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<感想と備忘録>「便利屋稼業」というのは小学校授業支援に合っている!?

小学校には「総合的な学習の時間」という授業があり、全部じゃないけど一部は地域の人が授業支援に係わっています。そういうスタイルの小学校の総合的な学習の時間の授業支援ボランティアに携わってもう6年経ちました。

6年経った自分の感想は「こりゃ試行錯誤の連続だ!」

まあ良さそうな授業ができた年には「今年の授業をモデルにして来年もやれるな!」と思ったりしたけど、翌年になって先生が変わり、新しい先生には新しい考えがあって、またイチから試行錯誤の授業が始まって、その次の年にもまた新しい先生によって新しい試行錯誤が始まる連測みたいなことが続いているわけなんです。

こんな事態になったら「もういいかげんにしてよ!」「授業方針を揃えてよ!」と反対論を言いたくもなりますが、そう言わない決心をしました。可能な限り先生の要求に応えて授業を受ける小学生の子ども達を満足させるように「なんでもやっやろう」と、私は開き直りました。

どうせ私が反対論を言ったところで先生側の方が権限が強いから引くわけがないし、私の反対論の方が正解という保証もありません。だから反対に注力するより先生の言う希望や期待を聞いて可能な限り何でも実現してやる方に注力した方が晴れ晴れとした気分で授業支援ボランティアが出来る、それでいいじゃないか!そんなふうに開き直りました。

先生の希望や期待はいろいろですから、それに応える仕事は、そりゃズバリ!「便利屋」の仕事

「便利屋」というお仕事は世の中にあります。
お客さんの今困っていることを聞いて、それを何とか上手く片付けて欲しいというリクエストに応えて実際に片付ける作業をするお仕事です。

ただかつての会社員時代に社内では「便利屋」という言葉の響きはあまり良いイメージで使われていませんでした。「俺は便利屋じゃないからな!」とか言った具合に何でもかんでも仕事を押し付けられそうになったときの反撃言葉として使われていました。

だから小学校の先生からあれこれリクエストの話を聞かされたとき、会社員時代に反撃したかったムードを思い起こさせるものが心に湧き上がって来ます。これを抑えてやって行くのはモヤモヤする気分でもあるけど、一方で『きっとこんな便利屋稼業をやれるのは自分ぐらいしかいない』と、これをラッキーだと思う気持ちもむくむくと湧いて来ています。だから「可能な限り」便利屋稼業を実行しようと無理やりでも思うことにしました。

「可能な限りの範囲」は告げてあるし、それは絶対に超えない!つもり

と校長先生には言ってあるけど多少は超えてもやらなきゃな!というつもり。それが便利屋の身の処し方というものでしょう。

便利屋稼業とはここで書いてみても所詮ボランティアです。給料をいただいていないし、学校の職員でもありません、ちょっとだけ報酬はありますが。私がこの仕事をする原動力は「子ども達に環境教育をしたい」ことの目的一点です。
私はグレタ・トゥンベリさんには足元にも及ばないけど自身を環境活動家だと思いたい一人なので、環境教育をする目的に合わない度を超えたサービスはお断り。もしそのような要求なら別の人に頼んでください、と返答するでしょう。

ただ、関係無いように見えるけど、もしかしたら環境教育の方に支援の話題を振って行けるかもな!?と思えることは多少話題が外れていても請け負う気です。そんなサービス精神も育って、最近は『やっぱり自分は便利屋なんだ』と納得できるような感じも強まって来ました。

便利屋稼業のお仕事カテゴリーはいろいろ

学校では学年によって「季節毎の自然の変化」や「いきものとのふれあい」「地域の自然について」などいくつかの取り組みテーマを持っています。これらは学校の経営方針会議か何かで決められるのでしょう。よく知らないけど。

そうなると「いきもの」を観たり触ったり飼ったりすることが授業の中で出てきます。

さらにいきものを観るために、触るために、いきものを探して捕まえることが要ります。
いったいどこに行けばお目当てのいきものがいるのか?
捕まえたいきものが何なのか?名前は?
手で触って安心なのか?ヤバイいきものなのかも先生や子ども達はすぐ知りたくなります。
それから、どうやって飼ったらいいのか?餌は何?とかいった飼育ノウハウも必要になります。
これらについて子ども達あるいは先生達からの質問に全部一問一答するのが便利屋の仕事。
「もし分からないことがあったら電話で聞くから教えてね」こんなことも先生からリクエストされました。まったく便利屋冥利?です。

