〈語らぬ者〉について(掌編/短編)

 淡い夢を見ていた。
 はじめは夢だと思わなかったけれど、記憶を再生してみると、視界いっぱいに広がる向日葵はまるで水彩画の遺作みたいな、切なく滲んだ色だった。しずく、ひかり、 夏の特権を全部抱き寄せて、 あんなに眩しく咲いていた八月の象徴だ。そこに、かなしみの元素は要らない。
 だとすれば、かなしみを持ち込んだのは僕なんだろう。ふと、映像が揺れ始める。水が入ってしまったままのゴーグルで、景色を見るように。夢の中で泣いた覚えはない。……ああ、そうか。泣いているのは、今なんだな。夏はもう、死んでしまったから。
 曖昧に歪む世界で、相津先輩が笑った気がした。


  
「――えっ、私の名前じゃないですか」
 小佐さんの記した言葉。夢日記とも回顧録とも思えるし、或いは、詩かも知れない。渡里さんによると、それは小佐さん自身にも分からないみたいだ。ただ見えたものを書くんです、彼はただそう言っていたよと、渡里さんは私に教えてくれた。
「相津って名前が出たのは、初めてだな」
「まあ、私の事じゃないんでしょうけど」
 渡里さんから受け取ったノート、そこに綴られた新作を、一字一句違わず、そのままPCに打ち込んで行く。それが終われば、ノートはまた小佐さんの手元へと返される。
「それでも、何か嬉しいです。記録し甲斐があるってものですよ」
 元々、この仕事は好きだ。素敵なものに多く出会える。でもこんな事があると、いつもよりちょっと特別な日だって気がしてしまう。

〈語らぬ者(サイレンス)〉。今ではすっかり存在を認知され、幽霊とも区別された存在。私はその観察と記録をしている。
 最初は、単に怪奇現象の多発する廃墟として知られた施設だったらしい。そこに調査が入ってから、次第に状況が変わり始めて、現在、ここは立派な研究所。その住人たちにも、サイレンスと言う呼称が与えられて久しい。
〈語らぬ者〉は通常、人の五感では捉えられない。けれど確かに存在して、何ならペンを持って――だからそれは一見、宙に浮いている様に映る――文字を書いたり、オルガンを弾いたりする。幽霊と混同されても仕方ない。
 エピソードは怪談めいているけれど、決して人に害をなさない。と言うよりは基本的に、特定の行動のみに限られる。地縛霊に近い、んだろうか。夜な夜な皿の枚数を数えるのに似ている。小佐さんは書き物だけ、九鬼さんは料理だけ。
 名前は本来なくて、もしかしたらあったのかも知れないけど彼たちは覚えていなくて、全て渡里さんが英語に因んでつけたものだ。著述家のauthor、料理のcooking、の様に。どうやら長期的な記憶が難しいらしく、急に与えられた名前も暫くは不思議がっていたみたいだけれど、今はそれぞれの由来や経緯も忘れて、当然のごとく受け入れている。失われた過去もあるんだろう。その為にも、今は私が居る。
「とは言え、もっとナマの情報が欲しいです。渡里さんばっかり、羨ましいなぁ」
「別に俺だって、選ばれてやってる訳じゃねえんだよ。能力が備わってるのは偶然だ」
 彼たちの特徴として、人間の介入があると、途中でも行動をやめてしまう。些細なレヴェルで、しかも人智を超えた範囲だ。施設内の、聞こえそうもない距離の地点から、彼たちの名前を口にする。それだけでも気づく程だから、当然、一定以上近づいたりすれば、途端にしんとしてしまう。
 けれど、渡里さんだけは例外だ。行動の証跡でしか存在を確認出来ない私たちと違って、彼は〈語らぬ者〉たちがそこに存在する事を気配で分かるし、どころか会話さえ交わせる。〈語らぬ者〉たちも、渡里さんが目の前に居たって行動をやめる事はない。あくまで渡里さんの自称だけれど、私の観察結果と照会してみても、本当だろうと思う。
 もう一つの例外として、〈語らぬ者〉同士も、互いの行動には干渉されない事が判明している。九鬼さんの料理がいい匂いを漂わせていても、大賀さんのオルガンが大きな音を響かせても。二人の〈語らぬ者〉を真向かいに配置したって全くお構いなしだ。
「終わりました。お返ししておいて下さい」
「おう、助かる。ありがとな」
 これで、今日の仕事は完遂だ。見えない私たちには判別がつかないけれど、〈語らぬ者〉はそれぞれある時間になると、気配が一切消えてしまうらしい。人間の睡眠に当たると考えられている。枡さんに始まり、最後が小佐さん。 彼がノートを書き終えれば、もう全ての観察対象に動きはなくなる。そして朝を迎えると、また枡さんから順次、姿を現すのだ。
「それじゃあな、お休み」
 いつもの挨拶を残して、渡里さんがモニター・ルームを出て行く。私も、寝る時間だ。

