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【ミステリー】お届け物です (2) 【創作大賞2024 応募作品】



第二章 謎の女

被害届のない事件

 一夜明け、前日の慌しかった一日を忘れさせてくれるかのような晴れ渡る青空が綺麗な一日が始まっていた。大地刑事、内海刑事、山丘刑事も昨日の調書を整理し、報告書を書いて提出を済ませようとしていた。丁度そこに昨日山丘刑事が依頼していたスカイブルータワーマンションの防犯カメラ映像のDVDが届いたのだ。映像は玄関ロビーとエレベーター内部の映像だった。内海刑事は山丘刑事とともに確認をする事にして早速再生機器のある部屋に行った。

 早回しをして宅配の男である大川が玄関に現れるところから再生を開始した。最近の防犯カメラの映像は解像度も高く鮮明に確認できる。二人は録画されている時間をホワイトボードにメモしながら再生していった。

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四月五日 午前九時五十分
大川が玄関ロビーに現れ、インターホンで呼び出し。しかし、覆い被さるように操作しているので部屋番号は確認できない。荷物は持っていない。すぐにオートロックが開錠されエレベーター乗り場に移動。
四月五日 午前九時五十三分
四機あるエレベーターの左から二番目のエレベーターに乗り込んだ大川は二十八階のボタンを押下。他に乗客はいない。そのまま二十八階で降りる。
四月五日 午前十時三十分ごろ
二十八階の二八〇三号室に大川らしき宅配業者が訪問。荷物受け取りを告げるが間違いだということでそのまま帰る。
四月五日 午前十時四十分
二十八階では四機あるエレベーターの左から三番目のエレベーターに乗り込む。荷物は持っていない。大川は一階のボタンを押下。他に乗客はいない。そのままロビーに出てメールボックスコーナーの方からマンションの外へでた。その後は、通報を受けて駆けつけた警官が待つ白いワゴン車に向かい、職質を受けた。
四月五日 午前十一時三十分
山丘刑事が、二八〇三号室の鍵が施錠されていなかったため中に入り平井さんを発見。救急車の手配を実施し、警察病院へ搬送。その後、対人恐怖症のため鎮静剤を自ら服用していたと判明。
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 整理して記述したホワイトボードを見返して、内海刑事と山丘刑事は顔を見合わせた。そして大地刑事を呼んだ。大地刑事はあまり首を突っ込みたくなさそうな態度をしていたが、次第に昨日の怒りを思い出し、一矢むくいてやりたいものだとやる気を見せ始めた。

「内海刑事、大地刑事、これ、おかしいですよ」

「おお、山丘刑事も気づいたか。成長してきたな」内海刑事が答える。

「いやいや、いくら何でもこのくらいは気づくでしょう。少なく見ても三十分位の空白の時間がありそうですよね」

「ああ、この時間から推測されるのは何だと思う、山丘刑事」

「えっ、いや、ちょっとそこまでは」

「そうか。僕が思うに、もしかすると二十八階というのがダミーだと仮定したらどうなる」

「えっ、どういう事ですか」

「うん。防犯カメラを使って我々の目を二十八階に向けさせたかったとしたら」

「えっ、それって違う階で何かの犯行をしたかもしれないって事ですか」

「まぁ、あくまでも推測でしかないけどな。最初にロビーのインターホンに覆い被さっているようにしているのは実際に訪ねていった部屋番号を映されないようにしているんじゃないかと仮定すればこの推理は成り立つだろう」

「おお、さすがは内海刑事だな。俺とおんなじことを考えていたとは」

 山丘刑事は笑いを堪えながら、うなづきながら話し始めた。

「あっ、なるほど。考えてもみませんでした。そう仮定すれば納得できますね。あ、そうだ。今、思い出したことがあります。そういえば鎮静剤を服用した平井さんは、お友達が来たのかもしれないと思って玄関を開けたと言ってました。ということは、ロビーからの呼び出しを受けたわけではないということですよね」

「あー、何でそんな重要なこと。昨日言わないかなぁ。そうすれば俺は三人組に謝る前にもう一度詰め寄ることができたかもしれないじゃないか」

「申し訳ありません。軽く聞き流していました」

「いや、かえって良かったかもしれませんよ、大地刑事」

「ん、なんで」

「あの三人組のリーダー格の大川という男は結構自信満々だったのでしょう。ということは自分の計画に酔いしれている可能性もあります。その間に我々は証拠固めをすることが出来るかもしれません。最も、被害者が出てこなければ最終的には逮捕には至りませんけどね」

「そうだよ。問題はそこだよな。本当に事件が起きたのかどうかまだ分からないからな。それに同じ奴らに二度も頭下げるのは嫌だし。次は、内海刑事、お前の役割だからな」

「はいはい、わかりました。しかし、二十八階がダミーだったとしたら、犯行を予定していた階は二十七階か二十九階という可能性もあるな。もちろん、二十八階の他の部屋という可能性も捨てられないけれど。よし、こうなったらマンションの聞き込みにもう一度行ってみよう。二十七階から二十九階までのリストを作って順番に聞き込みだ。山丘刑事、これから行くぞ。山丘刑事は二十七階から聞き始めてくれ、僕は二十九階からはじめるから」

「分かりました。じゃあ、車を回してきます」

「待て待て、俺も一緒に行くぞ。俺が二十八階を担当してやる。そうすれば素早く終わるだろう」

「アレェ、大地刑事、俄然やる気が出てきたようですね。じゃあ、三人で行きましょう。三人組には三人組で対抗しますか」

「内海刑事、揶揄うんじゃないよ。俺はいつでも前向きなだけだ」

 こうして三人の刑事はもう一度スカイブルータワーマンションに聞き込みのために向かった。到着した時には、すでにお昼近くになっていた。コンシェルジュの女性は交代制のようで昨日の女性とは別の担当者が座っていた。だが昨日のことは連携されているようで内容は把握していた。早速大地刑事が話しかけた。

「こんにちは。昨日こちらにお伺いした横浜署のものです。その後、住民の方から連絡があったり、何か聞かれていることはありませんか。」

「こんにちは、お世話になっています。いいえ、特に何もありません。むしろ、昨日パトカーが来たということすらそれほど噂になっていませんので」

「ああ、そうですか。マンションというのは人の関係が希薄なんですかねぇ」

「分かりませんが、やはり干渉されることが嫌いな方は多いように見えます。それで、今日は何かされるのでしょうか」

「ああ、そうなんですよ。一応、二十七階から二十九階の方々に昨日何かなかったか念のために確認をしようと思いまして伺いました。マンションの中に入れていただけますか。今日は、同行していただかなくても結構です。我々三人で手分けして実施しますから」

