ねえ、エリン(掌編/短編)

 淡い夢を見ていた。そこに、夢としての自然さはなかった。
 まるで何かを刷り込もうとする様な、人工的な映像。今思うとそれは、夢だったのかさえ怪しかった。
 あなたの笑顔を、私はそこでしか見た事がない。
 
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「……ねえ、お姉ちゃん」そうやって話し掛ける時の声は、この部屋ではいつでも寂しい響きをした。当然だ。どれ程待っても、返事はないのだから。
 0208号室。本棚や机、綺麗な食器類の揃えられたキャビネットなんかはインテリアーとしてはとてもよく出来ているけれど、実際に使うのはベッドくらいのものだった。この家具たちが設えられた真意は、あまり掴めない。細かい事に、キッチンにはボウルからハンド・ミキサー、何を切る用途なのかも定かではないくらいずっしりとした包丁まであるのに、私たちには殆どが無用の長物だった。殺風景でない事だけは、演出されている。
 エリンと「姉妹」と言う関係になって一箇月近くが経ち、お姉ちゃん、なんて呼び方にも慣れ切った――私は。彼女がどうなのか、それは測りかねた。
 ずっと、一方通行になってしまう。と言うよりは、通行すら、させて貰えていないのかも知れない。心を開いてくれる時が、いつかは来るのかな。何をすれば、私の気持ちは伝わるのかな。ねえ、エリン。
「二人の事はお前が勝手に決めろ、ロニセラ」
 エリンと初めて会った時の事を、よく覚えている。ロニセラ、と言うのは施設の人間が使う識別名で、ナツ芽とエリン、そのどちらも、0208号室の中で生まれた名前だった。
「お前の新しい『姉』だ。こいつは腕がこんなだし、喋れないらしいからな。おまけに表情までピクリとも変わらんもんで、どうも感情があるかさえ疑わしい。ともかく、まともなコミュニケイションの方法を持たない。お前がよく面倒を見てやれ」
 右だけが異常なくらい長い腕の先に、人一人なら軽く握り潰せそうな程大きく黒く、筋張っている手。この特徴はどう好意的に解釈したって、フェルラの失敗作にしか見えなかった。
 ――フェルラ。「プロジェクト・フェルラ」によって作り出された人工生命の総称。私たちが把握している情報はとても狭いけれど、少なくともここはフェルラの研究・開発施設で、0208号室のあるこのフロアーは、外部には秘匿と言う事だ。つまりは、フェルラに関して非人道的な、或いは倫理や法律に悖る実験を行う為の場所。実際、体で知っている。これまで私は二回、エリンに至っては九回も材料にされたのだから。
「……目、綺麗だね」
 続いて零れたそれは、オルゴールの最後の一音みたいだった。何を思ったんだろう。変な、言葉だ。きっとエリンも、妙に感じている。何気なく、部屋の隅っこに据えられた鏡台に自分の顔を映してみた。私は、綺麗だろうか。
 殊に特定のパーツを挙げなくたって、フェルラはよく出来た存在だ――そう作られているのだから。外見や能力、例え多少の変異が起こっても、大部分では。それでも。
 やっぱりエリンは、忌み嫌っているのだろうか。「失敗作」たる所以を。
 私にはあなたが居る。それだけでいい。
 あなたは違うのかな……ねえ、エリン。
 
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 実験室に連れ出された私は、ただ目を瞑って寝そべっていればよかった。何をされるかなんて今更気にしたりしないし、体は麻痺させられて、どうせ動けない。
「最近どうなんだ? ロニセラとリナリアは」
「まあ、そこそこってとこだな。ロニセラは遺憾なく特性を発揮してくれてるよ」
「……〈無条件の愛〉、か。リナリアで六人目だっけか、あいつの姉は。それまで何度も危ない目に遭ってるってのに、相も変わらずなんだな」
 下らない。あれだけ観察だの研究だのとのたまっておいて、何も分かっていないんだ。私の事も、エリンの事も。
 言葉通りの〈無条件の愛〉なんてものは、もう存在しない。会話の内容通り、それまでにあてがわれた五人の「姉」たち――いずれも例外なく「失敗作」であり、同時に全てがとても危険な個体――によって、本当はとうに壊されている。相手が誰であれ特性に逆らえないのは確かかも知れない、けれど、内心では恐怖に震えているのだ。殊に失敗作や、お前たちの様に信用ならない人間なら尚更。裏を返せばそこにちゃんとした〈愛〉が生まれたのなら……それは本物だ。
「リナリアは?」
「全く分からん。ロニセラが話し掛けたら、首を振って答えるくらいだよ。やっぱり、感情なんか持ち合わせちゃいないんだろう。右腕があまりにも重過ぎて、自発的に動くのさえ一苦労みたいだからな。目立った変化や行為は殆ど見られない」
「ま、床に届いてるだけマシじゃないか? 幾らフェルラが優れてるったって、あんなもんぶら下がってたら、いつか肩ごとなくなっちまうからな……よし、始めるぞ」
 耳慣れない音。手に触れられる感覚。何も考えない様に、精神を無に近づける。
 気が狂ってしまう前に。
 
