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【トミー・クルーズ】クルーズ3兄弟の中で最もMLBの実績がなかったが新天地にやってきた助っ人は真面目な人柄と何事にも全力フルスイングで監督の信頼を勝ち取ったガッツマン

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おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、トミー・クルーズを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=vOoeGQS_0Fk

1951年、プエルトリコで14人兄弟の
家庭に生まれた
本名シリロ・クルーズ・ディランは
アローヨ高等学校を経た1973年、
先にセントルイス・カージナルスに入団し
メジャーリーガーとなっていた
兄ホセの後を追って
弟ヘクターとともにカージナルスに入団しました。

1976年、ヒューストン・アストロズに
移籍していた兄は打率3割3厘、28盗塁を
記録してチームの主力選手となり、
カージナルスで切磋琢磨していた
弟は三塁手のレギュラーを獲得、
ナショナルリーグの新人トップとなる
13本塁打に71打点の活躍を見せて
新人王投票3位に入りましたが
自分は結果を残せず、翌年シカゴ・ホワイトソックスに
放出されたのです。

ラテンアメリカ出身の選手が英語名をつける
流れに沿って、自身もトミーと名乗りながら
クルーズ3兄弟の一角を担いましたが
移籍したホワイトソックスでも2打席しか
立つことが出来なかった事から
一人取り残されていると感じたトミーは
新天地を求めていました。

すると1980年の開幕直前、3Aで首位打者を獲得した
29歳の左打者に目を付けた日本ハムファイターズは
交渉を開始、身長175センチ、体重80キロの助っ人は
海を渡って来たのです。

ヘルメットが吹っ飛ぶほどのフルスイングで
同期入団したサモアの怪人トニー・ソレイタと
強力コンビを形成して打ちまくった助っ人は
1年目から打率3割9厘、26本塁打、
84打点の活躍でチームに貢献すると
デッドボールを受けようが、38度の高熱が出ようが
4番打者として試合に出続けるガッツマンとして
大沢監督、大のお気に入りとなりました。

翌1981年は4番を柏原に譲ったものの、
3番打者としてリーグ最多の30本の
ツーベースを放ち、リーグ優勝に貢献すると
1983年には弟ヘクターが読売ジャイアンツに
入団、兄弟でNPBに所属となったモチベーションからか
リーグ3位の打率3割2厘をマークします。

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