「分かりました。それではどうぞお入りください。ただ、平日なのでお留守の部屋が多いのではと思いますけれど大丈夫ですか」

「はい、大丈夫です。留守の場合は、また夜にでも改めて伺うかもしれませんけれど」
「分かりました。あっ、それから現在は売りに出ている部屋もあり空室もございます」

「そうですか、では空室の部屋番号だけを教えていただけますか」

「少しお待ちください。えーっと、分かりました。二九〇八号室と二八〇一号室です」

 コンシェルジュの女性にエレベータ乗り場までエスコートしてもらい、三人の刑事は同時にエレベータに乗り込んだ。そして二十七階から順番に降りてそれぞれが異なる階の聞き込みを開始していった。コンシェルジュの女性が言っていた通り、各フロアには留守宅が多く、全ての部屋の確認が取れたわけではなかった。

 二十七階を担当した山丘刑事は、あまりにも収穫のなさに肩を落としていた。最初に訪問した二七〇一号室は一人暮らしのおばあちゃんだったので在宅だったのだが、刑事と話をすることなんてないから上がってくれと頼まれ、ついつい長居してしまった。もちろん、事件のことは何も知らなかった。二十七階には留守宅が三部屋あり二七〇二号室、二七〇四号室、二七〇七号室は確認ができなかった。ただ、それぞれの隣の部屋は在宅だったので、隣の物音なども確認したが何も気づいた人はいなかった。最も二七〇三号室は赤ちゃんがいる部屋だったので、隣で音がしても気づくことはないということだった。

 二十八階を担当した大地刑事は、二八〇二号室から確認を開始。特に有用な情報は得られなかったが、二八〇六号室を訪ねた時のこと。

「すみませーん、横浜署の大地と言いますが、少しお話よろしいでしょうか」

 部屋の住人である猪木坂と言う女性が玄関をゆっくりと小さく開け、警察バッジを確認したあと、玄関扉を大きく開いてくれた。

「こんにちは、突然失礼致します」

「はい、猪木坂です。刑事さんが一体何用ですか? もしかして事件なんですか、このマンションで」

「いいえ、そう言うわけじゃあないのですが、確認だけさせてもらっている次第です」

「ああ、そういえば昨日救急車がきて二八〇三号室の平井さんを運んでましたよね。大丈夫だったんでしょうか。ちょうど廊下に出た時、運ばれるところを見ちゃったんですよ、私。もしかして、平井さんは強盗か何かに襲われたんですか。わぁ、怖い。一緒のセミナーに出ていた人なんで、ちょっと気になりました。普段はあまり話すことはないんですけどね」

「ああ、平井さんをご存知なんですね。昨日のことは特に問題はありませんよ。ちょっとした手違いがあっただけです。ところで、一緒のセミナーと言うのはなんですか」

「ふふ、今は主婦でも投資する時代でしょ。でも、私たちよく分からないので、銀行の人に説明会をお願いしたの。そしたらこのマンションで開催してくれるって言うじゃないの。渡りに船よ。早速お願いして開催してもらったのよ。何回か実施されているのよ。おかげで私も投資したのよ」

「そうでしたか。それは素晴らしいことですね。えっと、平井さんは確か直接会話することがあまり得意じゃないと聞いていますが、セミナーに参加されたのですか」

「あら、よくご存知ね。さすがは刑事さんだわ、尊敬しちゃう。そうなのよ、平井さんはお友達じゃなければ相手の顔を見ることもあんまり得意じゃないらしいのよね。だから、セミナーは特別に平井さんだけリモート接続っていうの。あのテレビ電話みたいなもの。それで受けられているわ。私なんかは、顔を見て話さないとかえって落ち着かないのにねぇ。やだ、もう、刑事さんったら」

「あ、いえいえ、貴重なお話ありがとうございます。それで、昨日の朝十時前後のことなんですけど、宅配を受け取ったり、変な物音とか人の声とかは聞かれませんでしたか」

「えー、昨日の朝。誰も来なかったし、知らないわ。私って宵っぱりだから朝は弱いのよ。だから起きるのがお昼近くになっちゃうの。やだもう、恥ずかしい、刑事さんったら」

「あっ、そうですか。それは色々と大変ですね。お話ありがとうございました。それではこの辺で失礼します」

「あら、もう帰るの。私一人だから、なんならお茶でも飲んでいかれたらいいのに。上がりませんか?」

「いえいえ、まだ仕事がありますので」

「そーお、じゃあ、今度お休みの日にでもどうですか。部屋番号をロビーから押していただければすぐにロック開錠するわよ」

「はい、その節はよろしくお願いします。では失礼します」

 流石の大地刑事もタジタジになってしまうような相手だった。これ以外の部屋では収穫はなかった。留守宅が二部屋あったが、後にコンシェルジュに確認したところ、二部屋とも昨日は留守だと言うことがわかった。クリーニングの依頼にコンシェルジュに来て話をしていたそうだ。

 二十九階は内海刑事が担当した。他の階と同じような状況ではあったが、一部屋だけ用心深い対応があった。最初に二九〇一号室を訪ね、玄関のチャイムを鳴らした時のこと。すでに十二時を回っていた。しばらく間が開いて女性の声が聞こえてきた。

「は、はい。どちら様でしょうか」

「私、横浜署の内海というものです。少しお話をお伺いしたいことがあるのですが、お時間よろしいでしょうか」

「今、でしょうか」

「はい。できれば今お伺いしたいのですが。他のお部屋にも順番にお聞きしています」

「そうですか。では、このままインターホン越しでもよろしいでしょうか。着替えていないもので」

「あぁ、そうですか。分かりました。ではこのままお尋ねさせていただきます。昨日の午前十時前後に宅配業者が訪ねてきたり、隣近所で変な物音を聞いたりされてませんでしょうか」

「えっ昨日ですか? いいえ、特に変わったことはありませんでした。誰も来ませんでした。もう、よろしいでしょうか」

「そうですか。ありがとうございました。お忙しいところ失礼しました。もし何か思い出したことがあればコンシェルジュが警察の方にお知らせください」

「わかりました。では失礼します」

 随分と用心深い人だと思いつつも、内海刑事は疑問を感じていた。

『あれだけ用心深いのに、どうして本物の刑事かどうかを確認しようとはしなかったのだろうか。着替えていないからと言っていたけれどすでに昼過ぎという時間を考えると本当だろうかと思ってしまうな』

 その後の部屋で、二九〇一号室の女性についても聞いてみたが、やはりマンションにおける希薄な人間関係のせいか、知っている人がいない。二九〇五号室を訪ねた時も、ダメもとでそれとなく二九〇一号室のことも訪ねてみると反応があった。

