構造的不従順(掌編/短編)

「いいかい。希望を、救いを、最後まで捨ててはならないよ」
 老人、その顔は記憶のどこに暮らす人でもなかった様だ。だとすれば、何について見た幻だろう。
「君にも教えてあげよう。取り分け私が心に刻んでいる、世界を包み、そして世界が私たちを包んでくれる為の言葉、この救いは、詩篇七四篇一六節だ」
 ぼうっと、能面を思わせて、表情だけが浮かんでいる。体格の具合とか、或いは場所、時、あらゆる情報が暗闇に沈み、はっきりと、明確な不明であった。しかし他に、現実的な空間ではないにも関わらず、肌の上で粉薬が溶ける様な感触をし、また皮膚の下では星が燦然と閃光し、自分と言う防壁が内から崩されて行く、そしてこれからは粒子となって、宇宙の全てを知覚する扉に手を掛けそうな気配の感触をした。
 
 ――昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは光と太陽とを設けられた。
 
 呟いて、老人は笑んだ。瞳が皺に埋もれた。「必ず、君も忘れずにいなさい」
 
     x x x
 
 意識は冴えた。眠っていて、目が覚めたと称するものなのかは曖昧だった。つまり、それが夢であるとも断言はしにくかった。なぜなら体はその目が覚めた時横臥していなかった。普段の着衣をしたまま、手回り品の一切を持たず直立していた。そして改めて、今居るのが異様な一室である事を自認する。
 ぐるりと見回す。ちょうど立方体らしい等しさをする四方の壁、天井、そして床、その全ての中心には小さな窓がついている。足元のものを除いては雨天の暗さを室内にもたらすが、雨はなく、また音もなく、昼夜の判断さえつかず、寧ろ外景は濃霧が白濁させ、木々と思われる影は影としてしか伝わらない。床の窓に至っては漆黒そのもので正体も意義も窺えず、いずれも開くと言う概念を持ちそうではなかった。加えて必然的にここで、扉が存在しない事に気づく。
 焦燥に駆られるが、足の竦みからまだ動く事は出来ない。首と眼球だけを巡らせて、恐怖と怯懦を抱えながら観察を続ける。すぐ正面、部屋の中央で床の窓から少しずれた位置に鎮座する木造の机は、朽ち掛けて古く、抽斗がわずかにこちら側へと口を開けており、不似合いな鉄製のピック状のもので刺されたチョコレイトらしき四角の菓子を一粒っ切り、皿も敷き紙もなくそのまま載せている。
 四隅には花瓶が置かれ、枯れ果てたものから時計回りに新しくなる様だった。分かる限りは全て同じ紫の鋭い五弁花で、放射状に白い線が何本か入っている。特筆すべきものは、最も目につく壁際の造形以外にはもうない。
 それは机を挟んで真向かいの、人形や縫いぐるみ未満、或いはなり損ないとも言える物体。泡立ちでもするみたいに、胃がそこから体外へ直接吐き出しでもしたみたいに、焦茶色の腹部から中綿のもこもこと溢れた、常軌を逸してまで心を脅かす手芸様の物体。詰め込むには不自然な程に容量を超えていて、狂気じみた具現であった。
 漸く一歩を踏み出す。騒いではならないと言う直感を持って、いずれにせよ声を出す事もままならない。強張った全身で少しずつ近づいて行くのは抽斗へであった。暗澹たる窓の直上は怖ろしかったから、やや斜めの位置に立って、ゆっくりと引く。その途端、ことん、と音が響いて酷く驚かせるが、改めて全て引き切ってしまうと、正体は硝子玉である事が知れた。そこにはノートも一緒にしまわれていた。
 確かめながらそれを取り、表紙を左手へ送る。
「何と奇ツ怪であらうか!」
 仰々しい一文が躍り出る、ノート最初の記録は心臓をより萎縮させる。やがてペイジを捲る毎に、ちょうどこの部屋、何者かの境遇や所感が克明に綴られている事が分かる。今までに招かれた誰かの存在の証左だった。
