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これまでやってきた、こども達の教育支援ボラ活は、間違いだらけだった

今まで足掛け4年間、地元小学校の総合学習授業で自然観察を子ども達に教える授業サポートをやってきました。どうやったらいいのか分からず、先生も分からず、試行錯誤で続けてきましたが、違和感がずっとありました。

なんか、今やっていることは子ども達は実はあまり興味が無くて、先生達も『住民がボラでやってくれると言うから、しかたなくそれを受け入れて授業している』と、そう思っているのではなかろうか?そういう違和感がずっとありました。

昨日偶然に知見を持った人(天野秀昭という人)の講演を聞いて、そもそも「教育の支援」と考えていたことが自身の違和感を生んだのではなかろうか?とそう思ったわけです。

「教育」は、教育者が良いと思うこと、正しいと思うことを子ども達に教え、悪いことや誤ったことは絶対教えないし、教育者が気付いていないこと、どーでもいいことをぜーんぶスルーしてしまうわけなんですね。

ところが子ども達の興味は、良いとか悪いとか正しい間違っているなどとは関係なしに、面白いか面白くないかで行動が決まります。

地面に意味なく大きな穴を掘ることは危ないから「意味なく地面に大きな穴を掘る」ことは教育者のにはあり得へん行為かもしれないけど、子どもが「穴掘りは面白い、楽しい!最高!」と感じたら何日もそこに通って穴を掘り続ける(ことがあったらしい 天野さんの話し)わけです。

それで子どもは育つ。穴掘りは楽しい!っていう1個のアイデンティティーを子どもが発見したってことです。

生きものも、捕って見たら元に返しましょうって、今まで私は子ども達に教えていました。しかし私が子どもの頃にはそうせずに、獲物は全部持ち帰って、虫かごや水槽に入れて飼って、でも全部死んで、虫や魚が死んだら生きているときとどう変わるとか、なぜか蝿が来るとか、臭くなるとか、どれかが死ぬと他の生きものもたちどころに死ぬとかの様子を見て育ちました。昆虫も注射器で殺して標本にしました。

そういうふうにして私は子ども時代を育ち、生きものに興味を持ち、でもやや年長になると『なんでおれは生きものを捕まえては死なせることをやっているんだろう』と、考えが変わって価値観も育ったわけなんです。

一度そういう価値観を持ってしまうと、それを「教育」という正しそうな行動を使って子ども達に「押し付けている」のが今まで自分が総合学習で子ども達に教えてきたことじゃないか??
生きものを捕まえるのも、飼って死なせるのも、昆虫採集道具で殺すというのも全部スルーして「生きものが住める環境は大事なんです!」と、学校教育に混じってそんな完成品の価値観を子ども達に刷り込もう。こういう自身の考えが上述の違和感を生んでいた原因のひとつ、そういうことでした。

たぶん、多くの子どもは「これは、こうです!」と教えられながら育てさせられていることに飽き飽きしていて、形骸化した無味乾燥な言葉にしか思えなかったでしょう。
ごく少数の子どもだけが自然観察中に捕まえた虫や、摘んだ花や、プニョプニョしたカエルの感触とか、友達が即興で作ったシロツメクサの首飾りがとても気に入り、楽しくなって、もっとやりたい!と自分の興味に火がついた。そんな子が「おっちゃん、これは何?とか、これどうやるの?」と、あの真剣な目をして詰め寄って私んところに来たのではないか?そう思えてきました。

学校の先生は教育委員会の指導要領を忠実に守って「育てる」をやるしかしょうがないのですが、住民のボラ活までが指導要領に忠実でなくていいわけなんですね、よく考えたら。

だから私のやっている学校でのボラ活は、育てるじゃなくて、子ども達をなるべく自由にしてあげて、勝手に「育つ」の後押しをしたいと思えてきたわけなのです。

虫を採集して観察しよう!の時間に、シロツメクサの首飾りのつくり方を尋ねられたら、それもちゃんと教えてあげる。「今は虫の時間でしょ!」なんて言わない。
そんなことより「自分はこれをやっている時が一番楽しいんだ!」と思うことを子ども達が自分で発見するような時間を用意してあげる。手取り足取り教えないで自由に子ども達が「遊べる」よう、授業構成をもっとゆるく、授業テーマに拘わらすに何でもアリみたいに変えて行きたいと思います。


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