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「Free!」FS後編感想-フリーすら泳げなかった僕は最後まで七瀬遙に嫉妬し続けた


僕は泳げない。フリーすら泳げないカナヅチ人間だ。

しかし、観終わった後はなぜか全力で泳いだ気分だった。僕は確かに水中へ飛び込み、果敢に泳いでいた。遙達と共に悩み苦しみ、そして笑った。

涙が突如溢れ出た。

これからの人生、思いっきりフリーで泳いでこい!と背中をドーンと押された気がした。

「Free!」が始まってから9年間。

そういえばいろんなことがあった。

家族と揉めたり、大学辞めたり、新しい学校で友達ができてやっとまともな人間になれたと思ったり、現実を受け入れられなくて部屋を崩壊したり、人生を大きく変える人に出会えたり、ついに夢を見つけたり、見つけたと思ったらそれが仮初めだったり、その中でやっと自分らしい夢を見つけたり。

いつの間にか遙達は年下になっていた。

大好きなアニメ制作会社で凄惨な事件が起きて、泣いて泣いて泣きまくった。今でも思い出したら泣いてしまう。

それでも、久々に会った遙達はあの頃と変わらず悩み苦しみながらも前を向いていた。笑っていた。

七瀬遙の“ただの人”問題

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「Free!」は七瀬遙が“ただの人”になって終わる物語だと思ってた。

「ただの人も悪くないな」と、遙がただの人になることを受け入れて終わっていくものだと。

でも、違った。

最後のタイムカプセルに「ただの人になっても泳ぎ続ける」としたためた手紙(ここで号泣)

そして「ただの人になるのはもう少し後でいい」

1回目の鑑賞時は、ここで若干「?」と思って終わった。

結局ただの人を受け入れないまま終わったのだ。

遙にとってただの人とは?

僕の思ってた「ただの人」とは違った。

でも遙はもう少し後でいい、と。

ただの人になる=天才から、悩んだりもがいたり苦しんだりして人間臭くなること だと思ってたけど違うんだ。

そんなの、遙はもうとっくにそんなの経験しとるやないかい!

遙にとって“ただの人”は、何かを諦めるみたいなことだろう。何かを捨てる・失うということ。

でも遙は何も捨てず失わずに泳ぎきった。

一度、強くなるために捨てようとしたけど、遙は結局捨てなかった。何ひとつ。

3回目の鑑賞でやっと腑に落ちた。

終焉を迎える日が近いうちに来るなんてとっくに分かっていて、それでも自分はずっと強さを追い求めることを決めたのだ。

たとえ“ただの人”になろうとも。

欲望と自負

夢がある人間は欲望で滾っている。

「自分は強い」というプライドと「夢を叶えたい」というわがままで自分勝手な欲望があってこそのアスリート。

アスリートとしてスポーツを続けられる期間はそんな長くない。

体力というものが伴うものだから寿命がある。いつか終わると分かっている。

それを受け入れた上で、これからの人生、すべては自分次第。自分が決めると覚悟を決めたのだ。

いつ終えるか、いつ始めるか。

自分は二十歳過ぎようが“ただの人”ではないという自負。

この自負って、僕は持ってなかったな。

いや、持ってるんだけどさ。「俺、天才!」ってなる時なんかいっぱいあるけどさ。

ハイスピ時代の旭みたいに「本当に俺、天才か?」って時々なるんだよ…

何十曲作っても未だに「あれ?自分、今までどうやって曲作ってたっけ?歌詞書いてたっけ?」みたいに。

あぁ、この自負が持てるなんて羨ましい!

周囲の人達に迷惑をかけまくりながらも強い自分に誇りを持ち、自分の夢のために欲望をギラギラと漲らせ、澄ました水面を荒々しく破壊し、太陽すら射抜くほどの熱い瞳の夢を晴天へとぶちまける。

羨ましいぞ遙!!

やっぱり嫉妬だった。

最後まで七瀬遙という存在は天才で人間臭くて嫉妬してしまう!!

結局最後まで嫉妬心を募らせてしまった。

魅力的すぎるんだよ七瀬遙は…

唯一リレーを泳げなかった旭の存在

競泳選手ではない真琴や尚先輩を除くと、唯一リレーを泳げなかった旭。

正直、リレーにいくまでの話の流れが少々強引で(「Free!」で細かいこと気にしたら負け)、もうなんでもあり感が強かったのでオールスターメンバーで泳ぐもんとばかり思っていたが、旭だけが泳げなかったのだ。

「え?もうこの際旭も入れてやってもよくないか?」って思ったが、彼がもしリレーを泳いでいたらこの映画でここまでの感動は得られなかっただろう。

これだけ長く続くアニメだと登場人物もかなり多いが、一番自分の存在に近くて寄り添えると思えたキャラは意外にも彼だった。

いつも明るく元気で自分をもっていて仲間にも後輩にも慕われてるカッコいい旭と自分とでは天と地の差があるのはもちろん分かり切っているが、それでも旭が一番近かった。(ってか「Free!」のキャラは天才が多すぎるんだよ…)

