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自己中の仕組み

現代の若者たちは大事にされて育って来た世代だと思う。

大事にされるとは、与えられる事が当たり前であり、大切にされる事も当たり前だという認識なのだろう。

それが、自分が中心だという認識に繋がっているのかも知れない。

仲間内ではそうではないとしても、少なくとも、親との関係においては、何時も自分は一方通行の善意と愛情の受け手であり、配慮される対象であったという認識なのだろう。

そういう意味において、相手の立場や気持ちを想像する思考が育っていないのかもと、我が子たちを見ていて感じる事が多い。

僕らの時代は今ほど豊かではなく、大切に育てられた訳でもなかった。

親を始めとして、年長者を敬う風潮が強かったし、人権など語られる時代でもなく、戦後間もなくほどではなくとも、それでも生きる事は過酷な事だと思っていた。

相手の気持ちを読まなくては、自分を守る事は出来なかったし、僕などは、厳格な父の顔色ばかりを伺って生きていた事もあり、何時も父の機嫌が良いかを気に掛けて生活していたので、誰に対しても、相手の立場と気持ちを考え過ぎるという癖が付いている。

つまり、相手には優しくしなければ、優しくはされないものだという思考が染み付いている世代なのだと思う。

コインの裏表で、それが悪い面もあれば、良い面も当然ある。

他者と協調するには、良い側面であるかも知れないが、被害妄想気味で、気を使い過ぎて疲れるという負の側面もある。

僕の若い頃は、時代背景として、その配慮が機能したのかも知れないが、現代では、仕事も生活も、個人単位で活動する時代であり、価値観にも大きく変化がある。

必ずしも相手の立場や気持ちを気遣う必要がない時代なのかも知れない。

問題は世の中には色々な価値観と年代の人がいて、その時々において、相手や、ましてや弱者に配慮しなければならない場合があるという事である。

僕の親も今の価値観で言えば、かなりの毒親だったと思うのだが、僕も長く生きて来て、様々な経験をして来て、今になって、漸く、親の気持ちや立場がそれなりに分かるようになった部分がある。

最近では、毒親とは簡単に縁を切るべきだという論調が強いが、僕は、それでも、お互いに、良い時も悪い時も、親と一緒の時間を過ごして来た。

疎遠になった事もあるけれど、今の若い世代は、全部が全部、相手の責任だと考えるから、一方的に関係を断ち切っても問題ないと考えているのだろうが、子供は、果たして、全く無過失なのだろうかと、今になって思う。

幼い頃には、親の支配から逃れられないと言うが、必ずしも支配ばかりではなく、優しく保護して守って来てくれた部分もあるはずである。

近頃は、大きくなって、成人しても、親に甘えて依存している子供も多く、親子という関係の前に、人と人として、そんなに立派な事が言えるのかと思う。

今の子供の価値観で言えば、昔の親はみんな毒親になってしまう。

大人になるとは、他人の痛みと過ちを自分の人生経験を通して理解し、許せるようになる事であり、苦労して育ててくれた親と簡単に縁を切るとか、関係を断ち切るとかいう話は、今の世情を表しているようで、冷た過ぎるのではないだろうかと思っている。

親子でも、時間の経過と共に力関係が変化して、関係性も変わるものである。

子供であっても、経験を伴った言葉で語り掛ける事により、理解し合える場合もある。

良い所も悪い所もあるのが人間であり、どこから、どの部分を見るかにも拠る問題でもある。

必ずしも、完璧な愛情を持って育ててくれた親ばかりではないにしても、それでも、一応、大きくなるまで育ててくれた親に対しては、人として感謝と敬意の気持ちを持つべきだと考えている。

与え続けてくれた親すら許せない人間が、他者を許せるはずもない。

長く生きていれば、人にはそれぞれ事情があり、苦労を重ねれば、間違いを犯す事もあるだろうと分かるようになる。

苦労をしないで生きてしまえば、他人を断罪する事も出来るだろうが、ほとんどの人間は苦労を避けては通れない。

親も苦労を重ねて子育てをして来てくれたのだと理解出来れば、親の気持ちと立場も、幾らか理解出来るはずである。

簡単に親を見限るような事をせずに、語り合っていれば、一人の人間同士としても成長出来る。

人は時間と共に変わり続ける生き物であり、それくらいの忍耐を持って関係を続けるくらいの恩はあるはずである。

僕は、他人にした事は、必ず自分に返って来るものだと考えているので、世話になった人間をそんなに簡単に見限るものではないと考えている。

少なくとも僕は他人を、ましてや世話になった親を、それほど断罪出来るほど、正しくはないし、恩知らずな人間でもありたくはないと思っている。

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