「突然、申し訳ありません。横浜署の刑事で内海と申します。少しお話よろしいでしょうか。えっと、とびさかさんでよろしいでしょうか」

「はい。いいですよ。飛坂です。珍しいでしょ、あまり好きな苗字じゃ無いけど仕方ないですよね。で、何でしょうか」

「昨日の午前中に宅配業者が来たり、変な物音や声を聞いたりしてませんか」

「私は、特に気がつきませんでしたよ。宅配もここには来てないし」

「そうですか。ちなみに二九〇一号室の奥さんは用心深い性格の人なんでしょうか。ご存知なら教えていただきたいのですが」

「え、五本木百合さんのことですか。百合さんは正反対ね。確認もせずにドアを開けてしまうようなあっけらかんとした性格よ。それに恋に落ちやすいタイプかも。ふふ」

「五本木さんとは親しいのですか」

「親しいというより投資セミナーの受講者仲間なの。セミナーの後でお茶したりすることがあるから、少しだけ仲良くしてるわ」

「投資セミナーですか。それはどちらで開催されているのですか」

「マンションの中の共有スペースよ。住人が使えるラウンジがあってね。そこで開催されるの。もう、一段落しちゃったけどね」

「そうですか。どなたが参加されているかわかる名簿とかありますか」
「あるわよ。ちょっと待って。コピーを差し上げるわ。個人情報だから気をつけてね」

「ありがとうございます」

「はい、どうぞ」

 こうして内海刑事は疑問を抱いたまま二十九階を後にした。もう一度二九〇一号室を訪ねようかと迷ったが、現状では追加の情報を得るのは困難と判断しロビーに戻った。ロビーでは山丘刑事がガックリと肩を落としてソファに座っていた。まだ大地刑事は戻ってきていない。内海刑事は山丘刑事が戻っていることをチラッと確認し、コンシェルジュのところへ向かった。

「ありがとうございました。一つお伺いしたいのですが、こちらのマンションで投資セミナーが時折開催されているとのことですが、過去の開催日時などは分かりますか」

「ええ、ラウンジですよね。予約されてから利用されてますのですぐ分かります」

「ありがとうございます。ちなみに講師の方はどちらの方なんでしょうか。毎回違う講師が来られるのでしょうか」

「いいえ、毎回同じ方で、りんご銀行横浜支店の藤巻翔太様が講師です。投資部門の方だそうです。連絡先はこちらです」

「ありがとうございます。いやー、私も聞いてみたいなぁ」

「残念ですが、女性向けセミナーなので男性の方は参加できないんです。最も住人の方という制約もあります。それに、一通り終了しているようなので、現在は個別相談のみ対応されているようですよ」

「そうですか、分かりました。ちなみに投資以外のセミナーみたいな事は実施されているのでしょうか」

「ええ、もちろん。だんだん少なくはなってきましたが、今ではヨガ教室や書道教室、あとは俳句が年に二回程度開催されているようです。場所は全てマンション内のラウンジか多目的ルームと呼ばれる場所が使用されています」

「なるほど。それぞれの参加者の名簿のコピーを頂く事はできますか」

「はい。お待ちください。ただ、住民の皆さんのプライバシーにも関わる事なので取り扱いには十分ご注意ください」

「はい。心得ています」

「そうですよね。はい、どうぞこれがスケジュールと参加者の名簿です」

「重ね重ね、助かりました。また、何かあれば連絡を差し上げます」

 話をしている間に大地刑事も戻ってきて山丘刑事とソファーで話をしている。どうやら内海刑事を待っているようだ。もうすぐ夕方になろうとしている時間になっているので帰宅する会社員を待って、留守宅だった部屋の確認もしたいものだが、混雑時に長居するのも迷惑になるだろうと考え一旦署に戻ることにした。


殺人事件

 横浜署に戻った三人の刑事は打ち合わせをすべく空いている会議室に入った。何しろ被害届は出ていないから堂々と動くわけにもいかない。三人は、聞き込みの内容を共有するためホワイトボードに部屋番号を書いて空室と不在のマークを付け、特に不審な点はなかった部屋にも印をつけた。気になる情報があった部屋は二重丸が付けられ、三人で確認した。二十七階においては、怪しいと考えられる部屋はないと判断された。二十八階は、二八〇三号室の平井と二八〇六号室の猪木坂に印が付けられた。怪しいというより投資セミナーの受講者という共通点だった。もちろん、投資セミナーは他の階からの参加者も多いがとりあえずは、二十七階、二十八階、二十九階を確認した方が効率がいいだろうとの判断だった。二十九階では二九〇一号室の五本木、二九〇五号室の飛坂に印がついた。そして、内海は追加で説明した。

「二九〇一号室の五本木百合さんなんだけど、インターホン越しにしか話をしてくれなかったんだよな。でも、二九〇五号室の飛坂さんが言うには、確認もせずにドアを開けてしまうような性格だと言う事なんだ。だから少し引っ掛かってはいるんだよね。五本木さんは誰も訪ねて来てはいないと言ってはいたけどね」
「うーむ。それは、その五本木百合が嘘をついている可能性があると言うことかもしれんな。ただ、そうするとなぜ嘘をつかなければいけなかったのかと言うことを突き止める必要があるじゃないか。あーーー、俺には分からん。おい、山丘、静かに聞いてないでなんとか言え」

「言えと言われても、頭が回りませんよ。なんでなんですかー。ひょっとして五本木さんと内海刑事が会話した時、実は別人だった。なんて言うオチではないでしょうか。あっ、いや、すいません。ふざけてしまいました。ごめんなさい」

「ん、いや、ちょっと待てよ。そうか、別の女性が五本木さんの部屋にいて、本人の代わりに対応したということは考えられるな。うん、山丘刑事の言うことも一理ありそうだ。どうですか、大地刑事」

「うーん。俺に振るなよ。もう、分からないくらいこんがらがってるぞ。今日はもう終わろう。ビールでも飲んで帰らないか」

 丁度帰宅ラッシュが始まった六時過ぎになっている。多くのサラリーマンもいっぱい引っ掛けて帰ろうと思う時間だろう。刑事とて例外ではない。久しぶりに三人で行こうかという雰囲気になっていた矢先、緊急通報が入ってきた。

「横浜のスカイブルータワーマンションで殺人事件発生。被害者は二九〇一号室の五本木百合という女性、三十一歳。出張から帰宅した夫が第一発見者。至急、現場に急行してください」

 内海刑事たちは顔を見合わせた。内海刑事は自分がインターホン越しとはいえ、数時間前に会話した相手だと思い、後悔の念に苛まれた。もしかすると、話をした時に第三者がいたのではないかと思ったのだ。三人は急いでスカイブルータワーマンションを目指し、赤色灯を付けサイレンを鳴らした車に乗り現場へ向かった。

