『noa』第一話「二人だけの”noa”」

 ユルは最後に、私とルヒトに不思議なマークの入った黒い革網みのブレスレットを渡してどこかへ行ってしまった。

「なあ、サラ。俺、noaに行きたい」

 折れた心の支え木は、私の知らないところでルヒトの夢になり、芯になっていた。だからそれが、私の夢になった。

     *

 少年は夢を見ていた。

 明け方、霜のついたキャンバスのように薄青い世界の中で、細い路地、積まれた木箱の上に歳の頃十六や十七ほどの少年が座っていた。煉瓦造りの住宅の壁に寄りかかり、片膝を立てて目を瞑っている。砂埃のついた白いTシャツにワイドサイズのデニムジャケットを羽織り、裾が少し余るジーンズを履いていた。足元には真っ白な布地に赤いラインと真黒烏のアイコンが入ったスニーカー。軽く目の端ににかかる黒い髪は柔らかく揺れている。日の光に照らされて、左耳に垂れる青い石のついたピアスが輝く。目は優しく閉じられ、口角は穏やかに上がっていた。大好きな音楽に身を寄り添っているかのように穏やかに見えるこの少年は、眠っていた。少年は同じ夢を見る。見える景色は青々と茂った丘と、その上にある石碑のような何かの前に立つ誰か。夢の世界にはそれ以外のものは何もなかった。この夢を見た日は決まって目覚めがいい。清々しい気持ちになって、身が軽くなる。その身軽さが本来の人の重さだと教えてくれる。
 そんな少年に近づく人影が一つ。木箱が日差しを遮り顔は良く見えない。影はやけに濃く伸びている。
「やっと見つけた、ルヒト。起きてよ。ルヒト~」何度も呼びかけるがルヒトと呼ばれる少年が目を覚ます様子はない。「まったく。どうせいつもの夢でも見ているんだろう。私は夢なんて一度だって見たことがないのに」少年を見上げる人影は腰に両の手を当て視線を落とし何度か首を振った。「でもまあ、眠りが深い分、私の方が肌が綺麗なんだけどね」芝居口調でそう言いながら、自分の頬を撫で顎を少し上げた。人影はご機嫌な様子で少年を起こそうとさらに身振り手振りをした後でパンッと手を叩いた。「ん~、だめか。なら、派手にいこう」
 人影は手を強く握ったように見えた。肘を引いて、弓矢を放つかのように空気を引き裂く轟音とともに拳を前に出した。
 バゴォォォォォォォォオオオ‼‼
 木箱は粉々に砕け、中に入っていた果物や野菜たちは見るも無残な姿となった。木箱の上で眠っていた少年は果物や野菜のジュースでびしょびしょに濡れ、木箱の破片がところどころに刺さり血が噴き出していた。木箱が崩れたことで伸びた日差しが細い路地を照らした。今まで真っ黒だった人影も色を持ち、その姿かたちが浮かんでくる。ルヒトと呼ばれた少年と同じくらいの年か少し幼く見えた。肩の辺りまで伸びる金色の髪と薄い肌の色、宝石のように澄んだ紫色の瞳。一目見てすぐに女性であるということは見て取れるが、その瞳や綺麗な鼻筋、薄い色をした肌はある一定の場所で女性という印象をとどめているようにも感じられる。ナイロン生地の白のアウターのファスナーは顎下まで真っすぐと閉められ、裾に絞りのあるナイロンで作られたピスタチオ色のワークパンツは彼女に呼応するように音を立てていた。
 しばらくすると果物や野菜、木箱の破片の上で張り付くようになっていたルヒトと呼ばれる少年の身体がぴくぴくと動き出した。
「おはよう! 出来損ないの翼をもつ鳥さん。今日は君が、初めて空を飛ぶ日だ」
 ルヒトはゆっくりと体を起こす。その途中で顔面や頭に刺さっていた木箱の破片は押し戻されるように抜けていき、すぐさま傷口は塞がっていく。
「おはよう。サラ」ルヒトは金髪の少女をサラと呼んで笑った。一縷の濁りもない羽衣のような笑顔。サラもつられて笑う。
 今日は、彼らの門出の日だ。