こんな場面で便利屋の私がいた方が便利なんだろうとは思うけど・・・

もし便利屋の私がいなかったら、いったい授業はどうなるのでしょう?
でもかつて似たような授業は実施されていたようだし、
実際に教室のうしろでザリガニやカブトムシを飼っているクラスも見たりしています。
ということは『俺の便利屋の仕事はほんとに要るの?』私は居なくてもそれなりに授業が回るのではないのか?という不安も漂うこともあります。

実感として、授業支援をやった満足感は毎回あるのですが、どこまで授業の助けになっているのか、実はたいしたことできていないのか?客観的にはよく分かっていません。
先生からは毎回感謝されますが、それだってお世辞という可能性はぬぐい切れません。

授業支援の便利屋稼業はこれだけではありません

先生によっては「授業お任せします!」と丸投げされる場合もあります。きっと得意分野ではない授業内容なんでしょう。虫が苦手な先生なのかもしれません。片や別のクラスでは半分以上の授業を私の便利屋ではなくて先生じきじきにやってしまっているクラスもありました。ということは先生間の授業ばらつきを補完するのが私の便利屋としての請け負いどころな感じもします。

それに、子ども達の質問に答えるのも大事な便利屋のお仕事です

子ども達はたとえ小学生の低学年でもたまにとてつもなく回答に窮する質問をしてきます。
先週あった2年生からの質問は「なんで魚は水中で息ができるのに人間はできないの?」というのがありました。
私は「それはね、魚にはエラがあってそれで水中でも呼吸できるんだけど、人間などは肺呼吸でしょ、これは水中では無理なの」と、エラ呼吸と肺呼吸の違いをとっさに答えましたが、質問した子は不満足そうでした。そんな不満げな顔が見えたんです。

本当はエラ呼吸と肺呼吸のメカニズムの違いを説明して欲しかったのかも?

「人間に肺があって、魚にはエラがあることなんて知ってる!!」と、質問した子はきっとそう言いたかったのでしょう。
まことに私の能力不足でエラ呼吸と肺呼吸のメカニズムの違いを、しかも小学校2年生が理解できるように説明することはできませんでした。でもきっと質問したその子にはちゃんと説明して、さらにもっと知りたいならこんな本があるとかまで説明するのが良いでしょう。まだまだ私の便利屋も付け焼刃だと思い知らされました。こういう改善の余地は毎回出てきます。

うまくできなかったことの克服が便利屋として次に登る階段の一段

近い将来に自分で決めた範囲のことならどんな質問を子供たちからされても百発百中で分かるように答えてみせる!
こんな野心を持っています。
今でも8割から9割は回答できていると思うけど、前述したように全部は答えれないし、単に「肺とエラの違いだよ」のようにお茶を濁した回答を他にもしたかもしれないです。
お茶を濁して・・・なのか「そういうことじゃないくて、聞きたいのは・・・」と聞き返した子どもは先週の授業で一人いました。ということはきっと他にも居たかもしれないけど、聞き返さないで済ませてしまったのかもしれません。

もしそうならなぜ聞き返してくれないのか?
私に聞き返すのは都合がよくないと思わせるような何かがあったのかもしれません。自分だけいっぱい質問するのは良くないと忖度したのかもしれません。便利屋なら子どもにそんな気持ちを抱かせるべきでないです。このようにまだ完全に満足できていないのに終わってしまったら便利屋の仕事は及第点ではないのかもです。

こんなことを考えると、昔の会社勤めではイメージが必ずしも良くなかった「便利屋」というお仕事は、かなり奥が深くて取り組み甲斐があるのかも!?と思えてきます。

ひとつ心配は

以前のことですが、学校ではない別のボランティアの仕事で、そのときは便利屋とは意識していないもののサービス精神をやや出したのが的が外れ、
「アイツは煽てれば何でもやってくれる便利なヤツ・・・」のように扱われた感があり、嫌気がさしてそのボランティアを辞めた経験があるんです。

だからこれの二の舞にならないようにしなければ!そう思ったりもします。
いきものに興味が湧かない子を無理やりにとは思わないけど、興味があって好奇心満々なのに今まではその矛先の話に相手してくれる大人がいなかった、という子どもの話し相手になって、好奇心についた火を大きくしたい!そう思います。

いろいろ書いたけど、この先どうなることやら。


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