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【クリス・ナイマン】どん底時代の南海ホークスを支えた酒も煙草もやらない菜食主義者はもう一人の同僚助っ人とともに凸凹コンビを形成しチームに貢献した真面目ガイジン

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、クリス・ナイマンを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=esxmsYNZyCY

1955年、アメリカ合衆国カリフォルニア州に
生まれた
本名クリストファー・カーティス・ナイマンは
アリゾナ州立大学を卒業した1977年、
シカゴ・ホワイトソックスに入団すると
マイナーリーグで107試合に出場して
26本塁打、90打点をあげる活躍を見せた
シーズン終盤、ビッグリーグに昇格しました。

21試合で打率2割8分6厘、2本塁打と
才能の片鱗を見せたナイマンに1984年、
ライトルに代わる新外国人を探していた
南海ホークスは白羽の矢を立てたのです。

1960年代に黄金時代を迎えていた
南海ホークスはその頃の輝きを取り戻すべく
ユニフォームを深緑(ふかみどり)色の
ボタン式に変更、その目玉として3Aで
最高守備率を記録した事のある一塁の名手にして
長打力も備わっている右打者と
年俸3000万円で契約を交わすと
身長193センチ、体重90キロの助っ人は
海を渡って来たのでした。

6500万円の西武ライオンズ助っ人スティーブや
1億円の阪急ブレーブス助っ人バンプに
比べて格安で来日した背番号4は
通常2月のキャンプから参加するのが
当たり前だった外国人選手の中では珍しく
1月から練習に参加して周りを驚かせると
酒も煙草もやらない菜食主義者の
真面目ガイジンとして注目されたのです。

いざキャンプが始まっても
「まだ早いから」とハーフスイングの
練習ばかりを繰り返し、
紅白戦で凡打の山を築く助っ人に
穴吹(あなぶき)監督も
「何もナイマン」と呆れ始めていましたが
オープン戦から少しづつ打ち始めると
3月31日の西武との開幕戦で複数安打を
放ったほか
4月3日の本拠地開幕ゲームでは
初本塁打もかっ飛ばしました。

4月の打撃成績でリーグ7位につけた助っ人は
5月に入っても止まる事なく
満塁弾や1試合2発など好調をキープ、
走塁の際に右足を痛めた門田(かどた)に代わって
4番を任されると
ホームランダービートップを走る
19号を放つなど打ち続けた事から
新聞各紙に「止まらナイマン」の見出しが踊ったのです。

門田、山本らとクリーンナップを形成し、
蒸し暑い夏場に調子は落としたものの
125試合に出場して打率2割6分7厘、29本塁打、
82打点の成績を上げて残留した助っ人は
翌1985年も121試合に出場、
2年連続で本塁打と打点の両部門で
ベスト10入りを果たす打率2割8分5厘、
26本塁打、78打点の好成績を上げましたが
新助っ人獲得による外国人枠の問題から
解雇となりました。

身長172センチ、体重73キロと小柄な体格ながら
守備がうまく、3Aルイスビルで
打率3割を打っていた同僚助っ人ジェフ・ドイルと
凸凹コンビを形成し、
ファンに親しまれたナイマンは
「球団が打撃より投手力のほうが
安定していると考えて公認球の中でも一番飛ばない
ボールを使っていたんだよ。
ボールを加湿器のある部屋に保管していたから
打つと水がにじみ出てくる感じがしてね、
メロンを打っているような感触だったな。
だから大阪球場でライト側へのホームランは
あまり出なかったんじゃないかな」と裏話を語っています。

海の向こう、アメリカでも
高度が高く空気が薄いデンバーでは
ボールが乾燥して縮み、固くなる事から
他の都市に比べて9パーセント飛距離が伸びるとされ
コロラドを本拠地としているロッキーズは、
ボールを理想的な状態で保管したいと
加湿器を利用していると証言して物議を醸しました。

在籍2年間で5位と6位というドン底時代の
南海ホークスの中で、俊足強打型の
内野手として高い打撃力を見せ、
飛ばないボールでホームランを量産して
チームに貢献した真面目なベジタリアンこと、
クリス・ナイマン

いかがでしたでしょうか?
これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました

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