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第三回 ブタメン

ごきげんよう。あべおんじです。
背の順は基本的に前から3番目です。


僕の誕生日は4月12日です。平成15年4月12日。つまり、あとちょうど1ヶ月で20歳です。
まだまだ大人になりたくないのに、もう大人になっちゃうのか〜、という気持ちでいっぱいです。

本日3月11日は、僕の成人の前月祭というだけではありません。今日で東日本大震災から12年が経ちました。僕はその日、体育着の入った巾着袋で縄跳びをしたら顔面から見事着地して負傷し、早退してたまたまママと妹と一緒にいることができました。午後2時46分。あれから12年。早い。もうそんな経ったのか。
いま、震災を経験しない世代が今すくすくと育っていると思うと、不思議な感覚になります。

今回は、そんな震災を経験しない子どもたちとの、今日起こった思いがけない交流を始点として、どうして僕が大人になりたくないか、そんななかでどんな風にして大人になっていきたいかの決意表明をしたいと思います。


僕の家の近くには、ポプラというコンビニエンスストアがあります。都内は真新しいファミマばかりが建って、ポプラはなかなかお目にかかることができません。その店舗も例に漏れず、僕と同い年くらいじゃないかしらという感じの佇まいです。店の前では、令和のご時世に似つかわしくない喫煙所と、見たこともないキャラクターのガチャガチャが、哀愁を漂わせんばかりに客を出迎えています。

昼下がりに僕がそんな真四角のフォルムの同級生とプカプカ遊んでいたら、小学3,4年生くらいでしょうか、チャリンコに乗ってきたと思われる、ヘルメットを律儀にかぶった子どもたちが店から数人出てきました。

そんな彼らの左手にはブタメンが!!懐かしい。寒い時期はブタメンに限るのよ。何回も来てるはずなのに、ここのコンビニに売ってるなんて気づかなかった....______


彼らも店の前でそれを美味しそうに啜るので、僕はいつまでもそこを離れられない罪悪感から、装着していたヘッドホンを取って、「ごめんね〜」と話しかけました。ブタメンはいま、86円なんだそう。近くに駄菓子屋もあるんですが、そっちはお湯を使うのにプラス4円かかるので、ブタメンだけはいつもこっちで買うのだそう。

こんなにちゃんと話してくれるとは思わなくて、僕の頃はいくらで買えたかな、などと考えてたら、彼らのうちの一人が、なんとなんと、「これ、よかったら食べますか?」と一言.....!!

まさかそこまでしてもらえると思わなくて、いい年こいた大学生なのに申し訳なくて、でも彼の100パーセントの、ノーリターンの善意をないがしろにできなくて、ふた口だけいただきました。数年ぶりのブタメン。

味が当時と同じかどうかなんて考えてる暇はありません。大人はたかが86円、子どもはされど86円の愛が染みわたって、涙がちょちょぎれてスープに混入するのを必死にさけながら、美味しくいただきました。家帰ってから結局泣いちゃったけど。

ふた口だけいただきましたが、彼は「全部食べちゃっていいよ!」って言うんです。それはさすがにできないよ!!でも、その絶妙な判断に僕は心底共感してしまいました。なんだろう、思いがけず親切をしたときの、さらに親切を上乗せしたくなっちゃう気持ち(彼が潔癖症であるという説は、ここではひとまずないものとしよう)。

しかも僕はこんなことが起こると思わなくて、全身黒づくめの上にキャップとヘッドホンというかなりいかつい格好をしていたので、(渾身のニコニコスマイルで接してはいたのですが、)本当にそこまでしてもらえるとは思ってもみませんでした。僕が自分よりプラス10歳の、そんな風貌の大人に話しかけられたら、とてもそんなことできない。

しかもちょうど忙しい時期で、やり場のない怒りと不満にブスブスしてたので、本当に救われました。まさか何の予定もない土曜日が、かけがえのない1日になるとは。保護者の方が見えたんでせかせかと立ち去っちゃったけど、あとで会ったらヤングドーナツたくさん奢ってやるからな。


