「毎日がつまらない人」が浪費に走る納得の理由

ストア哲学の中心的な考え方は、自分のコントロールできないものは手放し、コントロールできるものだけに力を入れなさいというものです。

たとえば、嫌な奴からひどい目に合わされて、腹が立ったとしましょう。しかし、いくら腹を立てたところで、そいつが嫌な奴であるという事実は変わりません。怒ったところで、相手には通じないでしょう。それならば、内面でムダな怒りを起こすのではなく、別の考え方をしようというのです。

「ああいう奴は信頼を失うだろう。だから、人に対してこういう嫌なことをしてはいけないということを、自分が学ぶ機会だったと考えよう。そうすれば、自分はより信頼を得られる人間になるし、長い目で見ればそのほうがメリットがある」

こんなふうに考えれば、あらゆるエゴに立ち向かい、克服することができるのだというわけです。自分の心をコントロールするところに立ち返るというこの姿勢は、『モンク思考』と非常に近いものがあると思います。

もちろん、怒ることが必要な局面はあります。でも、今の社会の在りようや、人々のマインドを見ていると、冷静な議論をすっ飛ばして怒っていることばかりで、これでいいのかと思います。怒っている人を見ていると、たいてい自分が正義だと思い込んでいますからね。

怒りの中にいると、本当は自分が何を求めているのかがわからなくなりますし、どんどん怒りだけが増幅してしまいます。そこを内省し、コントロールすることによって、ようやく冷静な議論が浮かび上がって来るのです。

平凡で健全な日常を求める時代へ
こういった自己コントロールが求められている背景には、2010年以降の時代の精神があるように感じています。

バブル崩壊後、長い平成30年不況と言われるなかでも、2000年代はまだ外貨預金や投資が増え、勝間和代さんブームが起きるなど、短期的には景気の良かった時期もありました。しかし、それもリーマンショックで吹き飛び、もはや右肩上がりの成長は望めなくなった。

その後に東日本大震災が起き、多くの人が「富を蓄えていても、あっという間に自然災害で失ってしまうのだ」ということを目の当たりにしたわけです。

そして、現在は、お金持ちになってのし上がることを考えるよりも、持続する平和を求め、平凡で健全な日常を続けていきたいという感覚にシフトしています。

同時期、アメリカでも「タイニーハウス・ムーブメント」が起きました。大きな家を買うのではなく、小さな家で豊かに暮らそうというもので、70年代のヒッピームーブメントへの回帰とも言えます。

「平凡な日常」という言葉は、かつては退屈なものとされていました。たとえば、1990年から連載の漫画『クレヨンしんちゃん』では、平凡なサラリーマン一家が描かれていますが、それは退屈でつまらないという感覚で捉えられています。一方で、アウトサイダーとして生きることがカッコいいとされ、憧れられてもいました。

ところが今となっては、東京近郊に庭付き一戸建てを持つしんちゃん一家は、アッパーミドルです。ほかにも、『サザエさん』一家などは、東京都世田谷区に大きな庭付きの一戸建てを持っているのですから、大金持ちということになりますよね。

かつては退屈だとされていた平凡さが、いまは憧れの的になっている。そして現実には、いつ自分が崖っぷちになるかわからないという格差社会や、老後の不安がつきまとっています。

だからこそ、ますます平凡な日常が愛おしい。それが「なにものにも乱されない心を保つ」という感覚にマッチするのでしょう。こういったところに、『モンク思考』は深くリンクしています。

「ルーティン」についての章に、朝起きて、一日のスタートを気持ち良く切るのが良いということが書かれていますね。

これは、一種のマインドフルネスのようなものだと思います。これがあると、よし今日もこれから仕事するぞと前向きな気持ちになれるのです。

また、皿洗いのようなタスクにも、集中することで、日常を生まれ変わらせることができるということも書かれていますが、これもとてもよくわかります。食後に皿をきれいに洗って、ピカピカに拭いて、棚に収めるととても気持ちがいいものです。

「心のマウンティング」のための贅沢
振り返れば東日本大震災やリーマンショックの前のかつての僕は、高級レストランで派手に楽しんでいましたし、家で料理すると言えば、アワビやフォアグラなど高級食材を買ってくるという話になっていました。

今となっては、なんであんなことをしていたんだろうと思いますが(笑)、結局、自分はこんなにいい店に通い、こんなに高い食材を買っているんだということで自分自身の成功の証を確かめる、心のマウンティングをしていたにすぎないのではないかと思います。

私と同年代の人々の多くは、当時、高い車を所有する自分、高い店を利用している自分、そういったステイタスにふさわしい自分になろうという、「期待値」で生きる時代を過ごしていたのです。

決して高級な料理ではなく、いかにナスの塩もみを美味しく食べるか、凝ったものを使わずに、日常で手に入るものでどう豊かな食事をとるかという健全さができているのです。

たとえば、今日のブランチは、昨夜炊いた食べ残りの玄米を洗って、そこにキュウリとナス、塩昆布をのせて、冷たい出汁をかけて食べました。これが夏らしくて気持ちいいなと思えます。

これは、禅の精神のようなものでもあるでしょう。健全な日常が、いつまでも続いてほしいという心の現れだと思っています。

コロナでリモートワークが増えたことで、家にいる時間が長くなり、日常に対する感覚の変化が加速しているとも言えます。

コロナ以前は、都心回帰があり、東京都内では駅前に割安のタワマンが建つなど、バブルの頃に買えなかったものを若いサラリーマン世帯が買うということが起きていました。

子どもがいない夫婦でも、駅近の1LDKぐらいのマンションに住んでいて、家はあくまでも寝に帰る場所であり、そこでくつろぐということはあまり考えられていませんでした。

ところが今では、夫婦2人ともがリモートワークになり、1日中家にいるので、気詰まりで、嫌になってしまったという話をたくさん聞きます。

週1出社でよいとなって、郊外の広い3LDKなどに移り、日常を楽しめるようになったという人も増えていますよね。夕方は満員電車に揺られていたのが、いまでは自宅での仕事を終えたら、ベランダに出て、空でも眺めながら、ちょっと冷えた白ワインを飲んでみる、というようなことをしているわけです。充実度が違いますよね。

通勤時間がなくなり、仕事以外のことに興味を持てるようにもなって、自分の身のまわりや内面に目を向ける人も増えているのではないでしょうか。

昭和の成長時代にあった「幻想」
空いた時間を何に使うのかと考えた時、それを自己啓発本を読むことに充てる人は少なく、プランターに野菜を植えてみたり、手芸やプラモデル、料理など、より地味な方向へ向かっているケースが多いように感じます。これはマインドフルネスですよね。

昭和の成長時代は、出世して、将来なにかできるという幻想を見ながらみんなが必死に働いていました。サラリーマンは、頑張って偉くなって、部長になり、定年したら夫婦でゆっくり世界旅行をするぞ、なんて思っていたのです。当時は、定年後の生活を楽しく描いた連載なども人気がありました。

しかし、今はそんなことはできません。お金もないし、生活習慣病でメタボになったり、体を壊したり、そして妻には遊ぶ友達がいて、夫にはどこにも居場所がなかったりするのです。

一方、地方の漁村や農村などへ行くと、いつでもお年寄りが幸せそうにしています。マウンティングなんて人生で一度もしたことがなく、若い頃からずっと漁業や農業をやっている。訪ねてきた人に、野菜を分けてあげたりして、ニコニコと笑顔でとても気持ちがいい。

土を掘り、野菜を育て、収穫するというような健全な日常を送り、余計なことは考えない。第一次産業に従事する人々こそ、日々マインドフルネスだと思うのです。

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