いずれは淡い夢のまたたき(掌編/短編)

 淡い夢を見ていた。
 
 
 
 
 
 大人はいつだってもの知りで、多彩な幸せを教えてくれた。ずっと孤独だった僕の幼い頃、自分で覚え身につけた事も様々あるけれど、いつしか周囲には寄り添ってくれる人も増え、そうやって大抵、こなせる様になって行った。
 体を仰向けにして浮かべる。雲が流れる時の速度で、草花の上を静かに揺蕩う。涼しさがいいな、と思ったから、少しだけ空気を調えた。風に織り交ぜた音楽が、耳で安らぎに変わる。徒に星の輝度を上げる。愛すべき風景、愛すべき世界。自由だった。何だって出来た。
 僕の幸せの形は、長らく変わっていない。自然の中に全てを委ね、溶け込み、同一になる。穏やかに、緩やかに。時には湖の底で一昼夜を過ごし、蔦に抱かれるまで森と戯れる。他の人たちはもっと活発に思う。それぞれの、幸せの形に従って。
「どうしてわざわざ、筆なんて使うんですか?」
「確かに、指先一つ鳴らすまでもなく、私たちは想像した通りの絵をすぐにでも飾る事が出来るだろう。だがな、少年。不自由な条件で、描くと言う行為で、どれだけ理想に近づけるかを楽しむんだよ。それで上手く行ったら、嬉しくはないかい?」
 老翁は失敗を重ねながら、幾度も作品を完成させた。その巧拙を問わず、大切に保管して。言い方を借りると、指先一つで雪を降らせたり、庭に鹿を三頭置いたりはしたけれど、自らの絵に関してはそれをしなかった。必ず道具を一式用いて、「描く」事の幸せに興じた。彼だけが例ではない。行為、そこが肝要なのだ。質素な館で暮らす婦人は料理を好んだし、わざと不良な状態の靴を生み出して、手入れを楽しむ壮齢の男性も居る。
 また、人々は分かち合った。言葉遊びや暗号の考案に打ち込む青年は、婦人が聞き覚えすらない食材や料理の話をした。翌日振舞われたもののその味は、僕も忘れていない。もしくは、黒い髪の小説家が再現した幻想的な絵画を、老翁は初めて見たと零す。私の知る限りでは有名だったと思いますよ、そうか、とても素敵だな。
 ここは理想郷なんだね、と言ったのは誰だっただろうか。それぞれがそれぞれの幸せを持って、持ち寄って。不可能はどこにもなくて。誰にとってもいいあり方で、世界は動き続けていて。
 心地よい響き。そう、ここは理想郷なのだ。
 
 
 昔、ほんの少しの間だけ、一人の少女が存在していた。純朴なあどけない少女は、この地を去った無二の例外になった。当時、地平線の果てまで僕は懸命に探した。それでもやはり、彼女は居なくなっていて、消息も居所も不明なのは、今も変わらない。
 理由が分からなかった。理屈が、原理が、分からなかった。なぜ理想郷を捨てたのか。どこに、どうやって姿を晦ましたのか。消える事すら、自由で可能なのか。未聞だった。世界には幸せだけがあって、全員が幸せを心から願い、求め、愛する。ふっと人一人が世界から取り除かれる状況に、そもそもなりはしないのだ。
 前触れもなく、急にその事を思い出していた。夜が来ていた。
 
 
 権利がある。小説家は風で奏でられる小さな鈴を家に吊っていて、それが彼女の幸せを飾るものなら、正しい。そして僕が幸せとして全くの静謐を求める時、僕には音色が届かない様にするだけでよかった。
 美意識、と言うのは難しい。住居を持たないのは僕だけだった。許された空間で誰もが各々の理想を形作り、僕はその度に感嘆の声を上げる。なくても困りはしない。ただ、僕には理想の完成図が思い浮かばなかった。いざ試みても、どこか他者の影響が滲み出てしまって、確かに美しいのだけれど、既存の枠を抜け出せないでいる。
 その時、にわかに込み上げた。これは不幸なのではないか。
 衝動だった。一度生まれた疑いが次から次へと新たな疑いを呼び、僕は駆け出していた。誰でもいい。最も近かったのは、件の小説家だった。彼女の元を尋ねる。奥の方であの鈴が、ちりん、と鳴った。
「あら、こんばんは。どうしたの?」
「教えて欲しい事があるんです」
「私に答えられるかな。どうぞ」
「……この家、とても素敵です。他の人たちよりも特徴的で、心が落ち着く様な。色んなものがあって、鮮やかで、僕の知らないものばかりで」
 止めどなく畳み掛けるのは、きっと怖かったから。けれど、呼吸を整えた。真実を、彼女に問うた。
「あなたはどこで、これを知ったんですか」
 一瞬、驚いた様子を見せた。おかしな事を言う、そんな表情で。
「……以前、私の居たところ。皆、違うみたいだけれど」
 それでも、彼女は話してくれた。余計な言葉は挟まなかった。
「私がかつて、生きた世界よ」
 
