年、球団は新たな助っ人ラルフ・ブライアントと
契約を結んで、ゲーリー、郭源治と2名の外国人枠を
競わせると、温厚なゲーリーは球団へ不信感を募らせましたが
開幕2戦目に横浜の新浦(ニウラ)投手からサヨナラホームランを
放ったほか、6月から不振の落合に代わり4番に座ったのです。

シーズン通して打率2割9分3厘、16本、53打点の成績を残して
チームのリーグ優勝に貢献、
「ナゴヤはボクの第二のふるさと。10年でも中日でプレーしたい」と
希望を口にしていましたが、進出した日本シリーズでは
前年から痛めていた右脇腹と腰痛で満足にバッティングが
できなかった事から退団となりました。

星野中日V1(ぶいわん)を置き土産に帰国した34歳は引退後、
名古屋で英会話教室「ゲーリーパワーイングリッシュ」を
経営したほか、
レッドソックスやブルージェイズなど複数球団の
スカウトに就任して
将来のメジャーリーガー発掘に尽力しています。

今では中日ドラゴンズのチャンステーマにもなっている
山本リンダの「狙いうち」が流れる中で打席に立つと
「つまった時しかレフトに飛ばなかった」と言われる
典型的なプルヒッターは、落合指導のもと
神主打法をマスターすると、ゲーリーシフトを
嘲笑うかの如く三遊間にヒットを放つようになりました。

「キャンプの時に谷沢さんと一緒にハレーすい星を見ようって
夜遅くまで望遠鏡をのぞいたよ」と趣味の天体観測を
仲間と楽しむなど、先代のケン・モッカ同様、
真面目で実直な性格からすぐにチームに溶け込んだほか、
兄のデーブ・レーシッチが広島でプレー経験があった事から
地下鉄の乗り方やおススメのレストランを教えてもらい
自室には名古屋市内で買った破魔矢を飾っていた助っ人は
落合のバッティングに衝撃を受け、メジャーリーガーの
プライドをかなぐり捨てて異国の地で成功を収めた
三冠王の一番弟子、ゲーリー・レーシッチ

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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