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優しさを言葉に乗せるには。

優しい人は、「決断」する人。
優しい人は、「責任」を負う人。
優しい人は、「言葉」に重みのある人。

優しさの定義

優しい人ってどんな人だろう?とよく考える。

私自身、そんな優しくもないし、言葉遣いに優しさが染み付いているわけでもない。
幼少の頃は「言葉遣いが悪い」とよく怒られたし、恥ずかしながら大人になった今も、決して綺麗な言葉が使えない。

その上で最近考える「優しさ」について、言葉にしてみようと思う。

もちろん優しさの定義はたくさんあると思っている。

優しい態度
優しい声かけ
優しい表情
優しい仕草

などなど、あげればキリがないものだ。

けれど私が最近特に意識している「優しさ」がある。
それは「責任を負う優しさ」だ。

大切な優しい人たち

しんどい時に話したくなる人がいる
その人と話しているとホッとする。
そういう人は自分にとって宝だ。

しんどい時に思い出す人がいる
その人の思い出だけでホッとする。
そういう人は自分にとって支えだ。

しんどい時に相談する人がいる
その人の声かけだけで気が引き締まる。
そういう人は自分にとっては芯だ。

どの人の優しさも
それぞれ素晴らしく
それぞれ大切で
それぞれ必要なもの。

けれど私はそこまで優しい性格ではないので、周りの人たちへ、そんな優しさは届けられないと思う。
でも唯一できていることとするならば、「決断する優しさ」なのだ。

代表に課せられるもの

私は小さいながらも法人代表だ。
小さいながらも数名のスタッフに支えられ、事業を日々動かしている。

そして会員となる人たちも、そう遠くない未来に100を超える。
その100の医療職の向こうにはそれぞれ数十、数百の患者さんたちがいるので、合わせると数千、数万の人たちがいる。

日々の仕事の中で
1日数名の患者さんを見ていたあの頃。
物足りない、まだ足りない。
そう思っていた。
この人の暮らしを変えたい。
でもこの人の暮らしを変えても、次々に患者さんが訪れる。
間に合わない、イタチごっこの日々。
社会を変えるには、「決断」が必要だった。

「足りない、足りない」を、補うもの

独立し、全国各地の施設顧問となった。
1日に見られる患者さんの数に上限があるなら
集団を際限なく見たらいい。そう思った。

それでもまだまだ足りなかった。
だから私はまた「決断」した。

同じことができる医療職をもっともっと増やしたらいい。
そう思って育成事業に乗り出した。
でもきっと受講生が100人になろうが1000人になろうが、私は満足しないのかもしれないと、最近気がついてきた。

「決断」を優しさに変えて。

それでも私は日々「決断」する。

何を広めるか「決断」する。
何をやめるか「決断」する。
何を動かすか「決断」する。

私が決断したことには
私に「責任」がのしかかる。

責任を取るために決断する。

「任せるよ」
「合わせるよ」
「尊重するよ」

そんな言葉を、私は使えない。
その優しさが、苦手だ。
それは決断を委ねることだから。

決断はしんどい
決断はつらい
決断は苦しい

それを人にさせることは
私にはできない。

だから決断する。
そして、責任を負う。

私の背中には。

責任を背負っている人の言葉には
重みがある。
そんな人と居ると
しんどくなる人もいるだろう。

でも、無責任な人の言葉は軽い。
とてもとても、軽い。
だからこそその軽やかな言葉は
受け取る側にも軽やかで
魔力さえある。

けれどその軽やかな言葉に
責任という重みはない。
その軽やかさが
後に軽はずみなものとして
自分に返ってくることもある。

だからこそ私は
日々「決断」する。
日々「責任」を負う。

そしてその重みを感じることが、私にできるささやかな優しさの表現なのだ。

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