     *

――人々は雲の上に住んでいる。正確には雲の上にまで伸びる大樹の上に。人々は「大樹の大地」そう呼んでいる。

 この場所は、大樹の大地の中でも随一の小さな町。
 大樹の大地は普段からどの場所であろうと何かと騒がしいのだが、今日は一段と騒がしかった。まだ早朝にもかかわらず慌ただしく人々は動き回り、屋台や出店の設営をしている。
 開樹祭。数十年に一度、大樹の大地の出入り口が開く日に大樹の大地の全地域で催されるお祭り。人は悠久の大地マノアで生き残る術を見つけることができずに大樹の大地に住み着いたとされているが、その時どうやってこの雲の上にまで伸びる大樹のてっぺんに登ってきたのか。それはとても単純な話、入り口が開いていたからだ。ギンヌンカップと呼ばれるその入り口を通ると一瞬にしてこの広大な大地へと運ばれる。そしてそれは、逆もしかり。
「こんなふうになるんだな。早朝から忙しない」ルヒトはまだ寝足りないと言った様子だった。体の動きを確かめるようにあちこちを動かしながら大通りで忙しなく動く人々の間を行く。人々は皆、ルヒトとサラを横目に見ては目を逸らし、唾を吐き捨て、ギリギリ聞こえる程度の痛罵を浴びせていた。
「そりゃあそうだよ。今日は三八年ぶりのギンヌンカップが開く日。マノアの食材や資源、大樹の大地じゃ考えられないようなものが沢山入ってくる日なんだから」
「んー。気になるなら、欲しいものがあるなら、行けばいいんだ。それがある場所に」不満げに言う。ルヒトはしばらくして、ひらめいたという様子で手を叩いた。「今日でおさらばする場所だ。暴れることにしよう」
 サラは目を細めて口角を少しだけ上げた。「ルヒトくん、何をするって言うんだい?」
「『バカども』を片っ端から退治していこうじゃないか。もちろん周りへの被害は度外視だ。大義はこちらにある‼」
「賛成‼」サラは大きく手をあげた。
 サラとルヒトは笑い合う。次第に大声で回りなど気にすることなく笑い声をあげた。
 そんなルヒトの頭に拳大の石が投げつけられた。ルヒトの頭からは血が流れる。ルヒトの瞳は暗いフィルムを被せたかのように、目に見えて光が消えていった。視線の先からは黒い髪を立ち上げ煙草を口にくわえた筋骨隆々の大男が歩いて来ている。
「おい、クソガキども」ルヒトの目の前に来るとそう言いながら煙草の灰をルヒトの額にこすりつけた。ルヒトは顔色一つ変えずにその男を顔をあげてにらみつけた。「聞こえてんだよ。また、人でも殺す気か?」男の表情からは心の内を見透かすことはできない。
「殺しちゃうかもしれないね。エルガーさん」ルヒトは額に残った灰を払った。
「こんな田舎町でも都市への通り道、マノアから羽休めに上がってくる『バカども』が沢山くるって聞いたよ。祭りの準備なんかよりも、もっと重要なことがあるんじゃない? 暴れられたら困るでしょ? それを、私とルヒトがやってやろうって言ってるんだよ」サラは顔を傾け目を大きく開きながら言った。「名案だと思うけどね。なんと言っても私たちはすでに人殺し。間違いは起きない。だってそれは間違いじゃないんだから」
「ああ、間違いじゃない」
「『バカども』への対処は俺たちがやる。お前らなんかに頼るかよ」
 そう言いながら、エルガーはルヒトとサラの顔をジッと見ている。目尻が下がり、エルガーの放っていた圧のようなものが柔らかくなった。




――マノアにて人智の蓋を旅人ニレが開いてから、人々の可能性の幅は格段に広がった。魔術や呪い、占いの類から疑惑の色は消え、人それ自体から神秘が生まれるようになった。その最たる例がマノアからの贈り物「マナ」。