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「これね、鉛筆、って言うの」
 鉛筆くらい知っている、とは考えない。それは不思議と二人にとって、心地よいものに思えた。多分、綺麗な瞳だ、なんて話題よりは、ずっと。
 穂先をしゃりしゃりと削る音、うっすらと立ち上る木の香り。ただただ好ましかった。戸棚にしまってあったアウトドアー・ナイフはこれ以上ない嫌味だと決めつけていたけれど、仮にそうだったとしても、この時間の為に許した。
「……お姉ちゃん、左手だったら持てるかな」
 研いだばかりの鉛筆を、その柔らかな手で握らせようとする。指先から指先へと渡って、それは不格好なりに、正しい筆記の姿勢を保つ。
「何か、書いてみる?」
 幾つかのメモ帳が机の上にある事は知っていた。小さなロウ・テイブルに移された薄桃色のそのペイジに、書かれたものは何もない。エリンはただ、じっと見詰めていた。
 やがて徐に動かした左手は、酷く歪んだ一本の線を描いた。同時に、からんと音を立てて、鉛筆は手から零れ落ちた。エリンは少し、困った様な表情になった、と思う。
「左利きじゃないのかな、お姉ちゃんは」
 遠回しな、ぎこちない言葉だった。距離感を表しているみたいで。溶けあえば黒くなってしまう絵具みたいで。途端に私は、エリンを手離したくない、そんな気持ちになって、縋る様に落ちた鉛筆を取った。文字には起こせない感情を、書き殴った。
 それからすぐに、二人で文字を書き合った。時には絵であり、模様だった。戯れの一環だった。構わない、それでいい。私の引いた線にエリンの線が重なって、繋がって、広がって、交差して、気づけばもう解読の出来ない、心になった。
 何者にも侵されないし、犯させない。望むのは、それだけだったのに。
 
 最後に書かれたのは、彼女の、一筆々々がとても丁寧な「好き」と言う文字だった。
 私はその時、全てを決めた。あまりにも、悲しかったから。
 
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〈――リナリアが逃走、現在エリアC。各自無力化に当たれ。繰り返す――〉
 緊急連絡は、館内放送でお構いなく流された。廊下の向こうから近づいて来る声も、耳に捉える。
「……、リナリアがどうやって逃げたってんだ、あの腕じゃ無理だろうが」
「知らん、油断するなよ。ヤツは仮にもフェルラ――」
 その会話の隙ですら、私には油断と同義だった。哀れにも研究員たちが、こんなにもフェルラを見くびっている。
 ねえ、エリン。あなたは今、何を感じているのかな。
 やっぱり、私を恐れるのかな。
 
 エリンがまた、部屋の外へと手を引かれて行った。流れはもう、頭の中で整っている。
 皮切りに、アウトドアー・ナイフを天井付近の監視カメラへと投げつけた。力に頼っていい動作は、線を書く事より遥かに楽だ。思ったよりも派手な音は立たず、それはどうにも小さな破壊だった。
 時間の猶予はあまりない。体全体を引きずる様にキッチンへと向かい、あの非常識なサイズの包丁を取り出す、そして、