 
 やがて僕は、全貌を理解した。
 僕の生まれはこの地だった。当たり前の様でいて、本当は唯一の異端だった。
 もう「理想郷」とは呼ばない。仮にここを「終末」と名づける。僕は終末で命を授かった。孤独で。たった一人で。
 そして他の皆には必ず「元の世界」があった。だからその世界にあったものを知っていて、それに基づいて、自分なりの幸せを構築した。しかし終末生まれの僕だけは、自分だけが持つ知識と言うものがなかった。自分だけが作れる幸せを持たなかった。
 僕は、やり方を覚えて行く。世界を観察する術を。
 それは無限だった。幾重にも広がる、数多の世界。そして終末は、中心にあった。
 ありとあらゆる世界は終末に繋がっていて、選ばれた善良な魂だけが最後に辿り着く。実際には、全ての魂が向かっていた。ただ、途中で消えてしまうのだ。或いは、何度も降り注ぐ雨の循環の様に、世界へ向かって再び落とされた。淡い夢の、またたきの様に。
 終末、幸せだけのある世界。僕はそれを、平等の証だと思っていた。
 本当は違った。ここへと至る条件は、全ての魂にとってあまりに重過ぎる。幸せは、決して平等ではなかった。
 世界の理、構造だとしても、僕には納得が出来なかった。今まで僕の享受していた、当たり前で厖大な幸せ。なぜそれは、こんなにも厳しく篩い分けられなければならないのだろう。理想郷は等しく、誰の目の前にあってもいい筈なのに。
「私はこの場所を『てんごく』か、そこに類した、光の果てだと思っていたよ」
 小説家は語った。そして観測を続ける限り、終末に繋がる世界は余さず、彼女の知る概念と同様のものを有していた。
 どうして救済は、命の後にしか起こらない。
 それから僕は、時間を尽くした。全ての世界の行く末の為に。
 
 
 平凡に愛を成就する者、人に生まれて人を嫌う者、似せて造られた悲劇的な者。僕は殆ど全てを観測した。ありとあらゆる世界を過去から現在、一切の意思が途絶えるまで。
 その中に、あの時の少女を発見した。戻っていたのだ、元居た世界に。しかし、彼女の運命は短かった。繰り返す様に、その世界からも消えてしまった。怪異的な理。妙な現象を起こす世界も、少なくはなかった。
 最後に、二つの世界が残った。どちらも人間は絶えていた。一つはとても小さな世界で、取り残された人ならざる意思。それもやがては虚しく事切れた。少しだけ、僕に似ていた。
 そしてもう一つの世界――ここだけは、全てを観測出来ていない。「現在進行形」、そう、未だに途切れない意思がある。
 元々は普通の、無垢な少女だった。なのに突如として運命は歪められ、存在の形を変えた。歴史が動くにつれて彼女は希薄になり、通常人の目には映らなくなる。それでも、偶然に見出された。新たな名前を授かり、限られながらも人と共にあった。
 時は経ち、生命は無に帰って、彼女だけが存在を続けている。意識は更に濃度を下げたけれど、尚も本能の様に、ただただ幸せを探し彼女は彷徨う。
 もう何もない世界で。
 
 
 殆ど完全に、各世界の事例を網羅した。とても、とても長い時間を費やして。
 果たして僕は、理解に足りただろうか。幸せのあり方を。
 いずれにしてもこれこそが、自分だけが作れる幸せの筈だから。
 終末に於いて、人は自由だった。何だって出来た。草花の上に体を浮かべ、涼しさが欲しくなれば空気を調える。風に音を織り交ぜ、星を眩しくする。
 そうだ、僕には何だって出来る。
 誰にでも本当の幸せが訪れる世界、例えそれが、新たな世界を創造する事だって。
 空を描く。絵筆で撫でる様に。
 大地を握り締める。愛情を込めた手がそうする様に。
 根幹を築く。言葉を美しく並べる様に。
 命を宿す。磨き上げる様に。
 それから、ちょうどこの為みたいな言葉を、僕は教えて貰っていた。
 ――「光あれ」。
 さあ、始めよう。
 開闢の言葉、原初の歌を。
 僕が目指した新しい世界へ、今なら告げられる。
 
 
 
 
 
 そこであなたは目が覚めた。


 あなたには「淡い夢を見ていた」で始まり、「今なら告げられる」で終わる物語を書いて欲しいです。
#書き出しと終わり
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