 現場は、混乱していた。マンションの住民は不安そうに見守っている。その眼差しは、マンションの価値を落とさないでと言っているようにも見える。集合住宅のエゴが現れているようだ。すでに警官が到着しており、黄色い規制線テープが貼られている。ロビーではコンシェルジュの女性が不安そうに見守っていた。警察バッジを見せながら大地刑事たちは二十九階まで上がった。つい数時間前に来たばかりなので記憶もまだ新しい。内海刑事も複雑な気持ちで殺害現場に入っていった。まずは仏様となってしまった五本木百合の状態を確認しなければならない。大地刑事、内海刑事、山丘刑事は一旦白い手袋をした両手を胸の前で合わせ目を閉じた。そして、しゃがみ込み被害者に触れない様にして状態を観察した。

「被害者の左手は中途半端に開いてお腹の前にあるみたいだな。これってもしかすると揉み合って相手にナイフを取られて刺された可能性もありそうだと思わないか、なぁ、内海刑事」

「なんだか、現場になるとすごい知識を披露しますね、大地刑事」

「そりゃあ、俺くらいの経験を積めばな、仏様が教えてくれるように分かるものさ」

「流石ですね。でもその可能性はありそうですね。被害者はキッチンに一旦もたれかかって、前のめりに倒れた様ですから、ほら、ここに右手の後が残っています」

「大地刑事も内海刑事も観察力がハンパないっすね。僕、仏様が怖くて凝視できませんよ」

「場数を踏めば慣れるもんなんだよ」

「大地刑事、こっち見てください。キッチンの食器などが散乱しているところを見ると、揉み合っていたのかもしれませんね。その結果の出来事の可能性が出て来ました」

「ということは顔見知りの犯行なのかもしれないな」

「まぁ、まだ確定はできませんけど。可能性は高そうですね。とりあえず、ご主人の話を聞いてきます」

 奥のリビングでは被害者の夫と思われる男性が頭を抱え込んでいる。とりあえず事情を聞かなければならない。内海刑事が声をかけた。
「こんにちは。横浜署の内海と申します。こっちは、大地刑事と山丘刑事です。気を落とされているとは思いますが、状況を確認したいのでお話をお聞かせ願えますか」

「ああ、お世話になります。五本木京一と申します。妻は五本木百合です。ついさっき、出張から帰ってきたばかりです。玄関の鍵が空いていたのでおかしいと思いながら中に入ったら、妻がダイニングのところでうつ伏せになって倒れていたんです。周りに血が流れていたので一体何事かと思って声をかけたのですが、全く応答がありませんでした。焦って抱き起こそうと思ったのですが触った瞬間に体が冷たくなっていましたので、驚いてそのままにして通報しました」

「ご主人は何時ごろ帰宅されたて発見されたのですか」

「大体十八時ごろでした。駅からまっすぐ帰って来ましたから」

「失礼ですが、お仕事は何をされているのですか」

「はい、横浜市役所勤務です。ただ、昨日から一泊で千葉県に出張をしていました。それで先ほど帰ってきたばかりなのです」

「なるほど。出張に出られる前に奥様に何か変わったことはありませんでしたか」

「いえ、特に変わったことはありませんでした。いつもと同じでいってらっしゃいと見送ってくれました」

 時折、言葉を詰まらせて話す夫がかわいそうではあるが、聞きにくいことも聞かなければならない。時には、その場で罵倒されることもあるが、致し方ない。そう思いながら、内海刑事は質問を続けた。

「奥様は誰かから恨みを買うようなこととか、誰かに脅されているような様子はありませんでしたか」

「な、何を言いたいんですか。私の妻は真面目で私の帰りを静かに待っていてくれるような私には勿体無いくらいの妻だったんです。侮辱しないでください」

「申し訳ありません。そんなつもりは毛頭ありません。毎回こんな時にはお聞きしていることなんです。ところで奥様が使われていた携帯などはありますか」

「ええ、ありますよ。多分キッチンにあると思います。それが何か」

「申し訳ありませんが、ちょっと拝見させてください。パスワードなどはご主人はご存知ですか」

「いや、ええ、知っています」

「そうですか。それでは向こうにいる刑事に教えてあげてください」

 内海刑事はパスワードを知っているかと質問した際に、一瞬口ごもった夫に違和感を感じた。もしかすると本来は妻から教えてもらっていたのではなく、盗み見て知っているのではないのだろうかと考えたのだ。ただ、単なる憶測にしか過ぎないので、口には出さなかった。山丘刑事と五本木京一はキッチンに行き、妻の五本木百合が使っていた携帯を手にして電源を入れた。山丘刑事はその画面を見て驚いて携帯を持って内海刑事と大地刑事のところに来た。

「奥さんの携帯、綺麗に消去されています」

「何、どういうことだ。全て消されているっていうことか」

「はい、完全に初期化されてしまっています。これでは何も確認できないと思います」

「ご主人、これはどういうことでしょうか。何か覚えがありますか」

「ま、まさか。何も知りませんよ。私も妻のスマホは今、刑事さんと一緒に確認したんですから」

「ふーむ。変ですね。山丘刑事、携帯の指紋も採取するように鑑識に渡しておいてくれ。さて、ご主人が帰ってきた時には玄関の鍵はかかっていなかったということでしたが、奥様は玄関の鍵をかけないでいることは多いのでしょうか」

「まさか。普段はちゃんとロックしているはずですよ。そりゃあそうでしょ。マンションといえども、女性が一人になるのですから」

「ということは、顔見知りの人が訪ねてきて鍵を開けて招き入れたということになりますよね」

「そ、そうなりますね」

「奥様と親しいお友達の名前などご主人はお分かりになりますか」

「えっと。妻の友達関係はほとんど知らないんです。最近はマンションで開催されるセミナーとか教室には通っているようなことを話していましたが」

 その時、鑑識の一人が大地刑事と内海刑事に近づき、いくつかの情報をくれた。死因はナイフで刺されたことによる失血死、死亡推定時刻は本日の午前十一時前後だった。そして床には争ったような乱れた足跡も残っていた。偽装している可能性もあるため、断言はできないということだ。男性と思われる足跡は正確には足跡というより靴下のようなものの繊維がところどころで確認され、その形跡は寝室にまで続いていた。