 とある田舎町で、隻翼を持つ泣かない赤子と、流動するおどろおどろしい紫色の左腕を持つ赤子が生まれた。マナの露出。悠久の大地マノアに愛されている証。二人が生まれた地でそれは、忌避の対象だった。
 まだ幼いルヒトとサラがそこにはいた。
「このシュガーアップル大きいね!」サラは木網のかごに入ったシュガーアップルを手に取り、手首を回して表面を見ながら言った。
「でも今食ってもうまくないと思うぞ。まだ熟してねえ。こっちの方が味はいい」
「おい!」奥の方からエルガーが鬼の形相で出てくるのを二人は見た。「あ、エルガーさ~ん、これ一つください」ルヒトはエルガーに向かって手を挙げた。するとエルガーはそんな言葉お構いなしにルヒトを殴り飛ばした。まだ背の小さいサラの顔を両手でがっしりとつかみその鼻先に膝蹴りを放った。二人はエルガーに殴り蹴飛ばされ、堅い石の路に頭を何度叩きつけられようと声一つ洩らさなかった。たくさんの果物が入った木箱を次々とルヒトとサラに叩き落し、ルヒトとサラの身体は血と果物の汁と木箱の破片でぐちゃぐちゃになった。「本当に、やめてくれ。お前たちが店の前に立っているだけでも向こう七日は内に客が全く来なくなる。おかげさまでここ一か月うちは大赤字だ」
 ルヒトは何事もなかったように起き上がるとポケットから硬貨を三枚ほど出した。「ほら、お金だよ。エルガーさんってお店向いてないと思うよ。だって売り物をいつも僕らにただでくれるじゃない。こういうふうにさ」
「ごみを捨てるにも金がかかるんだよ。金払っててめえらを回収してくれるってなら、いくらでも払うのによ」
「できるものならやってみろ!」地面にべったりと張り付きながら、サラがベーと舌を必死に伸ばす。
「今すぐ消えろ。これ以上話すと、気が狂いそうだ」

 ルヒトとサラは、町はずれにある小さな古民家の庭にいた。低い木に登りその枝に腰掛けるルヒトと黄緑色の芝の上に寝転がるサラ。
「ヤッパリな! こっちのシュガーアップルの方が甘くておいしい」
「何でルヒトは見ただけで味がわかるんだよー。大きい方がおいしいに決まってるのに!」
「まだまだだな。サラ!」
「また、エルガーのところを荒らしてきたのか?」そんな二人のもとに古民家から一人の老人が声をかけた。
「あ、マフカさん! おはよう!」サラがパッと体を起こしてその老人の方を向く。ルヒトは木の枝から飛び降りて、シュガーアップルを少しだけ老人に分けた。「すんごいあまいぞ。俺がちゃんと選んだからな!」
「あとでもらうよ。さ、中に入りな。どうせ今日も飯を食いに来たんだろ?」
 ルヒトとサラはマフカの家に上がり、マフカの用意していた飯をたらふく食べた。ルヒトは自分の身体の半分ほどはありそうな大きなバケットをかみちぎりスープで流す。サラはバケットを小さくちぎりスープでふやかしながら食べていた。その様子をマフカは静かに眺めている。マフカがルヒトとサラに飯を食べさせるようになったのは、もうずいぶんと昔のことだった。まだ幼いルヒトやサラにとってはそれこそ莫大な時間。
「エルガーにあんまり迷惑をかけるんじゃないぞ」マフカはルヒトとサラがバケットを食べているテーブルから少し離れたところにあるソファに座り、紅茶を飲んでいる。「あいつのことは乳飲み子の時から知ってる」マフカは二人から視線を外した。
「俺たちは何も迷惑なんてかけてないじゃんか。俺は知ってる。サラも知ってる。俺たちは何一つも悪いことをしてないってな」「またその馬鹿みたいに香りの強い紅茶飲んでんの? 大人の味って奴か」
「そうだよ、マフカさん。私たちは、何も知らない」
「そうだなあ」マフカさんは優しく微笑んだ。「もう少ししたら、飲めるようになるさ」
「ねえ、マフカさん」「いつもありがとう!」サラはそう言って笑った。ルヒトは口にバケットを入れたままもごもごと何かを訴える。エルガーにやられた傷はもう、ルヒトもサラもきれいさっぱりと治っていた。

