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映画「息衝く」を見てしまって
先月、「息衝く」という映画を見ました。
「いきづく」と読む。その言葉そのままの映画でした。
![](https://assets.st-note.com/img/1666964599083-RqCsgzgMZE.jpg?width=800)
僕の誕生会にも来てくれた岡村マキスケさんの出演作で
軽い気持ちでポレポレ東中野に出かけました。
そして滅多にないズッシリ重い感触を受け取りました。
なかなかその感触が言葉にならなかったのですが
ようやっとのことで書いてみます。長いです。
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映画は5年前に完成して、上映は終わっていた。
モチーフは宗教2世。
言うまでもなく「あの事件」の余波での再上映でしょう。
男の子2人と女の子1人の運命の話、ライフストーリーです。
映画には、3つの時間が流れていました。
① 宗教2世として共に育った男2人女1人の3人の子供の時間。
子供たちには「素敵なおじさん」としての教団のメンターがいる。
② 3人が大人になり、教団での政治活動にのめり込んだ時間。
主人公の男の子は活動で燃え尽きて教団を離れる。
もう1人の男の子は、教団の幹部にのし上がる。
女の子はシングルマザーとなりレジ打ちのパートで暮らす。
③ つかず離れず長い時間を過ごした3人が、失踪したメンターの
おじさんに会いにゆく時間。何かを確かめるために。
映画は、3つの時間が説明もなく唐突にランダムに現れては消える。
なので、目の前に現れる場面が3つの時間の中のどの瞬間を切り取って
いるのか、見ていて1時間以上さっぱり分かりませんでした。
宗教と政治が絡む設定で、原発と貧困と格差と疎外の問題も描く。
時間はバラバラで、題材はてんこ盛りで、トッ散らかって消化不良…
…のハズなのに。
普通そんな作りの映画は疲れるしウンザリのハズなのに。
どういうわけだか次々現れるどの絵にも、手重りのする
確かな感触があって目が離せない。
見続ける意思が途切れませんでした。
カーテンを開ける手。遠くの坂道の道端に座り込む男。
脈略なくポンポン投げ出されるぶっきらぼーな絵の連続。
何の意味があるのか?今でもよく分かりません。
なのに「ああ、絶対この絵でないといけなかったんだ」
という切実さが強く伝わってくる。不思議でした。
一番不思議だったのは3つの時間を貫いて現れる
「田無タワー」という大きな建造物でした。
![](https://assets.st-note.com/img/1666963890366-uNDJXAWzno.jpg?width=800)
子供の頃の3人は、メンターおじさんと一緒に
このタワーを見上げて夢を語っていた。
教団で燃え尽きた後の主人公が、警備員のバイト終えて
トポトポ家路につく街の遠景にも田無タワーが写っていた。
3人の他の時間にも、タワーは何度も、何度も
それこそモノリスのように画面に現れる。
![](https://assets.st-note.com/img/1666964017502-EnGAAZ9iTX.jpg?width=800)
上映が終わってトークショーで監督に質問してみました。
「ずっと写っているあの建物は一体何なんですが?」
同じ疑問を抱えていた観客からクスクス笑いが聞こえてきた。
「いや、あの、その..」
監督はまともに答えられなかった。
「あれは田無タワーと言って、80年代の末に建てられて…」と
ゴニョゴニョ答えただけで、あとはシドロモドロ。あれだけ
繰り返し画面に出したモノの意味を、言うことができないの?
でも、その「分からないのに見せる」にグッと来ました。
![](https://assets.st-note.com/img/1666964637490-p0mNMypeMD.jpg?width=800)
監督自身も宗教2世で、東北青森出身で、宗教と政治と原発を
ずっと身体で受け止め続けていた事をパンフを読んで知りました。
寄る辺のない孤独の中にいた大学時代の監督は、家族とは別の
新宗教にのめり込まずにはおれなかった過去もあったそうです。
信仰と政治が生活の真ん中にあった異様なドロドロの日々。
当事者ならではの生々しい記憶が映画の中に息づいてました。
監督は故郷、六ヶ所村の風景を見て、福島原発の爆発を知って
一体自分が生きている日常とこの国の命運がどう繋がるのか
どう繋げられるのかを悩み、黒いモヤモヤを全身で受け止めた。
俺はなんなんだ。この国はなんなんだ。どうにかできるのか?
そんな悶絶熟考10年の苦闘の日々を、仲間達と共に過ごして
この映画は出来たみたいです。
そんな重苦しい背景があったら、小難しくてウルサい話に
なりそうじゃないですか。全然そんな事なかったです。
本当に素っ気ない音と絵の連なり。ぶっきらぼーでした。
何気ない仕草と風景と無言。漏れる吐息のような言葉。
ああ本気で作ったんだなこの映画、とあらためて思います。
見て、ひと月経った今もズッシリした感触が残ってます。
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甚だ恐縮ですが、広告映像の雇われカントクの端くれの
我としても思うところありました。今年の初め、珍しく
発注主と膝詰めで議論して作れた結構な長編作がありました。
発注主の親分の熱い怒りと子供のような無邪気さに触れて
「この人の想いを伝えてあげたい」と素直に思いました。
その作中で主人公が自分の存在意義を疑うシーンがあった。
手持ちの素材の中には、その逡巡の想いを乗せられる絵が
なかなか見つからなかった。迷って試して、結局選んだのは
高架下の水路のガランとした風景でした。
奥の方には、橋を渡る自転車に乗った人も小さく見えている。
なぜこの絵が、その想いに適合するのか。
分からない。でもなぜか腑に落ちた。
普通なら広報映像にこんなうら寂しい絵は使いません。
でもこの高架下が、多分その作品にとっての田無タワーでした。
熟慮し、黙考した長い時間の果てに選ぶ「伝わる絵」は
おそらくそんな素っ気ない、なんでもない情景になるのかも
しれません。見る人の心が開いていればそれは伝わる。
分からなくても感じる。何かがきっとあると。
言うに言えない、もどかしい想いがあるんだろうなと。
「息衝く」は、ジャーナリスティックな意味を超えて
長生きする映画な気がします。上映会も続いてるし。
見終えて決して甘く、晴れやかな気持ちには成れませんが
薄陽が指すような希望と生命力はギチっと詰まってました。
ってか上映会やらなきゃなのか俺?
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