 異形の右腕へと、思いっ切り叩きつけた。

 一撃で切断される、血が噴き出す、規格外の痛みが襲い掛かる。出せる筈もない声が、喉の奥を突き破ろうとする。違う、こんなもの……こんなもの、エリンの痛みに比べたら。
「おい、何が――」
 一切の警戒をもしなかったのか、様子を確認しに来た研究員はあっさりとドアーを開けた。自由な軽さを得た私は、同じ包丁を、今度は水平に薙ぎ払う。痛覚は私を鈍らせも覚醒もさせた。最初の事は、すぐに終わった。
 そこからは0208号室の外で、さっきの事を反復するだけだった。出くわしては斬り、声のする方へ駆け抜けては殲滅を進めた。一度、銃弾が右肩を撃ち抜いたけれど、既に私の体に於いてそこはデッド・スペイスで、負傷以外の意味を持たない。
 火器を奪う事は、計画の段階で考えてやめていた。繊細な操作は左手に向かないし、手が塞がっている。両方を携行する事は難しい。それに得物が斬れなくなっても、殴り潰すくらいの自信はあった。
 エリンはきっと、実験室に閉じ込められている。やや希望的観測だけれど、人質にされたりはしないだろう。研究員たちには、エリンが私に〈無条件の愛〉を示している様には見えていても、私の愛情なんてこれっぽっちも知らないのだから。
 彼女が最後に書いた「好き」の言葉を見た瞬間に、私は限界を悟った。その不幸に、耐えられなくなった。エリンは私の事を、愛してなどいない。目の奥でずっと怯えていた。私は彼女にとって「ナツ芽」と言う一人の存在ではなく、ただの「六人目の姉」だった。
 でも、でも。……私は、愛してしまった。
 エリンはその〈無条件の愛〉の所為で、研究員に歯向かったりなどしない。どれ程心の底で憎み、嘆き、怖がっていたとしても。そして私が反旗を翻そうとしても、彼女の目のあるところだったなら、止めるに違いなかった。
 私もエリンも、いつか、使い潰される時が来る。実験材料として保管されているのだから、それは承知だった。私だけならどうでもいい。どうせ作られた生命だし、存在理由も持っていなかった。
 けれど、私にはエリンが居た。この無謀な作戦で彼女が幸せになるとは、まだ思えない。ただ、今ある不幸は彼女にとってとてもよくないものだった、それだけは確かだ。
 何人が配備されていて、何人が戦闘員なのかは把握していない。あらかた片づけて、勢力と遭遇しなくなったタイミングで、奪ったキーを口にくわえて実験室に向かった。窓越しに、彼女の姿を確認する。武器を一度床へ置き、キーに持ち替えて、扉を開ける。
「……お姉、ちゃん……?」
 ――分かっていた。そしてその上で、予測の範疇を遥かに上回るくらい、エリンは戦慄しながら、無理やりな笑顔で私を迎えた。
〈 に げ よ う 〉
 あまりにもつたないメモをポケットから取り出して、彼女に突きつける。この際、全てを無視した。元々私に心を開いていなかった事、右腕を斬り落とし、夥しい返り血で染まった姿である事。
「どう、したの……? ねえ、お姉ちゃん……、ここの人たち、皆死んじゃったの……?」
 頷く、それしか私には出来ない。
「な、何か理由があるんだよね……? こん、なの、おかしいもんね……?」
 そうだよ、エリン。最初から最後まで、何もかも、おかしいの。
 その時、遠くの方で空気が変わった。増援、かも知れない。咄嗟にメモを血で一閃して、強引に書き換えた。
〈 に げ て 〉
「逃げ……れば、いいんだね、分かった、そうするね、」
 脱出ルートは、見当がつく程度だった。そのメモも押しつけて、踵を返す。
「待って、っ、お姉ちゃんはどうするの」
 どうする、か。……どうしようもないんだ、エリン。終わりが近い事、少し前から、右腕がずっと知らせている。
 無責任で、ごめんね。無茶な手段で、逃げ切れるかも分からなくて。その先も、何一つ保障出来なくて。
 怖がらせて、ごめんね。そんな顔をさせて。きっと忘れられないよね。私も、こんな形であなたの記憶に刻みたくなんてなかったんだけど。
 最後に伝えたい事があるの、ごめんね。酷い話だけど。好き、なんて言わないから、許してね。
 実験室の大きな壁に指で直接書くのなら、難しくはなかった。不吉な赤いインクで、本当なら、文字には起こせない感情を。本当なら、解読の出来ない心を。

 ねえ、エリン。
 ありがとう、って。
 私に教えてくれたもの、あなたに、今なら告げられる。


 あなたには「淡い夢を見ていた」で始まり、「今なら告げられる」で終わる物語を書いて欲しいです。
#書き出しと終わり
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