 その翌日に、マフカは自殺をした。ルヒトが気に入っていた木の枝に首を吊って。十人以上の人だかりがその木の前にはできていた。マフカは体中から血を流し、歯は折れ、皮膚は捲れ、口は数センチほど裂けていた。皮膚も、影も、全体の印象も全てが黒ずんでいて、その一帯を目に見える重力が襲っていた。集まる人々は宙に浮くマフカなど見ることなく、何かを話し合っていた。
「なんだ~? マフカさんの家がこんなに賑わってたことなんて今まであったか?」
「ね! 私たちが行くといつも一人なのに」
 そしていつものように、ルヒトとサラがマフカの家へやってくる。まだ背の小さいルヒトとサラは、人だかりが壁となりその先の景色を見ることができていなかった。いつものように、ルヒトとサラはためらいなく進む。胸を張って進む。どんな仕打ちを受けようと、自分たちの正しさを信じているから。いつものように、人はルヒトとサラに道を作る。忌避の視線を隠すこともせず、痛罵を浴びせ、自分とはつながりを持たないものを使ってルヒトとサラに血を流させる。そこを抜けるといつも広い空があった。幼い分、一人で立ち、誰にも阻害されない大きな空を見るのは難しい。でも、そこを抜ければ見れる。そこで走り回ればいい。思う存分走ればいい。サラと一緒に。ルヒトと一緒に。いつもそうやって二人は歩いてきた。だから、これは初めてのことだった。
 サラはあらゆる感情を無視して現状の把握に努めた。自分たちはまだ健全でいられているのだろうか。ただの無垢な純粋さを持ち合わせているのだろうか。いつものようにためらうことなく、胸を張って進むことを続けられるだろうか。そんなことを考えているうちに体からは力が抜けていく。膝は大地につき、流れ方を忘れた透明な血液によって視界はどんどんおぼれていく。息の仕方を忘れていく。
 ルヒトがまず一番に考えたことは、どうして。
 続いて考えたことは、マフカの外傷のすべてがマフカ自身によって付けられたものだったら。
 それは、どれほどの狂気だろうか。ルヒトはその考えをすぐに排除した。ルヒトはマフカを信じた。しかし、ルヒトはすぐにわからなくなる。
【こんなふうに。】
「‼」
 ルヒトは首を固められて身動きが取れなくなる。幼い身体は簡単に宙に浮き、己の意思に反してその体は背後にいた人々へ向けられる。皆、薄ら笑いを浮かべながらルヒトへ向けて確かな殺気を放っていた。各々が鋭利な長道具を持っており、その刃は全てルヒトへと向いている。背後の男が話し出す。
「こいつの頭を狙えよ。そうすれば俺の首も飛ぶ。間違っても俺を生かすなよ。じいちゃんの怒りは、その類のもんだった」ルヒトは恐怖した。その声色が、あまりにも自然なものであったから。
 いくつもの刃がルヒトへと伸びていく。
 結果を言えば、ルヒトにもルヒトを抱えていた男にもその刃たちが届くことはなかった。ルヒトを抱えていた男の上半身は空間ごとえぐり取られたように乱雑な切り口で消し飛び、ルヒトの背中には体の二倍以上の大きさの隻翼が伸び、その翼の半分ほどが人の血によって赤く染められていた。
【その狂気に触れたから。】
 ルヒトは背後に転がる人だったものを見て、自分の左側に長く伸びる血濡れた白色の隻翼を見て、目を見開いた。そして、向かってくる長道具を持った人々を見て、目から光を消した。
 ルヒトは踏み出した。隻翼を仕舞い込み、こぶしを握った。伸びてきた槍を受け流し、こぶしをふるった。
 が、その拳はサラによって軌道をずらされる。
「サラ・・・」
 ルヒトの瞳からは、かすかに涙がこぼれた。この世に生を受けた時ですらただの一滴の涙も流さなかったルヒトは、ここで初めて涙の感触を知った。
 ルヒトの拳を流したそのままの勢いに乗せて、サラはルヒトに槍を突き出していた老婆の首を蹴飛ばした。文字通り、蹴飛ばした。
「ルヒト。サラとルヒトは、これからもずっと。一緒だよ」
 サラの左手は、ルヒトの拳を優しく包み込んでいた。