 内海刑事は夫の五本木京一の足元を確認した。ちゃんとスリッパを履いているのを見て念押しのために質問した。

「失礼ですが、ご主人はいつも室内ではスリッパを使われていますか」

「えっ、はい。帰ったらすぐに靴下を脱ぐのでスリッパは必ず使います。素足や靴下で歩くと脂が付くと妻から怒られていましたので」

「なるほど、そうですか。最近、靴下で室内をウロウロしたことはないということですね」

「ええ、必ずスリッパを履いてます」

「それから、奥様に刺さっているナイフはお宅のナイフでしょうか」

「多分、我が家の果物ナイフだと思います。よく妻が使っていましたから。キッチンのナイフ立てを確認すれば分かります。ちょっと待ってください」

「お願いします」

「やはり我が家のナイフです。果物ナイフが立てられている場所にありませんから」

「わかりました。それと、インターホンも確認させてもらっていいですか」

「インターホンですか? ええ、どうぞ、構いませんよ」

 そういうと大地刑事は不思議そうな顔をして内海刑事に耳打ちした。

「おい。インターホンで何を確認するんだ」

「大地刑事、今時のマンションのインターホンは、ロビーに訪ねてきた時の映像が保存される機能がついているんですよ。それを確認しようと思いまして」

「ああ、そうかそうか。うん、俺もそれは確認しておいた方がいいと思ってた。訪ねてきた人の映像を確認できるからな。今は便利になったもんだなぁ」

 確認したインターホンには確かにロビーの映像を日付とともに記録する機能がついていた。内海刑事は、最後はご主人の映像が写っているのかと思ったがそれはなかった。考えてみれば自宅の鍵を持っているのでロビーで呼び出す必要はないなと思い直した。直近の映像は前日の午前十時前、宅配業者だった。大地刑事と内海刑事は思わず「あっ」と叫んでいた。

「大地刑事、これはあの大川のようです。五本木さんの部屋番号を押していたんですね。そして二十八階で降りて平井さんをたずね、階段で二十九階のこの部屋にやって来た。そう考えられそうですね」

「おお、そうだな。やっぱりあいつらは何かやらかしていたんだな。しかし、殺人まで犯しているとはな。俺は最初から確信していたんだよ、よし、すぐに手配しよう」

「大地刑事、早とちりは禁物ですよ。死亡推定時刻は今日の昼前であり、昨日の朝ではないんですから」

「あっ、そうか。確かにそうだ。でも出直してきてもう一度押し入った可能性もあるかもしれんぞ。いずれにしても防犯カメラの映像は一応確認した方が良さそうだな」

「そうですね。防犯カメラは確認すべきでしょう。それ以外はとりあえず、司法解剖の結果を待って、再検討しましょう。もしかするといくつかの事案が絡み合っているのかもしれません。一応、大川たちの動きも再度確認した方が良さそうですね」

「なっ、そうだろ。えっ、な、何。いくつかの事案。うんうん、そうだな。その線もありうるな。おい、山丘刑事、インターホンの映像が持ち出せるなら借りてきてくれ」

「はい、分かりました。多分大丈夫だと思います。SDメモリーに録画されているようなので、そのままお借りできると思います。ただ、各部屋の玄関に直接来た訪問者の録画がないのが残念ですね」

「ん、山丘刑事。それはどういうことだ。全て録画されているだろう」

「いえ、各部屋の玄関前の録画の場合は、ロビーの録画とは別に玄関前のインターホンにカメラが必要なんですよ。このマンションの場合は、音声のみの対応で録画や録音の機能はないみたいです」

 映像により、昨日の三人組の大川という男が二九〇一号室の五本木を訪ねて来たことは明らかだった。だがそれだけでは事件が発生したという証拠にはならない。まして殺人事件に関しては翌日に起こった事件であり、しかも死亡推定時刻あたりで内海刑事は二九〇一号室にいたと思われる女性とインターホン越しに会話もしている。内海刑事の頭の中も混乱していた。


炙り出された事実

 横浜署に戻った三人は、会議室に入り捜査一課長の荒波とともに事実の整理を始めた。流石に殺人事件の可能性が高いということで捜査一課長の荒波の鼻息は荒くなっていた。無断駐車による犯罪の可能性を空振りした直後の同じ場所で人が死亡したということもあり、荒波一課長も関連性を明らかにする必要性がありそうだと認識していた。ホワイトボードには時系列に経緯が書かれている。これは無断駐車の件で調査した防犯カメラの映像を追いかけた内海刑事と山丘刑事が書き出したものだった。

「内海刑事、この記述に今回の殺人事件に関わる事実を書き足してくれ」

「分かりました。まさか、無断駐車の件がこんな形で繋がってくるとは思ってもいませんでしたが、強い関連性はあるものと考えています。ただ、無断駐車して何かを実行した三人組は翌日には現れていませんので、死亡推定時刻からすれば、直接被害者の死亡につながる行為はなかったものと考えざるを得ないと思っています」

「なるほど。しかし、その三人組が薬を投与し何かを心配した被害者は目が覚めた後に自らナイフで自殺したという可能性はどうだ。死亡時の手の位置は気になるが、刺してしまった後痛みに耐えられずもがいてしまった結果かもしれないぞ。最も、鑑識の結果を待たなければなんとも言えないので先入観は禁物だが。なぁ、大地刑事」

「はい。私も全く同様の可能性を懸念していましたが、まだ鑑識から連絡が入っていないため発言を控えていました」

「なんだ。言ってくれればいいのに。相変わらずだな、大地刑事は」

「はい恐縮です」

 内海刑事は、大地刑事、山丘刑事とともに聞き込みで得られた情報のうち、二日間の間に関することをホワイトボードに追記し、それ以外に得られた情報を別のホワイトボードに列挙し始めた。

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四月五日 午前九時五十分
大川が玄関ロビーに現れ、インターホンで呼び出し。しかし、覆い被さるように操作しているので部屋番号は確認できない。荷物は持っていない。すぐにオートロックが開錠されエレベーター乗り場に移動。
<追記> 呼び出した部屋は二九〇一号室の五本木宅(五本木宅のインターフォンには九時五十一分の時刻で記録が残っている)
四月五日 午前九時五十三分
四機あるエレベーターの左から二番目のエレベーターに乗り込んだ大川は二十八階のボタンを押下。他に乗客はいない。そのまま二十八階で降りる。
<追記> 推測 大川はエレベーターを降り、非常階段を使って二十九階の二九〇一号室の五本木宅へ
四月五日 午前十時三十分過ぎ
二十八階の二八〇三号室に大川らしき宅配業者が訪問。荷物受け取りを告げるが間違いだということでそのまま帰る。
四月五日 午前十時四十分
二十八階では四機あるエレベーターの左から三番目のエレベーターに乗り込む。荷物は持っていない。大川は一階のボタンを押下。他に乗客はいない。そのままロビーに出てメールボックスコーナーの方からマンションの外へでた。その後は、通報を受けて駆けつけた警官が待つ白いワゴン車に向かい、職質を受けた。
<追記> 推測 大川は二九〇一号室の五本木宅で三十分以上過ごした後、再び非常階段で二十八階に戻り、二八〇三号室の平井さん宅を訪問し玄関先で荷物の受け取りについて話をした
四月五日 午前十一時三十分
山丘刑事が、二八〇三号室の鍵が施錠されていなかったため中に入り平井さんを発見。救急車の手配を実施し、警察病院へ搬送。その後、対人恐怖症のため鎮静剤を自ら服用していたと判明。
四月六日 午前十一時から十二時の間
二九〇一号の五本木百合さん殺害
四月六日 午前十一時五十分
内海刑事、二九〇一号室で聞き込み。インターホンのみで女性が対応。
四月六日 午後六時過ぎ
二九〇一号室の五本木京一(市役所勤務)が出張から帰宅後発見し妻が殺害されていると通報。

