日記:カポーティの「最後のドアを閉めろ」
肌がよく荒れる。
肌が弱いのだ。二日連続で寝不足になれば荒れるし、野菜をきちんと200グラム摂らないと荒れる。そして、眼鏡をかけても荒れる。いまもそう。新芽のかたちでして鼻あてが優しくタッチしている、鼻の頭がふっくらとあたたかに腫れ上がっている。
きょう、MONKEY vol.30の「トスカ」と「最後のドアを閉めろ」を読む。
「トスカ」は不思議な短編だった。このように夢幻から夢幻へと泳いでいくような書き方をするのはずいぶん勇気のいることだと思う。私たちが語るような「バランス」といったものは「トスカ」にはない。そこには極彩色のペンキでして家具の全てを塗り尽くしてしまおうというふうな、大胆で破滅的な姿勢のみがみえる。しかし、「トスカ」は戸惑いなく読めてしまった。そしておもしろかった。オペラへの造詣がないことでいくらか(あるいは”随分と”)損をした気はするが。
そしてトルーマン・カポーティの「最後のドアを閉めろ」。
もう何度読んだ作品だろう? 僕はまたそれに手をのばす。
そして……なんというのかな。
僕はわりと言葉を導くのは容易いほうだ。一行を書くのに一時間を費やすということは(あんまり)ない。サイコロを転がせばたちまち一つの整数があらわになるのと同じく、僕の場合会話を持てば自ずと言葉は定められてくる。
しかし、カポーティの書きもののその美しさ――流麗さについて語るとき、言葉は”禁止”となって続かない。
とにかく美しいのだ。僕はそれを言い伝えたい。
<遠い国の、高い城に住むほっそりとした青年が、静謐を守る深い森を眺めている。青年の細い手はホメロスの『オデュッセイア』を撫でており、彼の叙事詩はアーテナーの秘儀について「山の水に似る」とだけ少なく話す>
「ボーイ、きみはてんでだめだな」
春樹はだいたいこのように話している。
実際、カポーティの綴るイングリッシュというのは巨大な魅力を抱えている。湿地帯に咲く、曖昧な花の香りに似た。
ただ、僕は「ミリアム」だとか、いわゆる「うけのいい作品」はそうした文章を楽しむという目的ではあまり読めないと考えている。魔法のような霜に似た、言葉の儚さを読むというのをするのなら、それはつまり「最後のドアを閉めろ」とか、「夜の樹」、そして「無頭の鷹」になるだろう。
結局、カポーティの書きっぷりの何がいいのか?
どこがよいのか?
それはつまり、ビルとビルの間のロープをするする歩く芸人のような、守るということをしない勢いと、たっぷりとした経験に裏付けされた傲慢なまでのバランス感覚がためだろう。
当然、その二つは才能だ。指を鳴らせば執事が運んできてくれるというたぐいのものではない。
そしてこうした分析は、実際どこまでも無力だ。結局、これらはひどく的外れであるか、説明には不十分である。たとえ悠久にわたってカポーティの研究を深めようと、けしてあの繊細なピアノ音楽のような、ためいきが出るほどに美しい書きものを代替できない。
日記はここで終わりにする。
さて。僕も布団に入って、風でも思うことにしようかな。
風は彼の部屋にも吹いた。きっと半世紀くらいの時を超えるなど、
じつに容易いことだろう。
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