 マフカの家は轟々と燃えている。ルヒトは幹から伸びる太い枝に膝を立てて座る。サラはマフカの埋まる茶色い土の前に、やっと流せた涙の果てに、ただ座っている。虚ろな目をして。燃える家の前には一本の木と二人の子ども。少し離れた場所には十四の大人子どもの死体。
「何があった」
 日も暮れたころにエルガーがやってきた。エルガーの顔つきは鋭く、かといってこの状況に怒りを覚えているようには見えなかった。
「エルガーさん、七人ずつだ。俺とサラで。最初にやったのは俺だよ」
「そのあとすぐに、私もやった。」
「は?」エルガーはその言葉を聞いて、ただ呆けていた。頭をがしがしと掻いて、目を必死にこすり、右手を口元にあてて顔を強く握った。
「知ってた? マフカさん、孫がいたんだ。そんなこと一度も聞いたことがなかったな」ルヒトが呟く。静かな世にその言葉は良く響いた。
 エルガーはさらに強く顔を握った。右手はプルプルと震えて、今にも爆発しそうに見えた。「当たり前だろ。マフカさんは俺にとって親みたいなもんだ。あいつのことは、年の離れた弟だと思ってた」
「そっか」
 沈黙が続く。エルガーはただ立ち尽くしていた。ルヒトとサラの表情を見て、何の感情もわいてこなかった。怒りもない、恐怖もない、悲しみもない。エルガーは、絶望にも似たショックを受けていた。まだ十にも満たないような子どもが、返り血に濡れている。ルヒトもサラも、そんな自分のことを認めていた。ただの子どものように泣きじゃくればいいじゃないか。言い訳をすればいいじゃないか。どうせ始めたのはお前たちではないんだろう。
「エルガーさん」ずっとマフカの埋まる土の前で口を強く結んでいたサラが言った。「私たちは何も知らなかったけど、知っていることが一つだけできたよ。」
 エルガーは、燃える家も、死体も、すべて無視してその場を後にした。
 ルヒトはエルガーのその背中をじっと眺め、サラは地面に寝転がる。
「サラ。俺、遠くへ行きたい。ずっとずっと遠くに。」ルヒトは涙を流した。今の今までずっとため込んでいたものが一気に流れだした。目を必死にこすり、そのたびに涙はとめどなく流れ出てくる。目を赤く腫らして、顔を涙でびしょびしょにして。その姿は、年相応のものに見えた。
「じゃあさ、noaに行こうよ。人類最後の目的地。そこが世界から一番遠い場所でしょ」サラも泣いていた。積み上げて、掲げていたものを失った痛みではない。ただ悲しいから泣いていた。やりようがないから泣いていた。わからないから泣いていた。
 ルヒトはサラの目を見た。うるんだその瞳で。涙で濡れたその顔を向けて。何も口にはしない。必死に口を噤み、表情を抑え、サラに視線を向ける己の弱さを断ち切ろうとしていた。
「さっきも言ったでしょ。ずっと一緒だよ。サラとルヒトは」サラは瞳にたまった涙を飛ばし、ほほ笑んだ。




 エルガーはサラとルヒトをじっと見ている。あの日、エルガーはもうこの二人がこの町に帰ってくることはないと思っていた。現に数十日ほど二人の姿は消えたのだから。しかし二人は帰ってきた。いつものように、胸を張り、正しさを掲げて、二人楽しそうに。ほんの少しの変化をあげるなら二人はもう、町にあるどの店にも立ち寄らなくなった。そんな二人をエルガーは・・・。
「そんなこと、言うもんじゃねえ。お前たちは、自分を守っただけだろ」エルガーの身体からは一気に力が抜けた。まるで骨が丸々抜けたみたいに。
 ルヒトの目つきは目に見えてとがったものに変わった。そのままエルガーを射貫かんというほどに。
「最後の最後で汚れが気になったか。」吐き捨てるようにルヒトが言った。
 エルガーは鼻をふんとならす。「そこまで腐ってねえよ。」

 ――。

「冗談だよ、全部」
「じゃあね、エルガーさん」サラはエルガーの目を真っすぐと見た。
 ルヒトは、笑った。サラに向けるような屈託のない笑み。エルガーには背を向けながら。
 ルヒトは知っている。それを強さと呼ぶことを。
 サラは知っている。それを優しさと呼んではいけないことを。