今日は、そんな優しいヒーローたちとの出会いのなかで、僕が感じたことを書いていきたいと思います。


思い返してみれば、前回のエッセイ「ハローキティをあなたへ」も子どもについての話でした。僕は案外、子どもが好きなのかもしれない。でもそれは、好きという感情ではきっとありません。むしろ僕は、子どもとは特別で、尊敬すべき存在であると考えているといえます。

ハローキティの回でも話したのですが(こちらは個人的に神回なのでぜひご一読ください)、子どもの時代、特に思春期に突入する前の頃は、「タイムカプセル」をたくさん埋めていかにゃならん時期です。大人になった僕への手紙を校庭の木の下に埋める、とかだけじゃなくてね。ここで埋めたタイムカプセルを掘りおこすことが、大人になってから(特に、育児に邁進するなか)のささやかな、しかしたいへん重要なお楽しみ要素になると僕は考えています。

子どもたちは身の回りのさまざまのうちから、何がタイムカプセルの素質を備えうるかを嗅覚で探し当てていく必要があります。でもそれは、探し当てるつもりで探せるものでもない。だからなかなかの体力が必要だし、それを5時の鐘が鳴るまでに毎日こなさなくちゃいけません。

そして大人にも、それらを提供すべくさまざまな機会を子どもたちに与える責任があります。だから親は習い事ばっかさせんなよ!!というのが僕の所感でもあります(僕個人としては、習い事のうちにほとんどタイムカプセルを埋めなかったので)。

まあ簡単にいえば、子ども時代というのは、大人になってから懐かしんだり、「アレってそういう意味だったのね!」的な感慨を覚えるための作品やら思い出やらを、無我夢中で掘り当てなきゃいけない時期なわけです。ひたすらインプット。まさに修行。

学校の勉強というのも、もはやある種のタイムカプセルなのかなという気もします。哲学やら経済学やらというのは本来、生きることや働くことが板に着いてきてから学びたいと思うようになるはずのものですからね。日本の良くないところは(こういう言い方はジジくさいのであんまり言いたくない)、まなび直しの制度が整っていないところだとつくづく思うおんじです。

逆にいえば、子どもの頃から勉強に関心のある人のなかには、タイムカプセルを嗅ぎ分ける嗅覚が鋭い人が多いのかもしれません。


さあお待ちかね。ここからはハローキティ回を読んでなくてもご理解いただける内容となってます。これより前に挫折した奴は知らん。



僕が子どもを尊敬するのは、彼らが弱い立場に置かれながらも毎日元気だからです。コロナのご時世ではそれが本当によくわかると思います。

今の子どもたちは、彼らのドッヂボールと砂ぼこりの時代を、ワックスと消毒液の匂いのする教室に幽閉されながら過ごしてきているわけです。彼らの苦労は計り知れません。しかも子どもは、自分たちがそういった窮地に立たされていることに自覚的にすらなれません。それが当たり前だしね。でも、それは薄々子どもも勘づいてるんだよ、というのは、大人が決して忘れてはいけないことです。

大人になると、子どもの頃の記憶というのは薄れていきます。「誰でもいちどは子どもだったけど みんな忘れてる〜♪」というのは、僕の大好きなこち亀のOPテーマの一節です。だから、どうしても大人は子どもの立場にたって考えるというのが難しくなります。そして何より、子どもというのは、ものごころがちゃんとありながら、まだ社会の成員として認められていません。だから大人、特に政治をする人たちは、子どもたちに批判されることは怖くありません。そもそも批判する権利がほとんどないのだから。

思い返してみてください。大人が居酒屋で騒いでコロナが広まったら、真っ先にロックアウトされたのは学校でした。学校に行けなくなることも、会社に行けなくなることも、当事者たちにとって重みは同じはずなのに、大人たちは邪悪な結託をして、社会を回さなきゃならんだの何だの言い訳して、自分たちの尻拭いをマイノリティである子どもたちに押し付けました。地球の環境問題の皺寄せが発展途上国に集まるように、社会が滞ったときの皺寄せは、子どもたちに集まるものです。

