見出し画像

引っ越し

 雅江の部屋がいわく付きの物件であることを知ったのは彼女が入居して三ヶ月経った頃だった。雅江とは女子大の時からの親友で、お互いの家に泊まることも多く、自分の家よりも居心地が良く感じるくらいだった。ところが今度の部屋はちょっと違った。胸がざわついて落ち着かなかったり、寝苦しい夜を過ごすことも多かった。
 そして五回目に泊ったとき、胸騒ぎが具体的な形となって姿を現した。私たちと同じくらいの若い女の姿が壁際にぼんやりと浮かんでいた。雅江は隣りでスヤスヤと寝ていた。翌朝、雅江に訊いてみたところ、彼女も何度か見たことがあるという。なぜ私に話さなかったのかと問い質すと、不動産屋は何も言わなかったのだからそんなはずはないと自分に言い聞かせていたのだという。実際のところどうなのだろうか。過去に変死などはなかったのだろうか。インターネットで検索してみると、アパート名と部屋番号まで一致した情報がやはり見つかった。自殺だった。直近の借主ではないので、不動産業者には告知の義務はないらしい。
 私は転居を勧めたが、雅江の返事ははっきりとしないものだった。メンタルヘルスの重要性とか、金銭的な対策とか、細かなことを丁寧に説明してなんとか不動産屋に解約をしに行くことを約束させた。
 しかし次に会ったとき、その約束は果たされていなかった。これまで私との約束を破ったことがなかった彼女は泣いて謝った。彼女は私の知る友人の中でも群をぬいて行動的な女だと思っている。そんな彼女が、なぜ不動産屋に向かう足が止まってしまうのか、自分でも分からないという。疲れているのだ、考え過ぎなのだと励ますと、彼女は「大丈夫、明日は解約しに行くから」と、持ち前の元気な表情を見せた。
 約束は二度目も果たされなかった。今度は雅江を責めた。いや、心の中では責めながらも、諭すような口調で何が問題なのかを聞きだそうと努めた。だが彼女は「分からない」を繰り返すばかりだった。これはもう私が手を下すしかない。私はそう判断した。
「番号教えて。私が電話するから」
 雅江は俯いたまま電話番号の書かれた不動産屋の封筒を差し出した。私は携帯電話を開き、番号の一つひとつを確認しながらプッシュして最後に発信ボタンを押した。二回、三回と呼び出し音が鳴り、「はい」と相手の声が聞こえた、その瞬間だった。
 電話機を持つ私の手首を背後から何者かがグッと掴んだ。雅江ではない“何者か”がいたような気がしたのだ。だが、振り返った背後には、ぐしゃぐしゃに崩れた雅江の顔があった。弱さしか見えないその顔に反して、手首を掴む手は恐ろしく強かった。私は思わず電話機を手から離した。「もしもし、もしもし……」電話の声が聞こえ、やがて切れた。私は渾身の力で雅江の手を振りはらい、手首を摩りながら彼女の顔を覗き込んだ。
「どうして?」
 雅江は泣き崩れながら首を横に振った。自分でも分からないのだろう。
「あなた病んでるの。まともじゃないの。わかる? このままじゃ、おかしくなっちゃうよ。死んじゃうよ。ね、引っ越そう」
 雅江はこくりと頷いた。先程の腕を掴んだ強い力はもうどこにも宿っていないようだった。彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向けてにこりと微笑んだ。
「わかった。こんなに住み心地のいい身体からは離れたくなかったけど、あなたの身体に引っ越すわ」
 そう言った彼女の眼が、クワッと大きく見開いた。

――了――

(この話はフィクションです)

※本作品は河崎卓也名義で書いた「離れたくない」をタイトルを変えて再投稿したものである。

三人称版

これは詩織さんという女性に起こった出来事である。

 詩織さんの友人の雅江さんの部屋がいわく付きの物件であることを知ったのは雅江さんが入居して三ヶ月経った頃だった。雅江さんとは女子大の時からの親友で、お互いの家に泊まることも多く、自分の家よりも居心地が良く感じるくらいだった。ところが今度の部屋はちょっと違った。胸がざわついて落ち着かなかったり、寝苦しい夜を過ごすことも多かった。
 そして五回目に泊ったとき、胸騒ぎが具体的な形となって姿を現した。真夜中、詩織さんがふと目を覚ますと、二人と同じくらいの若い女の姿が壁際にぼんやりと浮かんでいた。雅江さんは隣りでスヤスヤと寝ていた。翌朝、雅江さんに訊いてみたところ、彼女も何度か見たことがあるという。なぜ話さなかったのかと問い質すと、不動産屋は何も言わなかったのだからそんなはずはないと自分に言い聞かせていたのだという。実際のところどうなのだろうか。過去に変死などはなかったのだろうか。インターネットで検索してみると、アパート名と部屋番号まで一致した情報がやはり見つかった。自殺だった。直近の借主ではないので、不動産業者には告知の義務はないらしい。
 詩織さんは転居を勧めたが、雅江さんの返事ははっきりとしないものだった。メンタルヘルスの重要性とか、金銭的な対策とか、細かなことを丁寧に説明してなんとか不動産屋に解約をしに行くことを約束させた。
 しかし次に会ったとき、その約束は果たされていなかった。これまで詩織さんとの約束を破ったことがなかった雅江さんは泣いて謝った。彼女は詩織さんの知る友人の中でも群をぬいて行動的な女だと思っている。そんな彼女が、なぜ不動産屋に向かう足が止まってしまうのか、自分でも分からないという。疲れているのだ、考え過ぎなのだと励ますと、雅江さんは「大丈夫、明日は解約しに行くから」と、持ち前の元気な表情を見せた。
 約束は二度目も果たされなかった。今度は雅江さんを責めた。いや、心の中では責めながらも、諭すような口調で何が問題なのかを聞きだそうと努めた。だが雅江さんは「分からない」を繰り返すばかりだった。これはもう私が手を下すしかない。詩織さんはそう判断した。
「番号教えて。私が電話するから」
 雅江さんは俯いたまま電話番号の書かれた不動産屋の封筒を差し出した。詩織さんは携帯電話を開き、番号の一つひとつを確認しながらプッシュして最後に発信ボタンを押した。二回、三回と呼び出し音が鳴り、「はい」と相手の声が聞こえた、その瞬間だった。
 電話機を持つ詩織さんの手首を背後から何者かがグッと掴んだ。雅江さんではない〈何者か〉がいたような気がしたのだ。だが、振り返った背後には、ぐしゃぐしゃに崩れた雅江さんの顔があった。弱さしか見えないその顔に反して、手首を掴む手は恐ろしく強かった。詩織さんは思わず電話機を手から離した。「もしもし、もしもし……」電話の声が聞こえ、やがて切れた。詩織さんは渾身の力で雅江さんの手を振りはらい、手首を摩りながら彼女の顔を覗き込んだ。
「どうして?」
 雅江さんは泣き崩れながら首を横に振った。自分でも分からないのだろう。
「あなた病んでるの。まともじゃないの。わかる? このままじゃ、おかしくなっちゃうよ。死んじゃうよ。ね、引っ越そう」
 雅江さんはこくりと頷いた。先程の腕を掴んだ強い力はもうどこにも宿っていないようだった。彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向けてにこりと微笑んだ。
「わかった。こんなに住み心地のいい身体からは離れたくなかったけど、あなたの身体に引っ越すわ」
 そう言った彼女の眼が、クワッと大きく見開いた。

――了――

(2023年3月21日 『怪奇財団 化けの皮』の配信番組にて朗読)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?