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臨場感はどれくらい大切なのだろう?

 演劇の映像化は、作品のマネタイズのためにとても大切なことです。時間と空間が限定されたエンタテインメントだからこそ、映像化して別の需要に対応することができます。なかなかチケットが取れない劇団とか、有名なタレントが出演している作品は、既存のファンがたくさんいるので、映像を保有する所有欲を満たしたり、作品の中身を知りたいという知的欲求を満たすことになります。とはいえ、映像化された演劇は、どこか物足りなさを感じて、なんとも言えない違和感を抱きます。例えば音楽ライブであれば、映像化されたとしても、それ単体で作品性を生み出し、もちろんライブ会場で感じるものとは違いますが、それはそれなりにまっすぐに受け取ることができる気がします。でも、演劇の場合、たとえ様々なカメラワークなどで臨場感を出そうとしても、どこか偽物というか、大きな劇場の後ろの安い客席から観ているような、本物を質を落として観ているような、少し残念な感情が、常に心の片隅ありながら、映像だから仕方ないと納得させながら観る感覚になってしまいます。「劇場で観る演劇」>「映像で観る演劇」の状況をどうしてもぬぐえないのです。それはでも、当たり前のことで、演劇はそもそもその場に創られた空間と時間が醸し出す文脈や行間などのメタなも全部を物語として楽しむということが定義みたいなものなので、映像化するとその情報の一部か大半が削ぎ落されてしまうからだと思います。

 ということは、臨場感のない演劇というのは、常に何かを犠牲にして作品としての価値を下げていることになります。つまり、本来の演劇の価値を失っているということです。映像はあくまでサブで、マネタイズの手段の一つにしかならない、これが今までの演劇の宿命だと思います。

 ところが、演劇をオンラインにしなければならなくなりました。無観客で映像配信にスイッチしなければならなくなりました。演劇の本来の価値に目をつむり、映像化して届けざるを得なくなっています。みなさん、この状況に打ち勝つために、さまざまな視点で、新しい方法を競うように生み出し、チャレンジし、成功している方もいらっしゃいます。

 オンライン演劇における臨場感とはなんなのでしょう?観客がテレビやPCの前で観ている限り、画面のこちら側には常に日常が広がり、とても臨場感など感じられません。テレビでドラマを見たり、PCで映画を観たりするのと同じ状況で、確かにおもしろいのですが、それは演劇なのかテレビドラマなのか区別がつかなくなってきます。ドラマや映画は映像作品としてのポジションをがっつり作り上げていますが、そこに演劇がおじゃますると、結局、演劇ではなく、そちら側の価値観に寄って行ってしまいます。そうすると、オンライン演劇の質の低さに考えが至ってしまうことになります。では、ライブでやればいいのでしょうか?確かにそれは、ひとつの臨場感であり、ドラマや映画とは違う価値を生み出します。しかし、もともとライブストリーミングがあらゆる形で行われている中で、今度は、そちらの価値判断で観られてしまう気もします。そうすると、冗長な演劇は分が悪い感じになり、ストリーミングのスピード感に縛られた作品でないと受け入れてもらえないかも知れません。じゃあ、例えば、劇場に観客を入れて、演劇をライブ映像で観てもらうというのはどうでしょう。確かに臨場感がある気がします。でも本来、映画がそのような方法で確立しており、それが単にライブになった、かつ映像や音響の演出は映画に劣るという、なんだか、映画の真似事レベルのような感じになってしまいます。

 私の頭で考えられる演劇のオンライン化は、どれも中途半端で、「新しい演劇様式」になる気がしません。奇をてらうのではなく、地に足を着けた新しい演劇の姿は、もっと広く、横断的に考えていく必要があるのかも知れません。演劇が持つ価値を掘り下げて、新しい側面に光をあてることで、全く新しい価値を生み出せるのかも知れません。劇場で観劇するという臨場感が演劇の重要な価値であることは間違いないと思いますが、それを再現することに注力しすぎると、余計なことばかりに目が行ってしまい、ほんとうに大切なことに気づけなくなってしまう気がします。

 今回、何らかの形で、オンラインでの演劇公演を行うつもりで進めていますが、演劇であることの本質的な価値について考えながら、演劇にしかつくれないものの何かを形にできればと思っています。(泉湧々)

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