『精神分析にとって女とは何か』(西見奈子編著 福村出版)を読んで

 『精神分析にとって女とは何か』(西見奈子編著 福村出版)を読了しました。そうしたら自分の考えをnoteに整理しますとつぶやきましたが、なかなかまとまらず、時間だけが過ぎてしまいました。専門書なのでまとめるのはなかなか困難だったこともあります。ただ、著書を引用しながら自分なりの考えは書けそうだと思いましたので、思うところを述べていきます。
 今の社会の常識や価値観だと、そもそも「女」という言葉自体が時代遅れで差別的であり、女性も男性も関係なく平等なはずだと考えてもおかしくはありません。しかし、個人的にはその思考がかえって「女」「男」という固定観念を強化していると懸念しています。なので、「女」「男」「という枠組みで区切る」(同著、まえがきⅲ)ことから始める方が、女性も男性も関係ないといった多様性を理解する一助になると考えています。
 「女」「男」という区分はもともと家父長制とか男性優位社会から発生した概念なのでしょう。その状況下においては、「女」は力ない立場に追いやられ、「男」が力ある立場になっています。なので、「女」を取り上げる際には、その非対称的な(対等ではない)関係に目を向けることから始める必要があると考えます。ということは、「男」が「女」を対等にする義務や責任が発生します。同時にこれは、力ある立場が力ない立場を対等にすることも意味しています。そういう関係性によって、人は自分という存在を形成できるというのが私なりの理解です。そう理解すると、人の心というのは「女」「男」の両方を兼ね備えて形成されているという考えも出てきます。
 この両方を兼ね備えるという、「同性と異性どちらへの同一化は、クロスアイデンティフィケ―ションと呼ばれ」(同P52)ています。これは関係精神分析のジェシカ・ベンジャミンが提唱したもので、「心的な両性性というものを健康な到達点としてとらえる、近年のジェンダー論の流れの1つ」(同P53)です。それによると、「人は自分の性自認については踏まえたうえで、男性的な心性や女性的な心性の両方を理解したり楽しんだりできるようになる」(同P52~53)ということです。これは「現在では社会的にも、性志向や性自認に関して、従来的な男女の二元論にむりやり押し込めようとする社会の圧力が、個人に大きな負担を強いていることが認識されるようになってきた」からと言えるでしょう。また、心理臨床では、「解離性パーソナリティをもつ人との治療では、やっかいな交代人格だけを消してしまおうと働きかけることは、しばしば否定的な結果をもたらしてしまう。むしろ、「いくつもいる〈私〉がすべて私自身なのだ」と患者自身が思えるように援助することの方が、正解である場合が多い」(同P57)ことから、ジェンダーというのは「〈多重決定された、葛藤的なもの〉」(同P55)と言えるわけです。
 少し難しいかもしれませんが、人の心は「女」「男」両方が備わっており、その中で様々な自分がいて、どれも本当の自分であるということです。女性らしさや男性らしさにこだわって反対の性を否認し排除すると、心がアンバランスになり、心の病気になることもあるということです。ただ、ジェンダーギャップ指数で下位にいる今の日本では、まだまだこの「心的な両性性」(同P53)を備えて生きていける環境には程遠いと言えます(特にⅬGBTQに関する言説が、そのことを示唆しているように感じます)。この「心的な両性性」(同P53)は関係性によって形成されると私は考えています。なので、力ある立場(多数派)である「らしさ」等の固定観念を優先する人たちが力ない立場(少数派)である「心的な両性性」(同P53)を持つ人たちを対等にする義務や責任を果たせるような社会の形成を心から願っています。女性も男性も関係ないとは言われます。ただ、そのことがかえって抑圧や人権侵害、搾取のような理不尽さを生み出している側面を考慮すると、「女」(力ない立場)「男」(力ある立場)「という枠組みで区切」(同著、まえがきⅲ)って考えた方が、「心的な両性性」(同P53)を理解しやすいと考えています。
 まとめには万全を期したつもりですが、それでも伝わりにくければ私の文章力に責任があると思っていただければ幸いです。
 ここまで読んでいただいた方に心から感謝申し上げます。

参考文献:「精神分析にとって女とは何か」(西見奈子編著 福村出版)



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