だから「子どもは遊んでるだけでいいから、呑気なもんだよね」などと吹聴するのは、本当にとんでもないこと。子どもというのは、逆風に耐え忍ぶ偉大なる方々なんです。

それでも子どもたちは、自分たちが置かれた厳しい状況に目をつぶりつぶらされ、毎日元気に登校して、お勉強をして、チャイムが鳴ったら下校して友だちと遊びます。大人に踊らされ、何ならその自覚もないなかで、それすらをも経験値にしてすくすくと育ちます。それで、僕にブタメンなんか差し出しちゃうわけ。もう感動です。すごいです。お分かりいただけるでしょ。




子どもの頃というのはつまり、逆風の時代、タイムカプセルの時代、しかも自分たちがそんななかにいるということすら自覚できない時代。思い出ばかりのようでいて、ハッキリと影の濃い、だからこそかけがえのない複雑な時代。だから僕は、大人になりたくないんです。

僕は周りの大人と同じように、そんな時代をいそいそと離れようとしています。弱さをインプットする時期が終わり、強さをアウトプットしなければならない時期にさしかかったわけです。まあそれはしゃーなし。でも強くなっていくと、自分の強さが幼い頃培った弱さのうえにある、ということを忘れていってしまう。それが恐ろしいんです。

近所の公園に集まって、ともだち妖怪を交換しあった3DS画面の小さな大きさも、運動会の日にママがつくってくれた揚げ物ばかりの特製お弁当の味も、お気に入りのランニングシューズの、マジックテープを剥がすビリビリの感触も。そして「子どもなんだから」と我慢させられたり、上級生にデブって馬鹿にされたことや、ブタメンの86円が高いと感じたことも。それら全てが遠のいていくのが悲しくてたまらんのだ。ふざけんな!

ハローキティの回でも話しましたが、僕は弱いものの悲しみがわかること、それが大人になるうえでとても重要なことだと思っています。大人になるには自分を認めなければならず、人はひとの悲しみを知ったとき、はじめて自分を愛すると思うからです。そしてその悲しみに最初に触れる世代が子ども、というわけ。

言い換えれば、その頃にどれだけ悲しみを知れたか(知ることとは、経験することと必ずしもイコールではないことには言及しておきたいです)、それを子どもでなくなっても心のなかに留めておけるかが、いい大人になるための必須条件だと僕は思うのです。成人としての権利は、権利が与えられない悲しみを知る者だけが立派に行使しうる者だと思うのです。つまり大人になるためには、子どもでいなくてはいけない。なんというアイロニー。ムフフ。




僕は大人になるギリギリ手前で、子どもたちとブタメンを食べるという思い出を築かせていただきました。そしてブタメンを通して、その他いっさいの忘れかけていた子どもの頃のさまざまを思い出すきっかけをもらいました。これは、いい大人になるための「タイムカプセル」を、久しぶりにひとつ埋めさせていただいた、といっとも過言ではないでしょう。

また子どもたちは、僕を“ブタメン“(メンはメンツのメン)のなかに心よく招待してくれました。「おじさんのこころはまだ少年の心を忘れていない、だからこれからも大丈夫」と励まされたような気がして、本当に嬉しかったです。それと同時に、大人になってもその調子でいけよ!と念を押されたのだと思います(こどもたちには全くそのつもりがない、というのも大事なポイントです)。彼らに忠告された以上は、約束を守らなければなりません。ブタメンで飼い慣らされてるわけですからね。指切りげんまんより何倍も重い契りです。だからここで決意表明をします。



宣誓!!
僕は大人になっても今日のこと、そしてそれまでの20年間の一切を、こころのいつでも取り出せるスペースに大切にしまいこむことを誓います!そしてもっとガキくせえ素敵な大人になって、もっと余裕ができたら、いつか子どもたちにブタメンを奢り返すことを誓います!次は保護者に見られても怪しくない格好で!

令和5年 3月11日
馬鹿田大学屁理屈構想学部1年 あべおんじ



来週は3回もバイトがあります。大人たちにもみくちゃにされなきゃいけません。あまりにも憂鬱だけど、おじさん頑張るよ。あとポプラには無かったけど、次コンビニに行ったら、レジ横の募金箱に86円だけ募金しとくね。


ではまた。

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