その他の情報
マンションでは定期的に教室やセミナーなどを開催。
・女性むけ投資セミナー 講師はりんご銀行広島支店の個人投資担当藤巻翔太氏。ただし、セミナーはすでに終了。五本木百合、平井悦子、猪木坂ら十名が参加
・ヨガ教室 先生はマンション住人の三一〇七号室の二ノ坂由美。ヨガ教室は週一で火曜日の午前中に開催中。五本木百合も含め五人程度が参加
・書道教室 先生は外部の書道師範で出雲松雲 最近は人気がなくなっている
・俳句教室 先生は外部の大山隆一 高齢者が多い
二八〇三号室の平井の対人恐怖症は周りの人も知っている
二九〇一号室の五本木京一の出張は市役所に確認済み
二九〇一号室の被害者のスマホが初期化されていた
犯行に使われたナイフは二九〇一号室の被害者宅で普段使用しているナイフ
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 まだまだ関連を強く指し示す情報はない。これから捜査を通して絡まった紐を解いていくしかない。荒波一課長は聞き込みで留守だった部屋への再確認よりも、五本木百合の交友関係を先に洗い出した方がいいだろうと判断した。

「大地刑事、内海刑事、まずは五本木百合の身辺を洗ってくれ。交友関係、特に男がいるかいないかを含めて洗い出してくれ。それから山丘刑事、初期化されたスマホの復元が可能かどうか鑑識経由で署内の詳しいやつを探して確認してくれ。それが終わったら、再度盗まれた金品は本当にないのかもう一度ご主人に確認に行ってくれ。ご主人と話をするときは被害者と仲良くしていた友達や学生時代の友人などの情報を聞き出して大地刑事と内海刑事に連携して以後は三人で手分けして捜査してほしい」

「了解しました。ではまず我々は、投資セミナー関連から洗いましょう。そういえば、大地刑事は二八〇六号室の猪木坂さんとはすでに面識があるんですよね。お任せしてもいいですか」

「えっ、内海刑事、それは嫌がらせかぁ。そりゃあ、ご婦人は好きだけど猪木坂さんは話が長くなりそうだしなぁ」

「大地刑事、いえいえ、そんな相手だからこそ、経験豊富な大地刑事にしか対応できないと思うんですよ。僕が行っても大した情報を引き出せないかもしれないし」

「ん、まぁ、俺ぐらい経験豊富になれば、確かにいろんな情報を聞き出すことができるかもしれないな。まぁ、後輩が対応して時間ばかり浪費するわけにも行かないしな。仕方がない、この大地広史が人肌脱いでしんぜようぞ」

「いよっ、大統領」横から山丘刑事が茶化していた。

 情報を整理したが、まだ何も手がかりがない状態だった。そんな時にタイミングよく鑑識からの報告が飛び込んできた。刑事たちは何か新たな手がかりが見つかってはいないかという期待を込め、報告を聞いた。

「まず、死因ですがナイフが腹部から胸部に刺さったことが原因で失血死したのが直接の原因です。被害者は二回刺されていますが、その二回目が致命傷だったと考えられます。ただ、一回目と二回目の殺傷痕は時間的に見ても十分以上間が空いていると思われます。犯人は観察していて二回目の犯行に及んだのかもしれません。亡くなる直前にはかなりのショック状態に陥っていたと思われる筋肉の硬直も見られました。したがって、ショック状態になり自分自身で動くことを諦め、二回目の殺傷痕から大量の血液が流れ出たことによる死亡と推定されます。死亡推定時刻は十一時から十二時の間です。胃の中にはかなり強い睡眠導入剤を服用した後が見られました。恐らくは死亡する少し前くらいに目覚めたのではないでしょうか。二十時間以上は眠っていたものと思います。理由は不明ですね。持病を持っているわけでは無いようなので。なお、第三者と争ったような形跡が着衣の乱れや髪の毛の乱れから推測できます。髪の毛を引っ張られて抜けた毛が床に落ちていました。恐らくは相手の髪の毛を被害者も掴んでいたと思われます。落ちていた毛髪は二人の異なる人物のものが混ざっていました。黒い髪と茶色く染めた髪です。被害者の髪は茶色く染められていましたので黒い髪の人物が同じ部屋にいた人物でしょう。それから、刺し傷を検証したところ、刺さったその角度が下から上に向けて異常なほど鋭角な角度で刺さっていました。これは自害しようとして刺したものではないと断言できます。どちらかといえば被害者が持っていたナイフを逆に押し返され、下から突き上げて刺さったものか、最初から殺意を持って突き上げて刺したものだと判断できます。もう一人いた人物が被害者に襲われて咄嗟に反撃した結果だとしたら正当防衛だった可能性もありますがそこまでは推定できません。それから遺留品ですが、ナイフに付着していた指紋と同じものが、キッチンのシンクの中にあったコップ、インターホン、玄関のドアノブからも検出されました。拭き取ることなく慌てて出て行ったのでしょうね。それに、その時部屋にいた人物は揉み合った時に怪我をした可能性があります。ナイフから採取された血液はB型だったのですが、RH+とRH−の二種類が検出されました。被害者は珍しいRH−でした。つまり、被害者以外の血液も付着していて、偶然にもB型だったということです。恐らく逃げ出して行った人物には真新しい切り傷があると思われます。血痕のDNA鑑定はまだ終了していませんが、少なくとも二人以上の人間が現場にいた可能性が高いということなります」

 鑑識からの報告を聞いて内海刑事は、自分とインターホン越しに会話した女性にほぼ間違いないだろうと確信していた。そして、大地刑事も内海刑事も被害者の夫である五本木京一が右手に絆創膏をしていたことを思い出した。

「いろんなことが分かりましたね。少なくとも僕がインターホンで会話したのはこの時に被害者と一緒にいた女性でしょう。なので、揉めあった相手というのは女性ですね。それにインターホンの録画にはロビーからの来客は写っていなかったので。ということはかなり親しかったのか脅していた女性がいたということなんでしょうね。傷口が治ってしまう前に見つけたいですね」