 x x x
 
「……枡さんの気配が蘇らない、ですか?」
 翌朝、その異常にはすぐ気づいた。枡さんは習慣として、誰よりも早く行動を始める。周期とは無関係だ。枡さんの次に起きるのは新渡戸さんだけれど、行動は九鬼さんの朝食作りの方が先になる。
 なのに、今日は枡さんの行動がカメラに何も映らなかった。もう九鬼さんは野菜を切り始めている。それで暫く観察を続けていたところ、訪れた渡里さんにその報告を受けたのだ。
「出掛けた、とかではなくて?」言いながら、おかしいと感じていた。ちょっとした散歩ですら、〈語らぬ者〉の間では一度も例がない。
「いや、俺は枡より先に起きてるんだ。特別な行動を取ったとしても、気配は絶対に分かる」
 相津も目を光らせてくれ、と急いで言ってから、彼はまた枡さんを探しに向かう。私も命に従って、その日はいつも以上に各画面を注視した。

 結局、枡さんは戻らなかった。相変わらず行動はなく、気配も途絶えたまま。それが二日三日と続いて、一週間が経つと、今度は新渡戸さんが消えた。

 x x x

「……幽霊で言う、成仏、かも知れんな」
 まだ、〈語らぬ者〉の実態は掴めていない部分も多い。現認されている〈語らぬ者〉は世界でもこの施設内だけで、それもその筈、現認が出来るのは今のところ世界で渡里さんだけだからだ。仮にもっと途方もない数が存在していたとして、それこそ幽霊と間違われている例はあるかも知れないけれど、彼が発見して、尚且つ〈語らぬ者〉と同定されないのなら、居ないのと変わりはない。
「また、消えちゃうんでしょうか」
「恐らく、な。少なくとも俺たちは『蘇らない』って現象を確認してしまった。それは、他のやつにだって当てはまらないとは言えんだろうよ」
「……嫌です、そんなの」
「俺だって同じだ。……だがな、」その口調に、体温に似た熱が宿るのを感じた。「誰にでも死は訪れる。枡たちにとってこれが死なのか、俺たちには断定出来ない。ただ、死があるって事は、間違いなく生きてたって事さ。その生を間近でずっと見て来た、そしてその生をずっと記録し続けて来たお前が、一番、分かってるんじゃないのか?」
「それは……っ、でも……!」
「生きた証は、本人たちだって残してんだ。そして、お前の手でもな。存在として消えた後、それでも遺された者の心の中で生き続けられるとしたら――それは、お前の手助けがあってこそなんだよ」
 その後にもう、涙を止める術はなかった。
「最後まで、やり遂げろよ。お前の全てを懸けて、な」
 
 x x x

 およそ、一週間ずつだった。
 新渡戸さんに続いて、九鬼さん、大賀さんと、次々にその消息が不明となった。
 渡里さんが言ったみたいに、これが「死」なのか、他の何かなのかは知る由もない。
「……相津。小佐のノートだ」
 周期通りなら、そろそろだとは思っていた。
 誰も最後まで、普段と変わらない行動を取っていて、明日居なくなるなんて素振りも前触れもなくて。
 けれど本当は、その時に気づいているのかも知れない。雨のやみ始めの様に。電球の切れ掛かる様に。
 最後の言葉は、とても短かった。
 
 ワンダーランドとぼくとをむすぶ船があす最終便です猫とゆきます 

 x x x

「〈語らぬ者〉たちは、幸せだったと思うか?」
「……分かりません。でも、そうだって信じたいです」
 現象が確認出来て以降、お前たちは消える、と伝えても、誰一人として、驚くどころか興味すら持たなかった。どう思う、と訊いても、ぼんやりとした返事しかなかった。
「大賀さんの最後の曲、すっごく綺麗でした。九鬼さんなんて、珍しくホール・ケイクなんか作っちゃったりして。……小佐さんも、ワンダーランドに行ったんですね。きっとそこでは、かなしみを知らない向日葵が、いっぱい咲いてるんだろうな」
 だが、相津の言う通りなんだって、俺も信じてやっていい。お前は俺よりも、そして誰よりも、〈語らぬ者〉たちの理解者だ。
〈語らぬ者〉の観察は本来、簡単な事じゃなかった。あの感知能力は、とても常識では考えられない。何せ俺以外の人間じゃ、カメラ越しに監視するってだけでも気づかれて、行動を止めるんだからな。
 それをお前は最初から、自らの意思でずっとやっていたんだ。それも、俺たちがカメラを設置する前から、まだ紙で記録していた時から――ここが、廃墟だった頃から。

〈語らぬ者〉同士は、互いの行動に干渉されない。
  
「だから私は、皆さんの幸せを願います。――そして、」
 お前だけは、不安だった。他のやつとは違って、感情豊かで、泣く事すらした。俺には見えないが、お前は本当に涙を流しただろう。それでも。
「少なくとも私は、皆さんと出会えて幸せでした」
 ――ありがとう、〈eyes〉。お前がそう思ってくれるなら。
 お前が忘れたままの真実も、きっと今なら告げられる。


 あなたには「淡い夢を見ていた」で始まり、「今なら告げられる」で終わる物語を書いて欲しいです。
#書き出しと終わり
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