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お鮨屋さんでのマナーやホスピタリティの問題

 昔から散々議題に上がっているし、毎年のようにあーだこーだ言われていて書く必要もない話しなのだが、一度は語っておくべきだろうと思い書き残す。
 鮨屋でのマナーだが、結論から書くと

”五月蠅くせずに出されたらすぐ食べる、あとは余計なことをするな”以上

 余計なこととは、大した舌も知識もないのに光物や玉の味を語ってみたり、業界用語を使ってみたり、兎に角肩ひじを張って偉そうにしていなければ何でもよい。

 ここで昨今、今更ながら、しかし事さらにこういったことが何故起こるのかについて考えてみる。

 一つはやはりSNSの台頭だろう。
 某グルメサイト然り、instagram然り、料理写真を撮ってアップロードすることが当たり前の世の中になった。
 もちろん宣伝として店側に良い側面もあるが、数々の負の側面も持ち合わせている。それがお鮨屋さんにとっては、”すぐ食べる”ということに反している点にある。お鮨の美味しさは高級店であればあるほど、恐ろしいほどに刹那的だ。
 握った瞬間から劣化が始まるため、写真を撮っているその時間でも充分なほど不味くなる(だいたいの御料理がそうだけど)。写真や動画を撮っていることに夢中で、料理に手を付けていない人をしばしば見かけるが、料理人に対して本当に失礼なことをしていると思う。
 また料理人を芸能人のようにパシャパシャ勝手に撮る行為も頻繁に見受けられる。もちろん快く引き受ける料理人もいるが、撮るならば最低限のマナーとして一言「お伺いを立てる」くらいの行為は当たり前だろう、それでも断られることが「当たり前」として認識する必要がある。肖像権の侵害などと小難しいことを言うつもりはないが、人にカメラを向けることに慣れすぎるのは良くない風潮に思える。
 また料理写真や料理人の写真の背景として他のお客さんが写り込んでいるものがしばしば見受けられる。食べる側として、写真を撮っている人がいるだけで気が気でなくなる。本当に勘弁してほしい。
 

 次に、「お金を払っている側」という意識の増長。
必ずこう言った話題のときに並列で語られるのが、「お金を払っているのだから何をしてもよい、もしくはそれに準ずることをしてもよい。」という意見だ。これは写真を撮る行為や料理・料理人への軽視を後押しするものとなっている。古来から脈々と続くこの問題だが、ここ数年で問題の本質は大きく悪い方へ変わったように思われる。
 そして本来、サービスと対価は等価であるものであり、どちらが偉いなどという概念は存在しないはずなのだが、未だ日本人にはその意識が根深く根付いているように思える。お鮨の件に関して言えば、魚を「どう〆」「どれだけ寝かし」「いつ提供し」「どう調理し」「コースのどこに組み入れ」「コースに合わせてどう味付けするのか(補足:醤油を変える、昆布で〆るなど)」など、つまり如何に客に美味しく食べていただくかを考え、その一貫を作りあげる。しかしこれが現代の食べ手に取ってみると、全てお金によって変換できる、あるいはそれ以外の何物でもない食べ物に過ぎないのだ。だからこそ、”すぐ食べる”という簡単なこともできず、何故できないかと言えば上記に書いたような料理人の想いを一切慮ることも出来ず(せずではなく、できないのだろう)、自己の欲求を完結するためにカメラを向ける。
 何故これが出来なくなったかと言えば、「全てにおいて過程が見えなくなった」、これに尽きる。魚が切り身で売っていると信じている子供が分かりやすいように、コンビニのおにぎりから家まで、何一つとして製造過程が見えなくなってしまった。そして、一番身近であろう自身が働いている会社の製造しているものに込められた想いすら真には理解していないのだろう。
 人々はただただお金と物を交換するだけの存在になってしまった。
 料理人の全てを理解しろなどと言うつもりは毛頭ないし、料理人も美味しく食べてさえくれればよいと思っているのが本心だ、しかし人と人との関係である以上、双方的でなければ当然このような問題は起こり続ける。

 この負の軋轢を一つ例にあげよう。
 一見で愛想も良くない客がくる、もしくは最近港区界隈流行りの予約席の代行者でもよい(補足:何か月先も予約の取れないお店を予め予約しておき、当日行けなければ別の代行者を立てること。)。その客は的外れな「旬はどうだ」とか「玉の味こそが」とブツブツ言いながら写真を撮り、鮨を食べる。職人は客の感じが悪いので平坦と仕事をする、それが客にとって愛想が悪く見える。当然、そんな客には魚の尾の部分しか出てこない。
 客は店の評判を悪く書くし、店はそんな客ばかりで「心の摩耗」を引き起こす。これは大なり小なりどんな高級店にも起こっているのを見ると何ともやるせない気持ちになる。
 現代人は客の立場になると赤ちゃんのようにチヤホヤしてもらえないと満足できないのである。脳髄まで含めて。

 きっと今の時代はここにも補足がいるのだろう。
 全商品が同じクオリティで提供される、提供されるべきだと考えるのは安価な大量生産品の弊害だ。希少で貴重なものほど、その枠から外れる。
 お鮨の話しで言えば、分かりやすいのはマグロだろう。大きいマグロだと半身の腹、所謂大トロだけで3等分ほどにし、尾まで含めると8等分ほどにする、当然その全ての部位で味が異なる。そのどれを買わせていただくかはマグロ屋さんとお鮨屋さんの人間関係で決まり、当然これは鮨職人と客の間でも決まる。心象の悪い客に最高の部位が出てくるわけなどない。分かりやすくマグロの例を出したが、どの魚にも当然頭から尾の部分までがあり、このどれが出てくるかは鮨職人の裁量次第となる。これが鮨フリークが同じ鮨屋に足繫く通う理由の一つである。

 特に難しいことを書いたつもりはない。
 しかし、より劣化した未来が訪れるのだろう。そんな時代。

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