「そうはいっても、マンションの住人をしらみつぶしに捜索するわけにはいかないな。何せ三百世帯以上入居しているマンションだからな。しかし、これで殺人に関しての捜査の範囲は絞られたと言っていいだろう。ただ、睡眠導入剤に関しては前日の無断駐車の三人組との関係が懸念されるな。時間的にも一致しそうだ。よーし、さっそく動き始めてくれ。横浜署の精鋭刑事たち」

 鑑識からの新たな情報を得て三人の刑事は動き出した。山丘刑事は一番若いというだけでIT絡みの調査の仕事を毎回任されていた。ただ実際には山丘刑事自身はあまり得意ではなかった。プライベートで使っているスマホも機種遅れの一番安く手に入れたものだったし、彼女もいないのでほとんどは大学の友達からの連絡用として使っているだけだった。もちろんゲームもしないし動画を見ることもない。おかしくなったらすぐに修理を依頼してしまう位だった。ただ、それでも大地刑事よりは頼りになったのかもしれない。さて、今回任されたのは初期化したスマホの復元だった。山丘刑事は署内でスマホやパソコンに詳しい担当者を知っていた。実は緑川未来という同期入社の署員がサイバー犯罪を担当する部門で働いているのだ。

「久しぶりだな、山丘。最近はどうしてるんだ。今年も同窓会やるんだよな。年に一度の楽しみだよ。悪質な事件ばかり追いかけているから。今日は一体どうしたんだ」

「緑川、ほんとご無沙汰だね。今事件を追いかけているんだけどちょっと相談したいことがあってきたんだ。実は、事件の被害者が使っていたスマホを復元したいんだが、初期化された後でどうすれば中身を確認できるか知りたいんだよ」

「初期化されたスマホか。初期化する前にどうやって使っているかにもよるけれど、バックアップのことを考えて使っている人なら、パソコンかクラウドにバックアップがあると思うよ。ほとんどリアルタイムで同期されているはずだから、アクセスするためのIDとパスワードさえわかれば復元できるはずだよ。それが分からなければ、専門業者に持ち込むしかないな。使っているOSにもよるけど」

「へぇ、クラウドにバックアップなんてあるんだ」

「おいおい、お前、やってないの。使ってるスマホなんだっけ」

「僕はこれ」

「うわっ、古っ。もっと最新のを買えよ。これじゃ、アプリも対応してないのが多いんじゃないのか」

「えー、わかんないな。電話とメッセージが使えればいいから」

「はっ、それじゃガラケーと変わんないじゃん。爺さんかよ、お前。もう少し勉強したほうがいいよ」

「そうだな。考えておくよ。で問題のスマホはこれなんだけど」

「あ、アイフォンね。復元アプリも世の中にはあるけど、本人だけが知っているIDとパスワードは必要になるよ。その辺はどうなのかな」

「被害者の家族に確認してみるよ。それがわかれば可能なのかな」

「うーん、回答としては不可能ではないというべきかな。可能性は高いと思うけど。まずはクラウドにバックアップがないか確認したほうがいいと思うよ」

「わかった」

 山丘刑事は、俄かに得た知識を忘れないようにメモして、五本木京一の元に向かった。

 五本木の自宅ではまだ司法解剖から戻ってこない妻の百合を待つために夫である京一は仕事を休み、部屋でぼんやりとしていた。キッチンの引き出しを何気なく見ていたら、多くの投資に関するガイドやメモが出てきた。どうやら妻はかなりの投資を実際にしていたということをこの時になって改めて理解した。それだけ普段はすれ違いの多い夫婦であり会話がなかったのだ。京一は妻がこうなった原因の一つには自分にもあると感じ始めていた。そのことがまた大きな後悔の気持ちを作り出した。時々言い争いをしてカッとなることもあり、いつも後悔ばかりしていたことを思い出していた。知らず知らずに溢れてくる涙。いなくなって初めて気づく妻の存在に涙していた。いつから心が離れたのだろうかと京一は振り返った。数年前、京一にはふとしたことで知り合った若い女性がいて、妻には内緒でホテルデートを繰り返していたことがあった。もしかすると妻は感づいていたのかもしれないと思いながら、自分の愚かな行為を恥じていた。ここ数年、妻の行動に無関心となり何をしているのかさえ知らない自分を振り返っていた。

「百合、ごめん。百合を死に追い込んでしまった原因は僕にあるのかもしれない。君が何をしていたかは知らない。でも、結婚した頃は、お互いのことは全て知っていたような気がする。ここ数年、僕が秘密を持ち始めてから、君への態度も変わったんだろうね、きっと。そして僕も君のことを気にしなくなってしまっていた。いや、安心していたのかもしれない。本当にごめん。君がいなくなって初めて気づいたよ。僕は最近の君のことを何も知らなかったんだって。僕がそっちに行けばまた一緒になってくれるかな」

 京一は考え込みすぎて自分を見失っていた。このまま死んでしまったほうがいいのかもしれないと思い始めていたのだ。そんな時、救いの音がなった。インターホンが鳴り、ロビーに来客があるということを知らせている。京一は一瞬我に帰り、条件反射のようにインターホンにでた。

「はい、どちら様ですか」

「あ、横浜署の山丘と申します。申し訳ありませんが、お話を聞かせていただくことはできますか。ほんの少しの時間で結構です」

「ああ、いいですよ。お入りください」

 力なく返事してオートロックを開錠してくれた京一をおかしいと山丘刑事は感じとり、二十九階の部屋に向かった。すでに京一は玄関ドアを少し開けて待っていてくれた。山丘刑事は小走りで近づいた。

「度々申し訳ありません。奥様のことで少しよろしいですか」

「ええ、もちろん構いませんよ。どうぞお上がりください」

 ダイニングにはまだチョークでたどった五本木百合の死んだ時の後が刻まれている。血痕はすでに拭き取られてはいるが、人の形をしたチョークの後はあまり見たくないものである。山丘は憔悴しきった京一を見て、なんとかしないといけないかもしれないと感じながら部屋に入った。

「度々押しかけてしまい、申し訳ありません。実は、奥様が使われていたスマホが初期化されていましたので、なんとか元に戻せないものかと考えているんです。初期化してしまったスマホを元に戻すにはいくつかの方法があることがわかったんです。奥様が使われていたのはアイフォンでしたよね。もしかしたら、クラウドとかパソコンにバックアップが存在しているのではないかと思ったんです、どうでしょうか」