尚先輩に「旭は偉いな」と言われて「俺はいつでも偉い」と答えられるくらい自分のことをよく理解していて強い子だけど、終盤で実は就活を考えてたことを姉貴にポロッとこぼし(おそらく仲間達には言っていない)、それでも挑戦し続けたい意思を見せる。

そんな旭が遙のことを「フリーなやつ」と言ってタイトル回収する。

「お前が回収するんかい!」という意外さもありつつ、彼に言わせてくれてありがとうと思った。

僕は旭だったが、きっといろんな人がこの「Free!」のキャラ達に感情移入したりしなかったりして感じるものがあっただろう。

前しか見えず周りが見えてなくて失敗した人、大事なものを得た人、大事なものを失ったことがある人、夢を諦めた人、思いがけない巡り合わせで新たな夢を見つけた人、大人になることが怖かった人、早く大人になりたかった人、憧れの人に近づきたい人、もう一度夢を目指した人…

肩を壊し競泳を一度諦めた経験がある宗介が遙へ、普通に泳げなくなった経験がある旭が凛へアドバイスを送るシーンはとても大好きだ。

普通って何気に一番大事なことだから。

いつか旭が世界大会で遙達とリレーを泳ぐところが見れると信じている。

「フリーしか泳がない」意味

アニメ1期1話、七瀬遙の惰性と諦念から生まれた「だたの人になりてぇ」。

おそらく遙は、あの状態のまま生きていたら本当に“ただの人”へしか向かわなかったであろう。

この「ただの人になりてぇ」から始まったこの物語の着地点が僕の予想を超えた覚悟と解放感と欲望で煌めいていて、これが9年かけて辿り着いた“フリーしか泳がない”という意味か…と己の感受性が喚いて騒がしかった。

あそこから画面がうっすら暗くなり劇場が明るくなったあの瞬間の一抹の寂しさと、その後訪ずれた「七瀬遙達はこれからもずっと泳ぎ続けて行くんだ」という安心感と「寂しくない」という清々しさは今でも覚えている。

現実に戻されたと同時にこれからの僕達の人生と共に彼らも歩んできたんだから、これからもずっと共に歩んでいくんだという心強さをどうしようもなく感じた。

こんなにも自分の感受性を愛おしく思える経験はなかなかない。ありがとう京都アニメーション…

思い入れがある分、事件が起きてから「Free!」が全然観れなかったんだけど観に行って本当によかった。

フリーすら泳げない僕がこんなに惹かれたのは彼らの生命を感じられたから。

本当の意味の純粋なフリーを教えてくれたから。

「Free!」はみんな生きている

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七瀬遙達は生きている。

遙は血が通った肉体をもち、魂ごと水を愛し水に愛され、人生の結び目にはいつだって丸裸の愛を託したら同等かそれ以上の愛を返してくれる仲間がいる。

もちろん喧嘩だってするし絶望するし悩んだりする。

慣れない戦場に震え上がることもあるだろう。これからもずっと。

ただの人になりかける瞬間も、何度も訪れるだろう。

でも完全なるただの人にはならない。

そもそも、ただの人になっても泳ぎ続けるととっくに決めているのだ。

だから遙はずっと泳ぎ続ける。

このアニメは一旦は終わりを迎えたが、彼らと共に視聴者も泳いで経験してそこで手に入れた無邪気な自由や揺らぎない宝石の眼差しは永遠に消えないのだ。

僕らが七瀬遙達と共に泳ぎ続ける限り。

以前僕は「泳ぐことは人間の日常と似ている」と言った。

人類にとって一番大事な“呼吸”と引き換えに“自由”を手に入れる。

泳ぐことは生きること。

フリーという清潔なる可能性は永遠であり、きっとまた彼らに会える。泳ぎ続ける限り。生き続ける限り。

後半で突如出てきた謎の女の子。

最初は「遙の母親?」と思った。息子が世界大会にまで出場してるのに両親が一切登場しないの不自然だったし。(でもそれは七瀬遙が“ただの人”ではないことを強調したかったからかもしれない。その代わり遙のおばあちゃんの初顔&声出しは嬉しかった)

でも母親ではなかった。

まさかあれは……俺か!!????

七瀬遙達によって人生を変えられた俺!!????

この映画の3回目の鑑賞を終えて家に帰った僕は衝動的に自分のスケジュール帳を乱暴に開きすぐ近くに置いてあったシャーペンを握りしめ、その日の日付欄に「ただの人になりたくない」と書き殴った。

次に彼らと会う時は必ず!!!!!、という思いを込めて。




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