     *

「若いな、いくつだ?」
 日も暮れた頃、ルヒトは東のギンヌンカップの場所にまで来ていた。じきにギンヌンカップは開く。たくさんの人が集まる中でルヒトは声をかけられた。
「十六だけど」ルヒトよりも頭一つ大きな背丈に長く真っ赤な髪。紺色のジャンパーに手を突っ込んだ青年だった。「おじさんは?」
「まだおじさんって年でもねえよ。今年で八六になるな」
「マノアにいた人?」
「何だつまらんなあ。」
「マノアにいると寿命が極端に伸びるのは有名な話だよ。マノアにいた時間が長ければ長いほど、寿命は加速度的に伸びていく」ルヒトは少しほほ笑んだ。「ところで名前は?」
「イロカワ・カジ。よろしくな」カジはルヒトに向かって手を伸ばす。
「ルヒト・グラトラ。こちらこそ」ルヒトはその手を握った。「カジはギンヌンカップを通り損ねたの?」
「まあそんなところだ。おかげで三八年もこんなつまらねえ場所にとどまっちまった」ほんと勘弁してほしーぜとカジは長い髪を散らした。「ルヒトはどうしてマノアに? 行きたい場所でもあるのか?」
「行きたい場所か。。。うん、同じ夢を見るんだ。その夢を見ると決まって清々しい気分になる。その夢の場所に行きたい」
「へえ、夢追い人か。珍しいな」カジは目を見開いて感心したように首を何度か縦に振った。「夢は、この世で最も綺麗な拾い物だ。誰かの優しい願いや思いが空気に溶けて、眠りにそっと寄り添う。大切にするといい。いつか、必ず出会う。その場所と。必ずだ」カジはルヒトの頭を乱暴に撫でた。
「それにしても逞しいこった。それで一人でこれからマノアに出るんだろ?」
「一人じゃないよ。勝負中。どっちが先にマノアの待ち合わせ場所に着けるかってね。サラは今、西のギンヌンカップに行ってるよ」
「へえ、因みに待ち合わせ場所は?」
「アップル・トューリー・タヴァン。ニレの酒場だよ」
 それを聞くとカジはあからさまに嫌そうな表情をした。虫が口に入ってきたかのように何度も唾を吐いた。「けっっ! もう唾ついてんのかよ。あー、くそくそくそ! しかもよりによってあいつらかよ。」カジは頭をこれでもかと振り回していた。ルヒトはもうすでにカジのことが割と好きになっていた。「まああれだ。トューリーに行けばルヒトに会えるってことだろ?」
 ゴゴゴゴゴゴオォォ。
 どこからともなく音がした。見える景色がねじ曲がっていき、次第にその歪みは一つの点に収縮していく。そして一気にその点は大きな円となった。
「開くぞ、ルヒト」
 ルヒトはジッとその円を見ていた。食い入るように身を前に投げ出して。
 そして円はちょうど中心の辺りから裂け始める。裂け目は段々と広がっていき奥の紺色に染まる景色がうっすらと見えてくる。そしてその景色はすぐに黒く塗りつぶされる。
 カジは腹を抑えて大笑いを始めた。「おいおい、幸先いいな!」
 ギンヌンカップからは翼竜ウィンプが数匹順番に飛び出してきた。一枚一枚が人の顔よりも優に大きな鱗、ぎょろぎょろと不気味に動く瞳、圧倒的な圧に、人々は気圧された。
 キエェェェェェェッッッッ!
 ウィンプが大声をあげる。大地が反動で震える。
「ここのギンヌンカップは一方通行じゃないのか!」誰かが叫んだ。
 カジはいまだに笑い続けていた。「それは人だけのルールだよ。他の生き物が人のルールを守るわけがねえだろ」
 人々が流れるようにウィンプから離れていく中でルヒトとカジだけがその場にとどまり続けていた。ルヒトが一歩前に出る。隻翼が勢い良く音を立てて伸びる。
 カジはその光景を見て強く手を叩いた。「くそッっっ!」
 そして、隻翼が伸びるのとは反対側の背中から翼のようにも見える植物の枝が伸びた。カジは大きく目を見開く。人々はルヒトから目が離せない。
 ルヒトは背中から伸びる枝から細く小さな枝を一本抜き取ると、カジの方を向いた。
「カジ、この枝燃やせる?」
「お安い御用だ」そう言ってカジはルヒトの持つ枝に青白い火を灯した。火はすぐに消えて、葉はあっという間に灰になった。「ありがとう、カジ」
 ルヒトはウィンプらに向き直る。

『シュロの枝を灰にして』

 ルヒトは手のひらに乗ったほんの少しの灰に息を吹きかけた。灰は導かれるかのように翼竜に伸びてゆく。
 灰に触れた翼竜らは一瞬空中で時間が止まったかのように動きを止めて、様々な色を抱えた球体が抜け落ちるのと同時に地面へと一直線に落ちていった。空中にとどまる球体は勢いよく爆ぜて、真っ暗い夜の世界を赤や紫や緑や青、様々な光の粒をまき散らし照らした。
 みなその景色に見惚れていた。ただ一人、カジを除いて。カジはその光景に全く興味を見せずにギンヌンカップへと足を進めた。
「ルヒト、いこーぜ! ここを通れば、マノアだ!」


 ――旅人ニレが人智の蓋を開いてから言われつくした言葉がある。
『マノアには、夢がある』
 彼らは進み続ける。甘美な魅力に惑わされながら、ひこばえの根差す地にたどり着くその日まで。


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