「はぁ、妻のスマホのバックアップですか。ありますよ。というかあるはずです、クラウドに。妻のスマホの決済カードは私のものになっていますので。同じクラウド契約の中でバックアップをしていますよ。でも妻のスマホを勝手にリカバーして覗いてしまうというのはちょっと抵抗がありますけど。いくら死んでしまったとはいえ、妻にも見せたくないプライバシーはあったかも知れませんし」

「そうですね。そうなんですけど事件の真実を見つけ出すためには必要だと思うんですよ。なんとかご協力して頂けないでしょうか」

「私ね。このまま妻に会いに行こうかと思っていたところだったんですよ」

「えっ、それって」

「ええ、私も死んでしまったほうがいいような気がして。そんな時、刑事さんが来られてふっと我に帰ったんですよ。変でしょ。私は最近の妻のことを全然知らないんですよ。仕事が忙しいことを理由にしてろくに話もしていませんでした。悲しいですよね。夫婦なのに」

「いやいや、ご主人。思い詰めないようにしてください。確かに奥様は亡くなられましたけど、その理由を明らかにしましょうよ。なぜ奥様が亡くならなければならなかったのかとか。我々も全面的に協力しますから、一緒に謎を解きましょうよ」

「ああ、そうですね。私もモヤモヤしたまま妻のところに行ってしまっても、向こ
うで上手く行かなかったら意味ありませんね。ははは、よし、わかりました。犯人を見つけましょう。よろしくお願いします」

「はい。それでは早速、奥様のスマホをバックアップから復活させましょう。ちなみに、同じマンションの知り合いで奥様が部屋に招き入れるような関係の女性っていらっしゃいますか」

「えっ、このマンション内でですか? うーん、よくわかりません。もしかすると通っている教室などで知り合った人がいるのかも知れませんが」

「なるほど、そうですか。わかりました」

 こうして、五本木百合が使っていたスマホは夫の京一が保存していた妻のIDとパスワードを使ってクラウドのバックアップから復元させることができるという希望が出た。クラウドからの復元を待つ間、京一はしきりに自分に原因があったのだと山丘刑事に訴えた。だが、山丘刑事は「そんなことはありませんよ」ということしか言えなかったし、スマホのリカバリーが気になってそれ以外に意識を向けられなかった。だが、落ち込んでいる夫の京一を何とかして元気にしなければいけないと思い、過去の情報を引き出すことで京一の意識をそらせようと試みた。

「ご主人、なんとかして今回の事件の真相を見つけましょう。それでこそ奥様も安心されると思います。そのためにも色々と思い出してください。奥様の学生の頃の友達とか最近懇意にしている友達とか、ご存じありませんか? どんな些細なことでも、絡まった糸を解くヒントにはなると思いますよ」

「ええ、そうですね。まずは妻がなぜ殺されたのか、真相を突き止める必要がありますよね。少なくともウジウジと悩んでいても仕方ないですよね」

「いえ、こんな時なので気が動転してしまうのは仕方ないことだと思います。深呼吸でもしてから、奥様の学生の頃からの友達の話などを聞かせてください」

「お気遣い、ありがとうございます。妻は大学では文学部だったようで、どちらかと言えば一人で読書を楽しむ方だったみたいです。そんなことを以前言っていましたから。それに仲が良かった友達が一人いたようですが、今は結婚してニューヨークに住んでいるそうです。なので、今は会うこともできずに時折寂しがっていました。このマンションに引っ越してからは、ショッピングに出かけるというよりネットでの注文が多かったので外出もあまりしてないみたいでした。ただ性格的にはおおらかな方なので人付き合いが苦手ということはなく、マンションの中のセミナーなどで知り合った人とランチをしたりということはしていたみたいです。ただ、それが誰なのかまでは聞いてません。僕が興味を示さなかったせいかも知れませんが」

「なるほど。それなら我々も把握しています。投資セミナーとヨガ教室に通われていたようですね」

「ああ、そうだったんですね。でもなんで投資セミナーに通っていたんだろう。どちらかというと堅実派で貯金をしていると思っていました」

「なるほど。再度確認ですが、ご自宅に現金や宝石などで無くなっている物はありませんでしたか」

「ええ、あまり現金を置いておかない方なので家にはほとんど現金はありません。一応確認はしましたが、特に無くなってはいないと思います」

「そうですか、そうであれば金品目当ての強盗ではないかも知れませんね。ではまた何か無くなっているようなものを見つけられましたら連絡をお願いします」

「わかりました。あ、スマホのリカバリーが終わったみたいです」

 そうしているうちにスマホのリカバリーが終了したのを確認して、山丘刑事はスマホの中身を署に戻ってから確認しようと考えたが、故人のプライバシーのことを考え、京一の了解をえなければならないと考えた。スマホを初期化しなければならなかった理由が見つかるかも知れないし、メールやラインで新たな人間関係の事実が判明するかも知れないと考えたのだ。

「ご主人、奥様のスマホの内容ですが、我々で確認してもよろしいですか。それともご主人立ち合いの下実施したほうがいいですか。もしかすると亡き奥様がご主人には秘密にしていた友人関係などがわかってしまうかも知れません」

「ふぅ。自分でみる勇気はないので、警察の手による確認をお願いします。それで結果だけを教えていただければと思います。悪い事実が分かったとしても」

「わかりました。それでは署に持ち帰らせていただきます。あっ、そうだ、最後に一つだけ確認させてください。ちなみに、ご主人の血液型はなんですか」

「私は、B型ですがそれが何か」

「いえ、特に深い意味はありません。あまりにも悲しみの余り最悪の選択をされようとしていたのでもしかしたらB型なのかなと思ってしまっただけです。的中しましたね」

「はぁ、そうですか」

「おやっ、その右手の絆創膏、どうされました。怪我ですか」

「えっ、あぁ、こ、これですか。帰ってきて倒れている妻に近づいて抱き起こそうとした時、刺さっていたナイフに当たったんです。それで刺されたんだと気づいたんですよ。びっくりしてそれ以上は触らない方がいいと思い離れました。それで絆創膏を貼ったんです」

「ああ、そうだったんですね。じゃあ、ナイフに付着していた奥様以外の血液はご主人のものだということなんですね」

「えっ、ナイフに付いていたんですか。あ、それはご迷惑をおかけしました。でも、私と妻は同じB型なんですけど」

「現代の分析技術を持ってすればわかるみたいですよ。じゃあ、スマホは私の方で確認させていただくことにしますね」

「はい、よろしくお願いします」

 こうして五本木百合のスマホの内容は警察の中で確認することになった。山丘刑事はスマホを持ち帰り、内容を確認してもらうべく鑑識に依頼した。同時にスマホに付着した五本木京一の指紋の照合も依頼した。そして、署内では被害者の夫の血液型とナイフに付着したのは夫の血液だということが確認された。

続く



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