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自分の可能性は自分次第でいくらでも拡げられる

可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。
我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である。

四畳半神話体系


私の好きな言葉だ。

大学生の頃、この言葉に出会って感銘を受けたことを覚えている。
当時の私は、遅れてきた反抗期といった感じで、社会に対して非常に社に構えた姿勢でいた。
そんな時分にこの言葉に出会ったものだから、周囲の同級生たちが新しい生活にワクワクしているのを見て、地面に唾を吐いていたものだ。


この言葉には、一定の真実がある。

確かに、明日からいきなりバニーガールになることはきっとできない。
いきなり親戚の大富豪から10億円の遺産が転がりこむこともきっとない。

でも、それはあくまで「きっとない」であり、「絶対にない」ではない。
可能性は0%ではない。
まぁ、0.00000000000001%くらいかもしれないけど。


その意味で、あらゆる事象には可能性が存在する。
問題は、どの可能性が高く、どの可能性が低いか、だ。

その確率は決まっている、というのが冒頭のセリフであり、当時の私も共感したものだが、今は少し違う考えを持っている。

自分の可能性は自分で拡げることができる。
それに必要なのは、自分の意志と行動だ。

バニーガールになりたいなら、なりたいと願い、行動すれば良い。
ドンキに行って、バニーガールのコスプレを買い着てみれば良い。
立派なバニーガールの完成だ。

遺産が欲しいなら、家系図を当たれば良い。
もしかしたら、本当に大富豪がいるかもしれない。
(うちは親戚が少ないので、いないことは確定しているが)


可能性が実現するかは分からない。
でも、行動しないことには増やすことも、本当にないことを証明することもできない。
だから、本当にその可能性に魅力を感じるなら、自分で願い、行動するしかない。


『四畳半神話体系』では、主人公は最後に無限の平行世界に入り込む。
そこにあるのはあり得た未来の自分の痕跡。

その世界の自分が幸せかどうかは分からない。
でも、あり得た未来は無限に存在する。

今になって思う。
あの物語で本当に伝えたいことは、
自分の可能性は、自分次第でいくらでも拡げられる
ということなのだ。

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