「今し方私に降り掛かつてゐる災ひの元に心当たりは全くない。また、脱ける術を探してもみたが、そもそもが狭い部屋で探すところなど限られてをり、花瓶を割つたり、窓を叩いたり、机に隠しがないかと調べても、一向に答へは見つからず、戸惑ふばかりである。」
 日常では馴染みのない古い仮名遣いを悍ましく思った。同じ空間に連綿と続く運命、そこに自分が組み込まれた事をまざまざと覚えさせられた。
 読み進める内、書き手は別の誰かに取って代わった。その直前はこう締められている。
「涙はにゆるりとしてゐた。」
 これは、実はまだ理性的だった。後の何人もの書き手は最後に狂ってしまっていたからだった。「ああ、いかにも、なづきをはりあはせてゐる。」「は、は、溌溂と!」「つまりそれは音たる自我の記憶の思念的作用であるところです」「りゅん りゅん (闘っていた!)」。それたちはいずれも読解に苦しむ、いや寧ろ、最早考慮するにも値しないだろう乱文に違いなかった。
 いつしか、それは飛蚊症にも似て、煤か、黒い雪でも降る様な大粒の玉が上から下へと揺らめいて落ちる幻視に双眸が蝕まれていた。凶事の予兆めいてもいたが、取り憑かれた様にノートの先を求めるその手を止めない。
 終わりの方まで行き着くと、しかし、疑問を覚えた。とても根本的で正当な疑問であり、このノートはなぜ存在するのだろうか、と言う疑問だった。現に自分の手元には所持品が何もない。せいぜい衣服を身に纏う程度であり。気づいてしまうと、筆記具の類が抽斗に、そしてどこにも見当たらない事実にも至った。次のペイジに指を掛けながら、となれば勿論、あなたはノートそのものを訝しむ必要に駆られた。
「み え ま し た か ?」
 刹那、あなたは反射的に顔を上げた。眼界に件の物体が映る。そして目を離していた間、中綿は膨張を尽くし、盛り上がっては萎みながら人の肖者の形を作っていた。しかしまだ不完全であった。
 鼻骨の辺りからぶつりと途切れ、その存在には顔の上部がない。断面が見えると、本来脳を収めるべき筈の場所には、周囲の肉にみちみちと吸いつかれて継ぎはぎの月が据わっているのが分かる。認識した途端に腐臭が漂い、腕の異様に長い華奢な姿で、下半身は今まさに構築されようとしていた。鼓膜には震える様な鈴の音が鳴り始める。りゅん、りゅん。明度は一足飛びに失われ行く。異形がこれからあなたの命を奪う事は明白だった。あなたは激しく喘ぎ、わずかな身じろぎすら戦慄に縛られていて逃れられない。
 しかしあなたには閃くものがあった。希望を、救いを、最後まで捨ててはならない、遠く響く声が脳裏を掠めた。まだ助かる方法は残されている。
 喉がつかえる。それでもあなたは必死に記憶をまさぐった。あの言葉が命運を二分する。確信していた。だから手を伸ばした。可能性を掴む為に。悪夢を終わらせる為に。
 異形は頭部から髄液を滴らせ、口が大きく開き、腕はこちらに向かっている。
 あなたは終焉の間近を悟り、
 やがてその瞬間は訪れた。
 ――「                    
                」。
 
     x x x
 
 ……ああ、果たして次の「君」は免れただろうか?
 何もその時に、信心などなくともよい。単なる呪文と捉えてくれてよい。
 それが起こる度、私は希望の、救いの言葉として、いつも魂から語り掛けているのだ。
 そうだ、精神の一切を侵す暗黒に打ち勝つ為の、光に満ちた言葉を。
 
 ああ、果たして次の「君」は免れただろうか。
 確かに、私は「君」に告げただろう?
「昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは光と太陽とを設けられた」。
 それを、必ず。
 ――必ず、「君」も忘れずにいなさい、と。


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(了)